五 自然児と恋の魔物(一)

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五 自然児と恋の魔物(一)

「おめえ、これが上官に提出する書類か。清書ぐらいせえ」  兵部省の仕事部屋に、有朋の説教が響く。  ………またやっとる。  慎吾に説教する有朋、という、兵部省でのおなじみの光景にちらりと目をやって、大山弥助は小さく吐息を漏らしてから、再び手元の資料に目を落とす。  懲りもせずに怒らせる方も怒らせる方だが、毎回毎回説教する方も実に根気がある。  例の「宴会告白事件」から十日が過ぎたが、有朋の慎吾に対する態度は、周囲が見ている限り一切変化がない。オタオタしているのは慎吾一人―――いや、それに加えて兵部省幹部、特に長州人の動きがやや不穏か、というところだ。  有朋の広い洋風机の前で「気をつけ」の姿勢で立ち尽くす幼馴染は、やめておけばいいのに反論を試みた。 「じゃっどん、清書ばしよったら間に合わん」  あのバカ、と大山は内心思う。口で慎吾があの上官に敵うわけがない。 「今日が提出日なんは初めから判っちょったじゃろうが。清書が必要なもんなら、きちんとそれに間に合うように内容をまとめるんが当然じゃ」  案の定、ビシッと封じられて黙り込むしかない。  室内には川村も三浦もいるが、あまりにも「いつものこと」なので誰も顔も上げない。 「大体おめえは、提出日より早う出そうという気がまるでねえ。提出日ちゅうのは最後の最後の期限じゃ。毎回毎回注意されるんが目に見えちょるんじゃけえに、何で一日でも二日でも早う上げてこん」 「………」 「明日の朝まで待つけ、直してこい」 「………あい」  慎吾はしおらしい態度で報告書を受け取り、足取りも重く自席へ戻る。そこへ、笑いを含んだ声が投げ入れられた。 「やっちょるのう」  大蔵小輔の井上馨だ。有朋は古馴染みの姿を見て、気持ちを落ち着かせようとするように軽く息を吐き出した。 「………井上さん」 「ちいとええか」  井上が書類をひらひらさせると、有朋は察した様子で部屋を出ていった。様子を見るに、多分、予算の話だろう。  席に戻った慎吾は、しばらく差し戻された書類を前に腕組みをしていたが、気を取り直した様子で、机の端に押しやっていた筆に手を伸ばした。  途端、肘が当たって、ばさばさっ、と積みあがっていた書類が崩れる。  大山は、再びそっとため息を漏らす。  ………整理すればいいのに。  そうは思うのだが、慎吾の散らかし癖、片付け下手は、郷中に「慎吾どんの髪結い」という慣用句を生んだほどに有名だ。  慎吾が髪を結う時には、部屋中が切った髪やら広げた紙やらハサミやらで足の踏み場がなくなるのが常だった。よって、足の踏み場がないほど物を散らかすことを、慎吾の郷中では「慎吾どんの髪結いんごつ有様じゃ」と言って笑ったのである。  大山はしばらくちらちらと幼馴染の様子を盗み見ていたが、物は倒す、紙は崩す、墨はこぼすのあまりの様子に、はあ、と一息ついて立ち上がった。  この有様では、とてもではないが明日の朝には終わるまい。というより、書類を作成する時間と机の上のゴミの山と格闘する時間とどちらが長いか知れたものではなく、時間の無駄だ。 「慎吾どん」  慎吾の机に歩み寄り、愛用の木筆(鉛筆)を三本差し出す。 「走り書きでんよかで、文章だけ作れ。清書ばおいがやっで」 「文章はもう出来とっ。………ただその」  大山が机の上の書類を覗くと、そこにあるのはどう贔屓目に見ても、「備忘録」である。これが「書類」なら、子供の落書きも立派に文書庫入りだ。  こんなものを「出来ました」と言って提出すれば、雷が落ちるのは目に見えている。この男には何故それが判らないのか、大山にはそっちの方が判らない。  ため息をつきつつ、大山は机の上の書類をひょいと取り上げる。  内容は、どうやら東京守護兵の役割と業務分担についてらしい。慎吾は中々に達筆なのだが、達筆すぎて、気心の知れた大山でさえ時々読めない。  この男のことだから、発想は決して悪くないはずなのだ。ただいかんせん、筋道だった思考に乏しく、考えがあちらこちらに飛躍する。だから書き付けも卓上もこういう有様になってしまう。  それだけに慎吾の思考は柔軟で、守備範囲は広い。その「融通無碍」では、恐らく大山はこの幼馴染に到底及ぶまい、と心中ひそかに思ってもいる。それがこの男の個性というものだが、多少は矯正しなければならないのが、社会であり、「役所」というものなのだ。 「弥助どん、そいはおいん仕事じゃ」  取り返そうとする手を避けて、大山はポン、と書類で慎吾の頭を叩く。 「よか。人には向き不向きがある」  構わず大山は席に戻った。慎吾はさすがに申し訳なさそうにぺこりと頭を下げ、今度は調べ物でもするのか、机の上のゴミ溜り、もとい書類の山の中をがさがさと漁り始めた。
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