2 初夏、美術室

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2 初夏、美術室

 「じゃあまた明日」  そう言って別れる放課後の教室。生徒たちの顔に個性が宿る。学校は生活に組み込まれた一部であり、学校だけが生活の全てではない。  学校での姿と、それ以外の姿。あらゆる顔の入り混じる、黄昏の時。 「うん、またね」  毎日繰り返されるやり取りは、最早無意識のうちに行われる。 天も御桜にそう返して教室を出た。廊下を進んで階段を下りる。  四階から三階、二階、一階、そして地下一階へ。 再び廊下を進んで突き当たりにある引き戸を引く。    そこは放課後の美術室。油やインクの匂いが一気に押し寄せる。石膏像を囲むようにイーゼルが立ててある。  既に三名ほどが石膏像と格闘していた。  そのうちの一人、木炭をキャンパスに走らせていた生徒が振り返った。 「あ、サナちゃん。」 「よっ」 手を上げて応えると、声の主の元へと近づいて、 キャンパスを覗き込む。 「おーさすがピーちゃん。相変わらず上手いね。」 「そんなことないよぉ」  謙遜しながらはにかむ彼女は、鳥越夜乃。 天と同じ美術部の部員で、天の尊敬する人でもある。 中学一年とは到底思えないほど絵が上手い。しかしそれを鼻にかける事もなく、むしろ褒めると恥かしがってしまう。そんな夜乃を天は事あるごとに可愛いと愛でている。  顔立ちは目立つ部類ではないのに、仕草の一つ一つが小動物的で可愛らしい。 ピーちゃんというあだ名もそんな様子の夜乃を見た天が名付けた。鳥越の鳥と、小鳥の鳴き声から取っている。 天も夜乃の隣の椅子に荷物を降ろす。乾燥棚にある自分のキャンパスを取ってイーゼルに立て掛けた。 キャンパスの画面一杯に暖かな色が広がっている。  それは、屋上の絵だった。初夏の輝く様な草達が空へと競いながらすくすくと育つ様子は、見る者をとても元気にさせるものだった。 見ているだけで温かな感情が流れ込んでくる様な、そんな絵だった。  六月の半ばのジメジメとした空気の中、一つの言葉も交わすことなく、それぞれが筆を一心に滑らせる。 美術室にはいくつかの音だけがこだまする。 ザッザッ。 ペタペタ。 ガリガリ。 そして、自らの呼吸の音。  微塵の雑音も雑念もなく、全身で絵と向き合う瞬間。 天はこの瞬間が何よりも好きだった。 幼い頃から体の弱かった天は、学校も休みがちで、入退院を繰り返す日々だった。 毎日たくさんの時間を持て余した天は絵を描く様になった。 そして一時期入院していた頃、病院内の絵画コンクールで金賞をとった。たくさんの人から褒められて、天は絵を描けばみんなが笑顔になってくれることを知った。病院という場所で過ごすことの多かった天にとって、人々は皆、無表情かしかめ面かのどちらかだった。だから自分の絵でみんなが笑顔になってくれたことが、 金色のメダルよりもずっと嬉しかったのだ。 それ以来、天は絵をほとんど義務の様に描いた。 天自身そうして絵を描くことにたまらない充足感を覚えるようにもなっていたから。  それは中学生になった今でも変わらず、大した迷いもなく、美術部を選んだ。 そこで出会った夜乃は天にとって、生まれて初めて出会った絵のことについて話せる友人だった。 御桜とは違う面でとても大切な存在だ。御桜も夜乃もどちらもとても大切で、比べるつもりも無く、また、 比べるものではないとも思っていた。  入学からたったのニヶ月やそこらで、こなにも大切な存在を得られたこと、それ自体が かけがえのないことであった。  だから放課後の美術部は天にとってとても居心地の良い場所だった。  御桜は今頃バレエかな、と、御桜に思いを馳せつつ、次第にそれも頭の片隅へと消えて行き、天はただ目の前のキャンバスと向き合った。
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