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五 自然児と恋の魔物(三)
一人の人に執着し、欲するという、ただそれだけの事が、この「自然児」をこれほどグラグラさせるのか。そう考えると、「恋」という魔物は、実に侮れない。
あさましや こは何事のさまぞとよ 恋せよとても生まれざりけり
(源俊頼)
あまりにも余裕のないその姿に、つい、らしくもなく古歌など呟いてみる。
人に囲まれて育ったために、慎吾は本来、他人との距離のとり方は中々に器用だ。だがとりつかれたら最後、どんな人間も骨抜きにしてしまう魔物の前に、その天性の勘も狂いっぱなしらしい。もう少し早い段階で軽く足場を作っておけばよかったのに、募り過ぎた恋心に平常心を失い、見ていられないぐらいにオタオタしている。
大山は慎吾の「備忘録」に最後まで目を通し、一旦机の上に置いた。予想通り、話はあちらへ飛びこちらへ飛びして無茶苦茶だ。だが言いたいことは判るし、よく考えられている。実務にも携わり、あの上官から散々注意を受けたせいもあるのか、意外なほど細かい部分にも目がいっている。元々全体を把握し、大筋を捉えることには非常に長けているのだから、そうなると鬼に金棒だ。
あいは、大きゅうなるんじゃろうなあ。何せ、あん「うどさあ」―――大西郷の弟じゃっで。 (※うどさあ=偉人)
心の中で呟き、大山は木筆を取り、話の筋道通りに番号を振る作業を始めた。
有朋も、慎吾を買っているからこその、あの「しごきぶり」なのだろう。それにしても、あの「自然児」を矯正しようなど、とてつもない難事業だ。人並の根気ではどうにもならない。少なくとも大山は、「何でもするからそれだけは勘弁してくれ」と平身低頭して辞退する。
何をやっても「慎吾どんだし」と許されてきた幼馴染。そんな自然児に正面から向き合い、真剣に育て上げようとする上官に、「恋心」など抱いてしまうのも何だか判る気がする。
じゃっどん―――あの慎吾どんじゃっでなあ。
西郷慎吾という男は、実は相当な「曲者」である。
今は自分のほうがぐらついているからそんな余裕もないだろう。だが、一旦「距離感」を掴んだ時の慎吾というのは、時々首根っこ掴んでぎゅうぎゅうに締め上げたくなるほどに腹立たしい。こちらの都合などお構いなしに甘え、図々しいことこの上ない。何も判っていないだろうと軽くみていると案外何でもお見通しで、ちくりちくりと逆襲する。イタズラ好きで、他人の隙を見逃さない。特に得意になっている人間の高い鼻を折ることを好み、得意の絶頂で話している時に、例えば茶碗の中身をすりかえられたとか、硯の上にカエルを置かれたとか、ささやかなイタズラで恥をかかされた犠牲者は数知れず。
それもまた、天性の勘が働くのだろう、何とも愛嬌満点で笑いを誘うものだから、これも「慎吾どんだし」で許されてきた。
この「恋」の行方がどうなるのかは全く見当もつかない。だが、大山はあの幼馴染に本気で想われてしまった上官にも、同情を禁じえないでいる。
どうか騙されないように、と願う。
あいは、無邪気な犬っころの皮ば巧みに被った腹黒タヌキじゃ。
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