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3 夏、屋上
「バレエに行きたくない。」
御桜が突然そんなことを言い出したのは、梅雨入りももう間近に迫り、肌に張り付く湿気が鬱陶しさを増す昼休みだった。
「どうしたのさ?」
何かあったのだとすぐに悟った天は、慌てずにいつもと変わらないトーンで聞き返した。
それに気持ちが落ち着いたのか、御桜も気負うことなく話し出した。
「あのね、私の通ってるバレエスタジオって
結構本格的でね、将来バレリーナになりたいっていう人が沢山いるの。」
いつもよりゆっくりと喋り出した御桜が語ったのは、バレエが好きだから故の悩みだった。
バレエは好きだけれどそれを職業にするつもりのない御桜は、技術的に同じクラスの生徒よりも少し劣っていた。長年続けている御桜が所属するクラスの生徒は、プロのバレリーナを目指す人ばかりで、御桜も決して適当にやっている訳ではないものの、やはり遅れてしまうのは、最早仕方のないことだった。それを知っている御桜は、今まで特にそのことに気を病むことも無かった。御桜自身もそのことを受け入れていたし、同じクラスの生徒とも仲が良く、先生も他の生徒と分け隔てることなく接してくれていたから、居心地の悪い思いをしたこともなく、むしろ居心地のいい場所ですらあった。
しかし、発表会を二ヶ後に控え、御桜は選択を迫られていた。
御桜の通う教室では、一年に一度、八月下旬に発表会が催される。クラス毎で一から三演目を踊る。上位の生徒はソロで踊ったりするし、大人数の演目でもポジションはレベルによって変わってくる。プロを目指す人の多いこの教室では、殺伐とすることはないものの、皆が腹の中で逸物を抱えている。妬み、嫉み、又尊敬もバレエの世界では日常茶飯事に過ぎない。皆がトップ、則ちプリンシパルを志しているのだ。
そんな中で御桜は明らかに浮いていた。御桜は純粋に踊るのが好きなだけで、戦いの世界には立ち入らない。
ただ、御桜は戦いの世界に身を投じる仲間達を尊敬していた。邪魔をしたくないとも思っていた。
御桜は選択を迫られているのではなく、自ら選択を迫ったのだ。
中途半端な自分が出演しては、みんなに迷惑をかけてしまうかもしれない。大人数の演目では、一人劣った人がいるだけで、演目のできが変わってきてしまう。調和を乱すことは許されない。御桜は戦う仲間達を邪魔したくなかった。
先生達も友人も、御桜が出演することを疑っていなかった。当たり前に数に数えられている。それがまた、御桜にとっては重荷であった。バレエを始めて八年。御桜は始めてバレエをすることに戸惑いを感じていた。
「ふーん。あのさ、御桜が踊ってるとこ見たい。」
話を聞いた天は、あっけらかんと言い放った。まるで、大したことではないというように。
「えっ、急だね?」
「 だってそこまで言われたらさ、どんなものか見てみたいって思うじゃん?なんか、簡単な動きでいいから見せてよ!そしたら、私が御桜
が発表会に出るか出ないか、決めてあげる!」
御桜は珍しく仰天していた。そんなに簡単に決めてしまえるものなのだろうか?馬鹿にされているわけではないというのは、わずか二か月でも一緒に過ごしてきた御桜には分かったが。だったらなんでそんなことを簡単に言えるのだろう?御桜は焦った。
しかし、天のキラキラした笑顔を見ていたら、今まで自分が悩んできたのが、随分と馬鹿らしく感じられてくる。そして、なぜ簡単に決めると言ったのか納得した。
「おう!今だけ大出血サービスで一曲踊っちゃうよ!」
御桜の顔は憑き物が落ちたようにスッキリと晴れやかだ。
上靴を脱ぎ捨てて、プランターのない開けた場所まで駆けて行った。御桜はポケットから隠し持っていた音楽プレーヤーで曲を流し出した。小さなそれは、割れた音が優雅なメロディを奏で出した。
体の横で開いた腕を、滑らかな曲線を描いて真上へと動かす。爪先だけを地面につけていた足が大きく蹴り上がって止まった。水が伝っていきそうな丸みを帯びた腕と、股関節から爪先にかけて重力に逆らって伸びた足。
手足の先から、目線、髪の毛の一本一本まで神経が通っているのではないかというくらいに全てが繊細で緻密に計算されたような動きだった。
天は息を飲んだ。御桜の踊りには、目を惹くものがあった。繊細さだけではない、大胆さ。長年積み重ねてきた筋力と体力。天にはバレエなど全くの門外漢だが、確かに技術力はまだまだ粗削りな部分も多いのだと思う。
しかし、何よりも目を引かれるのは、御桜自身が一番にバレエを楽しんでいるからだ。それが、見ている方にもすごく伝わってくる。
だから、天も思わず笑顔になってしまった。
そう、発表会に出るか出ないかなんて、とっくに分かっていたのだ。
天は御桜の踊っている姿を見て、人間はこんなにも美しい形を作れるのかと愕然とした。
見ていて苦しくない、水が流れていくような心地の良い滑らかな形。そんな心地よさとは裏腹に手足に浮いた血管に、その形をとることの難しさを教えられる。
天は、トクトクと胸が打つのをどこか遠くで感じていた。
御桜の体が余りに綺麗で。
だから、その姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。
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