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三 兵部小輔の困惑(一)
出勤日、休日を問わず、早朝三十分ほど槍を振るうのが有朋の日課である。休日のこの日も庭で愛用の長槍を振るっていた有朋に、呑気な声を掛けた者がいた。
「よおー山縣」
朝っぱらからうるさい男が来た。小輔として大蔵省を預かる、古馴染みの井上馨だ。有朋より三歳年長になる。
「何の用じゃ、井上さん」
有朋は手を止めず、視線も向けずに言った。
「お前さん、小西郷に告白されたらしいの」
がく。
膝から脱力しそうになるのを辛うじてこらえて、有朋はようやく動きを止め、地面に槍の柄を突き立てた。
「何じゃて?」
「今朝、三浦が自分じゃよう訊かんけえに、わしにお前さんの貞操がどうなったか確かめて欲しいちゅうて転がり込んできた。素っ裸の小西郷と閨に雲隠れしたそうじゃねえか」
「………」
あの男………!
黙って立っていれば立派な男前。だがやる事なす事ロクなものではない。九歳年少の部下の顔を思い浮かべ、思わず槍を握る手に力がこもる。
あのお調子者の人間瓦版がっ!
井上の耳に入った以上、「小西郷の告白」は、もはや長州人の共通了解事項以外の何ものでもない。もっとも、何でも聞きつけてくるために、主君じきじきに「聞多(ぶんた)」の異名を授けられた井上は相当な地獄耳だ。お祭り好きで噂好き、と囁かれる長州人の間に、この手の噂が広がるのはまさに「燎原の火のごとし」、なのである。しかも、ハゼ顔負けの尾びれ背びれつきで。下手をすれば火のないところにでも盛大な煙が立つ。
いつか縁を切ってくれる。
怒りに身を震わせる有朋を完全に面白がる様子で、井上はにっと唇の端を上げる。
「しかし、小西郷か。あれは中々に年上殺しじゃのー。大久保さんも、あの男には甘甘じゃ」
「………井上さん」
「鹿児島もんは、妻と男の恋人を持って初めて一人前じゃそうじゃけ。まあ、これも可愛い部下のためじゃ。ここは一肌、いやきれいに脱いでやるんが上のもんの務めっちゅうもんじゃろう。いやー、しかし小西郷も趣味が悪いのー」
あっはっはっ、と高笑いする井上に、有朋が即座に槍の切っ先を向けたのは言うまでもない
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