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16 春、裏庭
「天。いらっしゃい。」
その日の御桜は初めからいつもと違った。
先ず、病室へ入ると御桜はすでに車椅子に座っていた。足に大怪我を負った御桜はまだ自力では歩くことができないらしい。春になったとは言え、まだまだ風の冷たい屋外へ出るための防寒をしていた。
けれど、違うのそれだけではなかった。
いつもと表情が、話し方が、仕草が、違った。
天はそんな御桜を初めて見た。だから、天には御桜が何を考えているのか、何があったのか、全く分からなかった。
違うということは分かるのに、それ以外は何も分からない。
歯がゆい。歯がゆいが、何も聞いてはいけないような気がして、天はそのことに関して口を開くことはできなかった。
「裏庭の桜が咲いたの。見に行かない?」
2人はゆっくりと裏庭へと向かう。御桜が乗る車椅子を天が押しながら、2人は他愛もない話をした。
やっぱり、御桜はどこかいつもと違った。
御桜の入院する病院は、何年か前の改築により、近代的で開放的な造りをしている。
病院独特の白壁ではなく、薄い緑色や木材が使われている。
中庭にはこの病院のシンボルとして大きな桜の木が植わっている。利用者はその桜が咲くと、中庭でお花見ができるようになる。毎年桜の季節、中庭はとても盛況だ。
対して裏庭は、改築前は沢山の人が桜の季節になると集まっていたが、改築されてからはあまり人は来なくなった。しかし、そこにはとても立派な桜の木が一本だけ植わっている。改築前はこの木が病院のシンボルだった。
天と御桜が裏庭へと続く垣根道を進んで行くと、目の前に大量の薄桃色が広がった。
「わぁ…」
思わずため息が出るほどその桜は美しかった。
凛とした佇まいの中に潜む荒々しさ。その淡い花びらの一枚一枚が、苔生した茶色い幹が、懸命に生きていることを誇らしげに主張しているようだった。しかし、それらはそこはかとなく儚い。これ以上近ずいたら消えてしまいそうな儚さ。アンビバレンスな光景だった。
天は殊更ゆっくり車椅子を押して桜の木に近づく。
丁度桜の枝の先端部の真下あたりで止まった。
2人は暫く口を開くことも忘れて、その光景に見入っていた。
毎瞬、眼に映る違う景色。
風に揺れる枝。
舞い上がる花びら。
うねうねと曲がりくねる幹。
蠢く薄い桃色と、白い木漏れ日。
擦れ合う花びらのざわめき。
「天、あのね。」
御桜の声がざわめきの隙間から優しく入り込む。
視線を下へと移す。
そこには桜の美しさにも霞まぬ少女の姿があった。
春の光に透かされた御桜は、風の中へと溶けていってしまいそうで、あまりにも儚い。
春の光に透かされた御桜の姿を見るのは初めてではない。教室で、通学路で、屋上で、天は幾たびもその美しさを眼に納めてきた。
けれど、今の御桜は今まで見たどんな姿とも違った。
あまりに儚くて、哀しい。どうしてだか、泣きたくなるような、美しさ。
「私の足、もう動かないんだって。」
少しだけ顎を上げて桜を見上げている。
「先生がなんか色々言ってたけど、忘れちゃった。とにかく、もう、二度と、この足で立つことはできないって、それだけは覚えてる。」
御桜がゆっくりと振り返る。
いつも通りの顔。
いつも通りの飄々とした顔。
御桜の瞳が、天の瞳と交錯する。
どれだけの時間が経ったのか。天は口を開く。
「両足…?」
小さいけれど、掠れてない。
「そう、」
「両足。」
御桜の声も震えてない。
なのに御桜の頬を雫が流れていく。
次から次へ。
御桜の表情は何も変わっていないのに。
声は何も変わっていないのに。
止まっていた花びらのざわめきが耳のすぐそばへと戻ってきた。
天には見えた。一瞬。
御桜の表情が、歪むのを。ざわめきに隠そうとした痛みを、天は見た。
その瞬間に、固まっていた天の体は、思考を置き去りにして動いた。
御桜の正面へと回り込み、抱きしめた。
ビクリと揺れた肩を、強く抱き寄せる。
ぎゅっと、強く。
密着した互いの鼓動が重なり合った頃、御桜の涙腺は壊れた。
小さな子供みたいに声を上げて泣いた。
天の細い体にしがみついていた。天も同じ、それ以上に強い力で抱きしめ返した。
天も泣きたくなった。けれど、天には泣くことも、声を掛けるも許されなかった。
ただ御桜を抱きしめて、温もりを分けることだけ。
御桜の泣き叫ぶ声は、春の風に乗って、青空へと溶けていった。
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