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四 君の名に心は騒ぐ(一)
二日酔いも何とか抜けた休み明け、慎吾はいつもよりは早めに出勤した。もっとも、有朋は、当然のように既に来て仕事をしており、川村も大山も、三浦も鳥尾も皆来ている。要するに、遅刻魔の慎吾が、始業前に来たというだけのことだ。
隣にかけている三浦の頬には、何故か一昨日にはなかった青あざがあった。
「あ、あの」
おずおずと有朋の前に出た慎吾に対し、上官の態度はいつもと一切変化はなかった。悲しいほどに。
「おはよう。今日は遅れんと来たの」
「………おはようございもす。で、その、あの」
先日のことを話そうとすると、ピキ、と、空気が凍ったように思ったのは気のせいか。いや、多分違う。
「早う席につけ」
静かに告げられる言葉に、慎吾はぐっと詰まったが、しかし、せめて詫びと礼だけは言っておかねば。
「その、一昨日は、すみもはん。そいで、その」
「別に気にすることはねえ。まあ、あんまり呑みすぎんようにの」
席につけ、と再び冷ややかに言われた慎吾は、しゅんと肩を落として席についた。
周囲の視線が痛い。ひとつため息をついて、慎吾は書類が山のように積まれた自分の机を見た。慎吾の整理下手は周知のことで、よく兵部省に顔を出す大蔵小輔の井上馨などは、「おめえの机の上にだけカマイタチでも通ったか」と慎吾をからかったりする。がさがさと書類を漁りながら、慎吾はちらと上官を見やった。
有朋は一体、慎吾の何倍の書類を管理しているのだろう。見当もつかないが、整然と並べられた書類籠、そして美しいまでに片付いた机の上が、この上官の几帳面さを如実に物語っている。更に、書類籠には表題もつけられていないのだが、それでも有朋が書類を探しているところを、慎吾は一度たりとも見たことがない。記憶力も群を抜いており、大抵のことは業務日誌を調べるよりもこの上官に尋ねたほうが早い。
慎吾の年には、既に六百人の有志隊―――「奇兵隊」を束ねる立場にあったという。欧米での一年間の兵制視察を終え、すぐに兵部省の責任者に任命された。半年前のことだ。その頃の兵部省は、内部分裂を起こして方向も定まらぬ状態だったのだが、有朋はどうにかそれを建て直し、兵制改革を軌道に乗せた。今は、「陸軍省」と「海軍省」の分立を視野に入れるところまで来ている。陸軍の長は有朋、海軍の長には川村を当てる予定だ。
小さいが、鋭い光を放つ眸。槍術で鍛えた身体は、まるでそれ自体が一切の「贅」を削ぎ落とした長槍のようだ。その痩身は武道の型に則ったように、一分の隙も無駄もなくきびきびと動く。無駄口を叩かず、愛想もない。
ただ、面倒見だけはやたらにいい。超のつく多忙さの中で、よくあれだけ目配り・気配りが出来るものだと、慎吾などは時折感心を通り越して呆れるほどだ。時に優しく、時に厳しく、決して遊ばせず、押し潰しもせず、有朋は部下を一人ひとり育てる。
薩摩人は、寡黙にどっしり構えて動かないことを美徳とする。西郷吉之助しかり、そして大久保一蔵しかりだ。その基準からすると、有朋の在り様は「集団の長」という概念からかけ離れていた。
仕組みを作り、人を作る―――その「組織力」は稀有のものだ。この男がいたからこそ、身分も年齢も雑多な有志隊が、長州藩の大きな戦力となりえたのだろう。
「………山縣さんは、手強いぞ」
ボソッと隣の三浦が呟いたので、慎吾は虚を衝かれ、思わず椅子を蹴り倒して立ち上がった。
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