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三 兵部小輔の困惑(二)
お祭り大好き、揉め事上等の古馴染みを追い返した有朋は、気を取り直して再び槍を振るう。
十代の頃、槍で身を立てようと思った。「蔵元付中間」―――年貢米の管理を役目とする家に生まれた有朋は、泰平の世なら「武士」の範疇にすら入らず、武術を修めることすら許されない身分の出だ。下級武士の象徴のように言われる「足軽」よりも更に低い。幕末の混乱の中、長州藩はその最下級の卒族にも、武術の修行を許した。それでも剣術でなく槍術を選んだのは、やはり遠慮があったからだ。そして、いかに身を修めたところで、有朋の身分では藩の下っ端役人で終わるしかなかった。
だが、時代が味方した。藩の兵学師範を務めたこともある吉田松陰が主宰する「松下村塾」に入った幼馴染の縁で、藩から京の情勢探索の役目を与えられた。二十歳のときだった。働きを認められて士分に取り立てられ、攘夷のための有志隊の一つ、「奇兵隊」に入り、幹部に抜擢された。「朝廷」と「賊軍」―――旧幕府軍がぶつかった戊辰の戦では実質的には奇兵隊の総督として隊を率い、東北に赴いて「賊軍」と戦った。
内乱を終え、時代は明治となった。有朋は西郷慎吾と共に、軍事制度視察のためにヨーロッパへ渡った。一年後に帰国した今は、兵部省を預かり、日本帝国陸海軍の建設を担う。四百年にわたる鎖国を解いたばかりのこの国を、欧米列強に伍する一流国にするために。
それが三十四歳になった山縣有朋の、現在の立場である。
『大好きじゃ、山縣さあ』
大好き。
そんな言葉は、久しぶりに聞いた。酒臭い息でほとんどわめくように言われたところで、情趣などかけらもないが。
使い慣れた料亭である。初めてのことでもないので、有朋は主人に簡単に断りを入れ、大柄な身体を別室に運びこんだ。部屋は暗かったが、庭にかがり火が揺れており、その灯りを頼りに寝巻きを着せて布団に寝かせ、有朋は一息ついて部屋を出ようとした。
「………山縣さあ」
小さく声がした。
目を覚ましたのかと振り向けば、慎吾はせっかく掛けてやった布団を蹴りのけ、だらしなく身体を伸ばして「山縣さあ」と繰り返す。
「西郷君?」
有朋は小声で呼びかけた。目を覚ましたなら、水でも持ってきてやろうかと考えたのだが、返事はない。
寝言か。この男に、寝言で名を呼ばれる覚えなどないのだが。
有朋は、布団を掛け直しに再び慎吾の傍らに膝をついた。ん、と慎吾が喉の奥で何か言う。
「西郷君」
障子越しに揺れるかがり火の灯りだけの部屋に、輪郭がかすかに浮かび上がる。
「………好きじゃ」
「―――」
寝ているのか、起きているのか。
どっちにしろ、目の前に長々と横たわっているのは、どこから見てもまごうことなき酔っ払いである。
有朋は再び吐息を洩らし、布団を掛け直して部屋を出た。もう、背に声はかからなかった。
☆
有朋は、槍を宙に突き出した。ビュッ、と、空気が鳴る。
闇に溶けた小さな声に、その前と同様に軽く「判った」と答えられなかったのは―――真摯な響きが、そこにはあったからだ。
『………好きじゃ』
二度、三度と、切っ先が空を切る。
どういう、つもりか。
見えない何かと戦うように、有朋は槍を振るい続けた。
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