第7話「あの街に。あの森に、始まりの場所に」

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第7話「あの街に。あの森に、始まりの場所に」

「そがら先は行っちゃあいかん」  雲まで届きそうな巨大な壁の前で立ち止まっていると、老人に声をかけられた。  歯車の都市ヒョグの郊外に住んでいるというその老人は、壁の近辺を歩く者達に忠告しているのだという。 「おっがねえ隠奴(オヌ)が住む処だでぇ。お前ぇらみてぇな子供(ちっご)は喰われちまうどぉ」  ひどく訛った言葉を使う老人は、手で口を作り、ばくりと手を閉じた。  オヌ、とはおそらく鬼の事なのだろう。ここでは壁の中の人々をそう呼んでいるらしい。  この壁の内側で暮らす人々は鬼でもなければ人喰いでもない。  嘘も甚だしい。 「行こう、ミュノ」  外套(マント)のフードの陰でミュノが小さく頷く。  老人の横を抜けようとすると、皺だらけの腕がミュノのフードを掴んだ。  隠されていた緋色の髪が、日に晒された。 「お」  お前ぇ、と老人が目を見開く。 「お、おお隠奴の子だ。隠奴だあっ!」 「げっ、(まず)い。走ろう、ミュノ」 「うん」  何も無い荒れた道をひたすらに走った。  隠奴がいるどぉと騒ぐ老人の声が小さくなっていく。  代わりに、木造の壁面に大きな口が見えてきた。 「入り口だ」  人気(ひとけ)の無い古びたゲートを抜けるとすぐに、赤い煉瓦の街に差し掛かった。  適当な小路(こみち)を見つけて陰に隠れる。煉瓦の塀に背を預けて息を大きく吐き出した。 「ここなら、もう安全、だよね」 「私は大丈夫。今度はマトの番」 「え?」  何がと尋くより早く、視界が暗くなった。ミュノにフードを被らされたのだ。 「な、何?」  「これで良い」 「良いって――ああ、そういう事か」  髪を隠したかったのだ。  この街の住人は皆、髪が(あか)い。故に、壁の外から来た人間は一目で判ってしまう。そうなれば、トラブルの種には充分なり得るだろう。  改めてフードを深く被った。 「どう? 髪、見えてない?」 「うん。そのくらいなら大丈夫」  言いながらミュノが軽く整えてくれた。 「でも、ミュノこそ大丈夫なの?」 「何が?」  フードで(せば)まった視界の外から、ミュノが顔を覗く。 「いや、その――本当に今更なんだけどさ。急に家を出てっちゃったわけでしょ? ずっと帰ってきてないんだし、親とか知り合いとかが探してるんじゃないの?」  それは――とミュノが俯く。 「多分、大丈夫だと思う」 「……そう」  何故とは尋かなかった。尋けば答えてくれるのだろうが、わざわざそんな事をする必要は無い。もちろん、気にならないといえば嘘になる。けれども、ミュノが大丈夫と言うのだから大丈夫なのだ。 「そんな事より、そろそろ行こう。あの森――始まりの場所まではまだ距離があるから」  ミュノに手を引かれて日の当たる場所へ出た。暗所に順応していた目がちかちかと眩む。  目を庇いながら、早足で歩くミュノの背後(うしろ)についた。  様々な靴が縦横無尽に地面を歩く。  段々と目が慣れ、視軸を足許から正面へと上げた。 「わあ」  暖かい色合いに、また少しだけ目が眩んだ。  緋い髪の人々が、商店民家の間を静かに行き交う。  肉屋と思しき男が肉を手際良く量り、その隣の野菜売りは主婦に値切りの交渉を迫られている。すぐ向かいの店では、店主が何やら茶色い粉の入った瓶を取り出して、こちらもどうでしょうなどと客に勧めた。  普通だ。  一見すると、今までの街と変わらない風景だ。  けれども、どこかひっそりとしているように思う。決して沈黙しているわけではないし、活気が無いわけでもなさそうだ。  なんと言うかやはり――ひっそり、なのだ。  意識しているのかは判らないが、存在を潜めている感がある。そういう雰囲気が街中から煙のように立ち込めているのだ。 「初めて来た」  この台詞は正しくない。そもそも、どこへ行っても初めての地なのだからわざわざ声にする意味は無い。  でも、この街だけは違うのだ。  この土地には何度も訪れているのだ。と言っても、街に足を踏み入れた事は一度も無いのだけれど。  ここは、いつも遠くから眺めていただけの、あの街。始まりの街。魔法使いたちが住む街。そして――。 「ミュノが生まれた街」 「そう」  私が生まれた街と、ミュノが言った。 「まあ、正確にはちょっと違うけど」 「そうなの?」  うんとミュノが頷く。 「街は五つに分かれていて、ここはヒョグの近くだから――第五区、かな。私が暮らしてたのは第二区」 「へえ」  初めて知った。 「第二区へは――ここからなら歩くと二日くらいかかる」 「そんなに?」 「うん」  広いからとミュノはまた頷いた。 「うへえ」  もう一度、街の様子を見渡してみる。  屋根が見えて、煙突が見える。そしてそのずっと向こう。空へと霞む巨大な壁が、こちらを見下している。 「なんか、また大きくなった感じだ」 「何が?」 「壁が」  ミュノが首を傾げる。 「以前(まえ)から手は加えられてないみたいだけど」 「うーん、そうじゃなくて、壁の大きさを改めて痛感したって事」  ミュノは、ふうんと言うだけだった。  歩いても歩いても、ふと気付くと壁と目が合う。壁から近いという事もあって、どうしても壁の存在を意識してしまう。  スゾルでも巨壁は街の一部のように佇んでいたけれど、ここまでの閉塞感は無かったように思う。  暫く歩くと人が疎らになってきた。  広場で子供たちが鳥に餌を撒いて戯れていた。  見覚えのある鳥だった。  何の変哲も無い、ただの鳥。いつか森でミュノと追いかけた鳥だ。  子供の戯れに飽きたのか、鳥は足許に散乱する餌の粒を二、三、摘んで飛び去ってしまった。待て待てと呼びながら子供たちは鳥を追う。  子供たちがいなくなった広場はがらりと静かになった。 「あ、マト、ちょとここで――」  ミュノはそこで言葉を止めた。手を顎に添えて少し考えてから、 「やっぱりついてきて」  と言って手を引いた。 「え? あ、うん」  半ば無理矢理連れてこられたその場所は、これまでに見た露店とは明らかに違う、いかにも怪しい佇まいの小さな店だった。  その雰囲気の所為か、外装も他より暗く見える。  黒塗りの扉には、白い壺のようなものが描かれている。吊るされている看板には、何やら文字らしき図形がつらつらと並んでいる。  ――知らない文字だ。 「ふ、フールド、スオーネク……?」  それらしい文字に置き換えてみるが、やはり途中から合わなくなる。 「セ・ケノウ・ソドゥルー」  聞き慣れない言葉がミュノから発せられた。 「え?」 「魔草屋。右から読むの、これは。魔法で使う植物とか薬草を売ってるお店」  鉱物(いし)なんかもあると言いながら、ミュノは扉に手を掛けた。 「今では殆どの人が、外と共通の言葉を使ってるけど、古いお店だったり、老人だったりは、こうして古い文字を使ってるの」 「へえ」  ミュノは扉を開けた。  涼やかなベルの音を聞きながら、独特な匂いのする店内へと入る。  独りでに扉が閉まると、店の中は途端に仄暗くなった。 「そんなとこ突っ立ってないで、さっさと奥入っといで」  暗闇の奥から店主らしき老婦の声がした。  店の暗がりが、ほうと感嘆する。 「子供の客なんて珍しいねぇ。まあ良いさ、客なら何でも。好きに覧ていきな」  声の方で木が軋む音がした。  唯一天窓から射す光のお蔭で、辛うじて店内が見渡せる。ミュノと同じ体質である、ここらで住む人々ならこの程度の光でも充分なのだろう。  陳列台や棚には、瓶やら石やらが(なら)べられている。  瓶の中身は、葉や根といった用途が大凡想像できる物から、気泡が混じった不気味な液体や、何かの生き物を干した物など、用途不明な物まで様々だ。  梁からも何か吊るされているようだけれど、植物のようにも見えるし、生き物の手足にも見える。 「嬢ちゃん、お目当ての物は見つかったかい」  老婦の声が尋ねる。  ミュノは首を横に振った。 「お婆さん、咒紐(まじないひも)ってある?」  ああちょっと待ってなと、店の主が応える。動いているのか、また軋む音が聞こえた。  音の方へ能く目を凝らすと、奥に平台のような物が見えた。その上に影が一人、膝立ちになって引き戸を探っている。  あったあったと言って影はミュノを手招きした。 「ほれ。これで良いかい」 「うん。ありがとう」 「今時こんな(もん)が必要な程の魔法をやるつもりかい」  まあねとミュノは言った。 「まあ良いさ。何にせよ気を付けな。慣れない魔法なら尚の事だよ」 「うん」  品物を受け取り、ミュノと一緒に店を出た。 「それ、何に使うの?」  鞄に飲み込まれていく紙袋を指して言った。袋の中には買ったばかりの咒紐とやらが入っている。 「これは、指とか手首に巻いて使うの。魔力を安定させたり増幅したりしてくれる」 「なんか、らしい(・・・)道具だね」 「最近じゃあまり使われないけどね」 「そうなの?」  そう言われてみれば、慥か先程の老婦もそんなような事を言っていた。 「咒紐(これ)が要るのは、大きな魔法とか強い魔法をする時。でも今はそういうのはやらないの。やらなくなった――って言った方が正しいかな。魔法を必要としてたのは魔法を使えなかった人たちで、昔はその人たちから依頼されていたらしいから」 「昔って、壁ができる前?」 「そう」  それならかなり昔、大昔の話だ。 「でもミュノも今まで使ってなかったよね、それ」  今まではねと言ってミュノは頷いた。 「でも、次の魔法――つまり最後の魔法は今までと違うから」 「ああ、そう……だね」  最後という言葉が、心に重くのしかかった。  作業をするのはミュノなのだからこちらが緊張する必要は無いのだけれど、それでもやはり身構えてしまう。  十字路を二つ行った先で小さな宿を見つけた。そこで今晩過ごす部屋を借りた。 「ふう、やっと寛げる」  邪魔だったフードを頭から剥いて、外套をベッドへ放った。  鏡を見たら髪がぼさぼさに乱れていた。 「ねえ、マト」  煙突から吐き出される煙を窓から見つめながら、ミュノは問うた。 「マトはどう思う? この街」 「どう、って……うーん」  どうと尋かれても、ここに着いてからまださほど時間は経っていない。日常の極一端を垣間見ただけだ。  髪に手櫛をかけながら、ミュノのいる柔らかいベッドに腰掛けた。  ミュノがこちらに視線を移した。 「普通……かな。どこの街ともそう変わらない。でも居心地は良さそうかも」  素直な感想だった。  特に街の薫りが良い。街のカラーの所為か、今までのどの街よりも温い気がする。  ミュノはそう、とだけ応えてまた赤い軒並みに視軸を戻した。  巨大な壁の際にある建物が影に侵食されている。太陽が下り始めているのだ。  こうして見る街並みは、あの例の森から眺めていた景色と能く似ている。  ふと、二股の巨木の事を思い出した。それから続いて、秘密の抜け穴の事も浮かんだ。  ――もう塞がれてるのかな。  塞がれてしまっているのだろう。  古くなった壁は、もうとっくに新しい木材に覆われているに違いない。あの壁はそうやって徐々に厚さを増していくのだ。  歯車の街(ヒョグ)の壁は、かつてのスゾルよりも綺麗にされていた。入り口も使えた。だから、古くなったから修復ついでに塞いでしまおうなどという、スゾルのような滅茶苦茶な事はしないだろう。  それでも、入り口で会った老人の様子だとそれも時間の問題だと思う。きっと、いつかはあそこも塞がれてしまうのだ。  こちらの人――魔法使いたちは気付いているのだろうか。気が付いていながらも甘んじて受け入れるのか。それとも何か対抗策があるのか。  どちらにせよ。この世界はもう直ぐ終わりを迎える。その先の事を考えるのは無意味だ。  ミュノと一緒に自由に過ごせる、二人だけのセカイ。小さいけれど、二人だけなら充分なセカイ。 「ねえミュノ」  どんなセカイにしようか――。振り向くとミュノは寝てしまっていた。  白い布団に包まって蛹のように眠っている。  疲れが溜まっていたのだろう。ここ最近は魔法を使う回数が増えていたし、ヒョグではずっと身を隠して行動していた。精神的にも疲労していたに違いない。 『おっがねえ隠奴(オヌ)が住む処だでぇ。お前ぇらみてぇな子供(ちっご)は喰われちまうどぉ』  ミュノには(つら)い言葉を聞かせてしまった。 『俺たちとは違う生き物なんだ』  いつだったか父さんが言った言葉だ。  違わない。どうして仲良くできないのだろうか。嫌っているのなら、お互いに無干渉になれば済むではないか。わざわざ攻撃なんてしなくても良いのだ。壁なんて作る必要も無い。  それに、聞けば昔は魔法を頼ったというじゃないか。その時は大丈夫で、現在(いま)は駄目なのか。  墓守のドゥウの扱いもそうだった。彼は住民から忌避され、街から孤立した粗末な小屋に住まされていた。  そうやって大人達は、自分達が嫌う物を排除するのだ。  大人というのはどうもさっぱり解らない。  どうしてと尋けば応えはいつも、大人になれば解る――だ。応えてはくれるが答えはくれない。それが大人だ。  大人になるまで解らなかったものが、大人になって突然閃くのか。そんな馬鹿な話は無いだろう。  大人の言いなりになって往く先が、ミュノと一緒にいられない未来なら、そんな物は要らない。  全てを決断した日にミュノは言った。 『世界を小さくしよう。この世界は、広すぎるから。私とマトだけの、二人だけの世界になれば、そうなればずっと一緒にいられる。世界は平和になる』  だから――。 『この世界を』 「小さくしよう」  拳を強く握りしめた。  小さな手だ。一人では何もできない、未熟な手だ。  でも。  ミュノとなら、ミュノと一緒なら――夢を果たせられる。  窓がガタリと揺れた。  あまりに唐突で思わず飛び上がってしまった。  何の事は無い、ただの風の悪戯だった。建物の隙間を抜けて高く唸っている。  街はもう、巨壁の影に覆われていた。空にはまだ夕日の色が残っているというのに、街はすっかり夜の振る舞いをしている。  ミュノはまだ眠っている。 「僕ももう寝ようかな」  とは言え寝るにはまだ早い時間だ。  暗い景色を見下ろした。散策しようにも、この街を一人で出歩けられる程の度胸は無い。  次に風が窓を叩いたら寝るとしよう。そう決めた直後――硝子が鳴った。  風はどうやら、時間を持て余す旅人をとっとと寝かせたいらしい。 「……寝よう」  ご希望通りベッドに横になった。  鈍色の夕空が見えた。  部屋に僅かな光を下ろしている。巨大な壁の外では夕映えが見える頃だろう。  スゾルではそうだった。壁一面が夕焼け色に染まるのだ。壁だけではない。街も地面も、全てが夕日の色に染まる。  特別綺麗だと思った事は無い。夕方に見掛ける当然の光景――その程度の認識だった。ただ、あの壁と夕日という取り合わせは気に食わなかった。  ゆっくりと目を閉じた。  それほど寝たいわけではなかったけれど、こうしていると眠たくなっていくから不思議だ。  明日の朝食の事や最後の旅路の事を考えているうちに、意識と無意識が綯い交ぜになっていった。  どれだけ経っただろうか。  黒い水面を見下ろしていた。 「またこの夢」  また――と言っても、ここ最近では久し振りの事だ。  水面に自分の顔が映り込んでいる。 「ふむ、凄いな、これは」  水面の自分が喋った――わけではなく、声は背後からだった。 「え? どうして、ここに……?」  やあ、と声の主が手を挙げて歩み寄る。 「コクハヴ……さん?」  どういうわけか夢の中にいる。  鈍色のターバンに包まれた顔は、夢の中でも相変わらず年齢が不詳だ。 「ああ、我はコクハヴだ。お前はマト、だな」 「えっと……」  違ったかと尋いて、コクハヴは自らの頬をさすった。コクハヴが動く度に、毛玉だらけの外套が揺れる。 「マトで合ってます。いや、そんな事より」 「どうしてここに我が居るか――か?」 「……はい」 「フ」  ハハハハハハッ――とコクハヴは高く笑った。 「忘れたわけではあるまい」  コクハヴが指を伸ばした。その指先はこちらの鞄に向けられている。  鞄の中を見ろ、という事らしい。 「あ」  こちらの反応を見て、コクハヴは意地悪そうに眉を上げた。  鞄の中には小さな瓶が入っていた。  瓶の中身は――青い石が入っている。透明感は無い。代わりに、ぬらぬらとした艶がある。  これは――。 「星の欠片」  その通りだと、コクハヴが首肯く。 「お前は空の欠片と喩えていたがな」  貰った時と同じように、欠片と空を見比べてみた。  あの時は、空と同化してしまいそうだと思った。しかしここの空は黒一色だ。青い石では逆に目立ってしまう。 「それで、これが何だって言うんですか?」 「以前(まえ)に、それは我の目の役割を担うと説明(はな)しただろう。その役割を果たす時が来たのだ」 「時が来た?」  ああ、とコクハヴはまた首肯いた。 「我は是非お前らの夢の果てを見届けたかったのだ」 「夢の――果て?」 「果てだろう、これは」  間髪入れずにコクハヴが答えた。 「一体、何を言ってるんですか?」  コクハヴの一言一言がいまいち理解できない。  また何か企んでいるのだろうか。 「僕の夢に出て何をするつもりですか?」 「夢?」  それはもう終わった事だろうと言ってコクハヴは腕を組んだ。  まともな答えが返ってこない。  夢は終わっていない。それどころか今は夢を見てる真っ只中だ。 「まあ良い。お前、あの古き汚れた血(ハコセム・アドム)はどうしたのだ」 「ハコセム……ミュノの事ですね。ここには僕だけです」  噛み合わない会話にもどかしさを覚えながら答えた。 「お前だけ? 奴は何処かへ行っているのか?」 「違いますよ。最初から僕一人です。いつもは――ですけど」  今回はコクハヴが居る。彼が夢に出てきたのはイレギュラーな事だ。どうせ夢に出るなら、コクハヴなんかでなくミュノが良かった。 「ふむ。そうか、やはりか」  コクハヴは一人納得したように、そうかそうかとまた繰り返した。  それから、 「フハハハハッ」  と、高く笑った。 「理解した」 「な、何をですか」 「全部(すべ)てだ」 「だから、何を――」  コクハヴは腕を前に伸ばした。額にコクハヴの手が触れた。 「お前。これまで幾つの土地を巡ったのだ?」  コクハヴは一歩、前に出た。 「それは……沢山」 「具体的には?」 「え、えっと……」  そうして詰め寄られて退いているうちに、背中に何かがぶつかった。二股の巨木の、折れて落ちた方の枝だ。 「言ってみろ。一つずつ。その場所を」  さあ――とコクハヴがまた一歩迫る。  もう逃げる場所は無い。 「えっと、スゾルから出て……」  それで、とコクハヴは目を細めた。翠色の睫毛までもが、威圧するようにふん反り返っている。 「ヌガンと、砂上の都市タリと、それから海を渡ってリマゾルに着いて……それから……」 「それからは? 忘却(わす)れたのか?」 「お、憶えてますよ。全部。り、リマゾルの後、光の箱庭(ハローガーデン)っていう綺麗な森へ行きました」  ほうと感心してターバンの男はまた顔を寄せた。 「それで、次は?」  鼻が触れ合いそうな程にコクハヴが顔を近づける。 「つ、次は……け、涅霧(けむり)の街、オスケアに行って……」  それで――とコクハヴは視線だけで訊いた。 「ええっと……その次の、水没した廃都クヨでは、神殿の中で遭難しかけて……」 「それだけか?」  挑発するようにコクハヴの眉が上がる。 「ま、まだありますよ。王都っ、王都トルクォールで廻霊祭(フィニースタス)を見ました。そこからしばらく歩いてコクハヴさんの湖に着いたんです! で、歯車の都市ヒョグを通って、壁を越えて今、ミュノの街に居るんです」 「それで全部なのか?」 「そうですよ。これが、ミュノと僕とで行った旅路の……全……部……」  ふ、とコクハヴは嗤った。  ――少な過ぎる。  そう言いたいのだ。 「世界を巡ったのだろう? 幾つもの都市を巡ったのだろう? 歩いたのだろう?」  額を覆う白い手は依然と緩まない。 「何でもない小径(こみち)、ただの更地、道端(みち)の木の根元。そういうのは一つも無かったのか? そんな訳はなかろう。何せ」  世界は広い――コクハヴは言った。 「そろそろ目を覚ませ」  コクハヴの掌から強い光が放たれた。 「うぐっ……」  目の奥が焼けるように熱くなった――。  そして意識はぼやけ――。 「あ、おはよう。マト」 「は……!」  目を開けると、空に煙が昇っていくのが見えた。  背中にベッドの温もりを感じる。 「あれ、もしかして、まだ寝てる?」  起きたと思ったけどと、視界の外でミュノが言った。 「起きてるよ」 「あ、おはよう」 「うん。おはよう、ミュノ」  眠気が残る体を起こして背筋を伸ばした。身体中の筋が張る感じが心地良い。 「あれ? 何処か出掛けたの?」  ちょっとね、と外行き用の服装のミュノが応えた。  能く見れば髪も整えられている。  パンの香りがした。どうやらミュノが持っている紙袋からのようだ。 「それって」 「そう。さっきマトが寝てる間に、近くの店で買ってきた」 「ごめん、僕も行くべきだったのに」  大丈夫とミュノが言う。 「マトの方こそ、髪を隠しながらだと大変でしょ」 「まあ、そうだけど」  小さなテーブルにサンドイッチが二つ置かれた。 「マトはタマゴとハム、どっちが良い?」 「じゃあ――ハムが欲しいな」  答え終わるより早く、予想されていたかのようにハムサンドが渡された。 「マトは、いつもそれだよね」 「そうだっけ?」 「うん。タマゴとハムなら、いつもハムを選んでる」 「あまり意識した事無かったなあ」  言われるまで気がつかなかったくらいだ。 「頂きます」 「どうぞ」  一口噛むと、稲穂色のパンが心地良い音をならした。  口の中でハムの塩気と脂の甘みが合わさっていく。 「んー美味い」  ――そういえば。  旅に出る前も、木の上でこうしてサンドイッチを食べた事があった。あの時は、旅に出るなんて想像もしていなかった。  サンドイッチはあっという間に最後の一口になり、惜しみながらそれを飲み込んだ。 「さて――と」 「うん」  口を袖で拭って、二人同時に席を立った。 「行こう。あの街に。あの森に、始まりの場所に」
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