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第1話「この世界を小さくしよう」
いつになってもこの街——スゾルは変わらない。
昔からそうだ。変化を嫌い、発展も衰退もせず、停滞し続けている。
たかだか十三年ばかりしか生きていないけれど、この街のことを知るには充分すぎる年月だ。
それに停滞しているのはスゾルだけではない。国からしてそうなのだ。
平和だと言ってしまえば、そうなのかもしれない。
しかし、滞っているのだ。人々の思考が、行動が、文化が、何もかもが——滞っている。
皆、与えられた環境のまま、何の疑問も持たずに生活している。
それに、決して平和だとも言えない。
道の向かいから怒号が聞こえた。
「はあ、まただ」
今日も人集りが騒ぎ立てている。
十人や二十人だけではない。四十人か五十人か——いや、もっと多いかもしれない。とにかくそのくらいの規模の集団が二つ、何やら言い合っている。
集団の隙間から、緋い髪がちらちらと覗いている。こちらの街の人間との違いは一目瞭然。それらは皆、移民だ。
移民たちの住む場所は、移民街と呼ばれている。移民街はいくつかの街に跨っており、地図上ではそれぞれの街ごとに分けられているが、実質独立した街と化している。
移民と云っても、王国に移り住んで来たのはもう何世代も前の話になる。もはや彼らとは直接的な関係は無い。
にも関わらずこちらの住民たちは、横断幕や旗を持って、出て行けだの人外だのと罵詈を浴びせている。当然、相手側の集団も何やら叫んでいるようなのだが、ここからでは聞き取れない。
集団の若者の一人が石を投げた。周りの数人もそれに便乗して投石を始める。
だが物を投げる程度だ。それ以上のことはしない。そこに、まるで見えない壁が在るかのように、二つの集団が直接ぶつかり合うことはない。
まあ実際、壁は在る。
移民街はぐるりと巨大な壁で囲まれているのだ。
もちろん、壁越しに言い争っているわけではない。街には一つ、出入り口と云うか、通路は在るのだ。そして集団はそこで対面している。だから、越えようと思えば越えられるのだ——街の境界線を。
ただ、二つの街を分断している壁は、高く、厚く、広い。現実的にも、歴史的にも——だ。
何枚もの木の板を乱暴に貼り合わせただけの、移民と先住民とを分けるための高い壁。緋い髪の者たちがここに移り住んできた当時からあるらしい。
彼らの街がどれだけ広いのかはわからない。ただ、それをすべて囲っていると云うのだから、そうとう長い壁なのだろう。
その壁を境に、互いは相手の街に侵入しようとはしない。
もし越えたなら、相手の住民に何をされれるかわからない上に、理由によっては元居た街の人からも白い眼で見られることになるからだ。
だから、罵声を浴びせたり石を投げたりはしても、決して直接攻撃しには行かない。
否。境界を越えられないからこそ、石を投げるという手段を選ぶのだろう。
そんな騒ぎを、通行人は一瞥してから素通りするか、あるいは目もくれることなく通り過ぎるか。毎日毎日、年中無休で続くこの光景を、人々は何とも思っていない。
当然、近所に住んでいれば、喧しいなあだとか危ないなあくらいには思うかもしれないが、基本的には無関心だ。
人集りを過ぎると、露店で値札を見つめて悩んでいる主婦を見かけた。
先週より値段が高いわと主婦が文句を言うと、仕入れ値が上がったのだと店主はぼやいた。
「ああ、これが——」
最近は景気が悪くなっている、と云うのは父さんの談だ。よく解らないが、まあこれがきっとそういうことなんだろうと漠然と思う。
隣街との諍いよりも食材の値上げの方が一大事らしい。
街の端まで歩くと、さすがに人々の喧騒も聞こえなくなり、建物の数も減ってきた。通行人も自分以外には一人も居ない。
使い道のわからぬ小屋を最後に、森があらわれる。
道は無い。木や茂みがあるばかりだ。
能く能く能ぉく目を凝らせば茂みに潮目のような影の筋が見える——何となく。云われてやっと、そこに獣道があるような気が——したりしなかったりという感じだ。
そこを構わず突き進む。
森は殆ど人の手が入っておらず、植物は成長したい放題だ。木の根っこや枝なんかが好き勝手に伸びていて、やたらと歩きづらい。
バッグに枝を引っ掛けながら、鬱蒼とした森を進んで行くと——やがて例の壁の足元に辿り着く。
一箇所だけ、地面から腰ほどの高さにかけて、壁にトンネルが出来ている。
遠目から見れば立派な木造の壁も、近づいて見れば中々杜撰な造りだ。
常識外れな巨大さ故か、修繕はいい加減で、老朽化した箇所に新しく板を継ぎ足しているだけの粗末な壁だ。
継ぎ接ぎの壁は、ほんの少し風が吹くだけで至る所からギシギシと鳴く。地面には古びて剥がれた板が落ちている。
上の方はもっと酷いんじゃないかと見上げてみるが、空に霞んで見えなかったのでやめた。
思い返してみればここ何年か、壁を点検している様子など見た事がなかった。
ここを自由に使うことができるのはそのお陰だ。
「よいしょ」
作業員の怠慢への感謝もほどほどに、身を屈めて穴を抜ける。
ここからはもう、隣の街だ。
「いつもより早いね、マト」
呼ばれて顔を上げた。
——やっぱりもう来てる。
片方の枝が折れた、二股の巨木。その分岐する幹の中央に、彼女は座って待っていた。
ミュノの艶やかな緋い髪が風でたゆたう。
「うん、おはよう。今日もミュノの方が早かったかあ」
彼女はいつも先に着いて待っている。特に勝負などはしていないが、こう毎回待たれていると何となく敗北感を抱いてしまう。
次こそはと心の中で息巻いていると、
「大体わかる。マトが、ここに来るタイミング」
などと言う。
「えー……」
勝ち目が無い。
ミュノの言葉が嘘にしても本当にしても、実際ミュノより早く来れた試しがない。あながち嘘じゃないかもなどと考えてしまう。
「まあ良いや。遊ぶ前にお昼食べても良いかな?」
今日は昼食を家でとらず、ここに来る途中でサンドイッチを買ったのだ。
その理由は——。
「また、お父さんと喧嘩?」
「今日は違うよ」
確かにそんな時もある。
家で食べなかった理由は、ミュノより早くここへ着くための作戦だったからだ。だがそれも虚しく無駄に終わってしまった。
「一応、ミュノの分も買ってあるけど」
食べる? と訊くとミュノは食べると言って頷いた。
「待ってて、すぐ登るから」
勝手知ったる何とやらだ。今ではこの巨木を、目を閉じたまま登ることだってできるだろう。
ささっと登ってやると、ミュノは少し横にずれて場所を開けてくれていた。
「タマゴとハム、どっちが良い?」
サンドイッチの中身を訊くとミュノは、
「じゃあ、タマゴ」
と言うのでタマゴサンドを渡した。
「ありがと」
「ここのは凄く美味しいんだよ」
知っている限りでは、この店のサンドイッチが一番美味い。
さあさあとミュノに一口目を勧める。
ミュノは分厚いサンドイッチを頬張り、しばらく咀嚼して——飲み込む。
「……美味しい」
表情にはまるで出ていないが、その言葉が嘘ではないことは一目でわかる。
どうやら少し驚いているようだ。
「でしよ?」
ミュノの反応に満足しながら、自分のハムサンドに食らいつく。
香ばしく焼けたパンは噛むたびにサクサクと軽快な音を響かせ、口の中でハムの塩気と脂に程よく合わさっていく。
あっという間に最後の一口になり、惜しみながらそれを飲み込んだ。
「はー、美味しかった」
平和だ。
ふとそう思った。
満腹のせいもあるが、それだけではない。
街の喧騒も、小うるさいオトナも、ここには無い。
こうして二人でお昼を食べて、遊んで、会話して。そんな何気無い、特別じゃない時間がとても幸せだ。
我ながら平和ボケにもほどがある。
膨れた腹を充分に休ませた後、二人で思いっきり遊んだ。
お互いの街の遊びをしたり、鳥を追ったりして走り回ったり。
そんなことをしているうちに、ついに体力が尽きてしまった。
そういう時はいつも決まって、地面に横たわる巨木の片割れに座るのだ。
「ねえ、ミュノ」
「何? マト」
「あの壁、いつまであるのかな」
この問いをするのはこれで何度目だろうか。毎回訊いている気がする。
そしてミュノの答えはいつも同じだ。
「わからない」
彼女は目の前にある巨木を眺めて答えた。
大人は彼女たちのことを、魔女だの悪魔だのと云っているが、そんなのは子供に恐怖心を植え付けるための嘘だと思う。
それにもし、ミュノが大人たちの云うように魔女だったとしても別に構わない。ミュノはミュノだ。それは変わらない。
『奴らは移民だ。俺たちとは違う生き物なんだ。あんな奴らとは絶対に関わるな』
慥か父さんはそう言っていた。
初めてそれを聞いた時、大人たちはそんな理由で蔑んでいるのかと呆れたものだった。呆れすぎて、未だに納得できずにいる。
そもそも、移民だから何なのだろうか。先に居た方が偉いのか。
まるで子どもだ。
馬鹿じゃないのと大声で言ってやりたいが、大人たちの様子からして、そんな事を言ったら殴られるので言わないでいる。
否。言えないでいるのだ。
正直、そんなのは狂ってると思う。
なぜ敵対するのか。結局いくら考えても、納得できる答えは見つからなかった。
それはそうだ。そんな答えは無い。
「そろそろ陽が沈む。暗くなる前に帰らないと」
そう言ってミュノが、倒れた枝から降りた。
空を見上げると、青かった空は橙色へと変化し始めていた。確かにこれ以上陽が沈むと、暗くなって帰り道がわからなくなってしまう。
「明日は何して遊ぶ?」
訊くとミュノは少し考えてから、ぱっと顔を上げた。
「あれやりたい。マトが教えてくれた、オニが振り返った時に止まるやつ」
「じゃあ明日はそれをやろう」
また明日、とこちらが手を振るとミュノも同じように応えてくれた。
家に着く頃には辺りはすっかり暗くなっていた。
少しのんびり歩きすぎたかもしれない。
ミュノはちゃんと家に着いただろうか。そんな事を考えながら玄関のドアを開けた。
「ただいま」
「遅いぞ」
父さんだった。
ソファにどっかりと偉そうに座って、なにやら大量の書類を読んでいる。
普段は帰ってこないくせに、こういう日に限って家にいる。こんなことならもっと早く帰ってくるんだったと後悔した。
「こんな時間まで何処へ行ってたんだ?」
父さんは、書類で顔が隠れたまま訊いた。
「別に、友達と遊んでた」
「誰と、何処でだ?」
父さんは書類をずらし、こちらを睨みつける。
「良いじゃん、誰だって」
そこまで訊かれるとは思わず、つい視線を外してしまったのが悪かったかもしれない。
父さんが眉間に皺を寄せる。
「お前、その友達とやらはまさか移民どもじゃないよな?」
拙い事に、目つきが先程よりも鋭くなった。
「い、いや、そ、その友達は、その、女の子なんだ。父さんには恥ずかしいから言いにくかっただけ」
恥ずかしい云々はさて置き、まあ嘘ではない。一応。
父さんは必要以上に長い時間をかけてこちらの顔色を伺ってから、ふん、と鼻息を鳴らして視線を書類に戻した。
その様子からわかるように、多分、信じ切ってはいない。
しかし話を終わらせる事に成功したのだから、まあ及第点だろう。
ほっと胸をなでおろすと、
「なあに? マト、好きな子ができたの?」
と母さんが出来上がったばかりの夕飯を食卓に運んできた。
「え、えっと、うん。まあ」
そういう事にしておいてくれた方が、こちらとしては有り難い。
「今度お母さんにも紹介してね」
「え、いやあ、それはどうだろう……」
ミュノもそうだが、移民と呼ばれる人たちは緋色の髪をしている。正直に会わせなどしたら確実にバレるだろう。
「まあ良いわ。ほら座って。夕飯食べるわよ。あなたも、仕事は後にして」
言われた父さんは、ああとだけ返事してのそのそと席に着いた。
「父さんが家にいるなんて久しぶりだね」
そんな事を言ってみる。父さんがなぜ帰ってきたのかが気になったからだ。
「本当は帰るつもりなんてなかったんだがな、壁についての資料がここにあったのを思い出して取りに来たんだ。わざわざ職場に戻るのも面倒だし、今日はここで寝るつもりだ」
「壁?」
父さんの云う壁は、当然あの例の壁だろう。
いつもならここで、ふうんと適当に流すところだが、何となく嫌な予感がした。
「ああ。最近、壁の老朽化が酷いだろ。その所為でお前も怪我をしたしな。近いうちに修理をさせようと思っている」
そう言った後も父さんは、点検の奴らがサボりやがってと文句をこぼしていたが、そんなことはどうだって良い。
問題は『壁の修理』だ。
老朽化していても壁は壁。継ぎ足しとはいえ何百年と建ち続けているのだ。人の手では到底壊せるものじゃない。況してや子供の力で新たに穴を掘るのは不可能だ。森にある穴が塞がれたらミュノと会えなくなってしまう。
一応、壁に入り口が無いことはない。ただし、人目につかずこっそりと——とはいかない。
とにかく、あの穴を塞がれるわけにはいかないのだ。
「修理って、あの壁を全部?」
「それは無理だろうな」
予想通りの答えだった。
修理すると言葉にするのは簡単だが、あの巨大な壁の全てを直すのは無理がある。とすれば当然、修理はごく一部に限られるはずだ。
「予算次第だな。今それを調べているところだ。それなりの金額は覚悟しなきゃいけないが、出来るだけ範囲は抑えたい」
その答えに、もしかしたらあの穴まではやらないかもしれないと期待した。
しかし安堵したのもつかの間、そうだなあと父さんが続ける。
「せめて森まではやるつもりでいる」
さらに、
「何だお前、興味あるのか?」
などと訊く。
本当は、森までは広すぎるんじゃないのとか言いたかったが、これ以上は怪しまれるだろう。
「いや、まあ、古いせいで前に怪我したし……、ほら、あの壁大きいからどうやって修理するつもりなのかなあ、と……」
などと適当な理由を並べると、父さんはそうかとだけ言って食事を再開した。
翌朝。
昨晩の父さんとの会話をミュノに知らせたくて、朝食を済ませた後すぐに森へ向かった。
幸いにも父さんはすでに家にいなかった。母さんには適当に、遊びに行くとだけ伝えて家を出た。
念のため、誰にも尾行けられていないことを確認してから森に入る。
穴まで来てもう一度周囲を見渡し、人の姿が無いことを再び確認して穴を潜った。
「おはよう」
穴から這い出ると、ミュノがこちらを見下ろしていた。
「おは……よう。早いね。さすがに今日は僕が待つ番だと思ったけど」
どんなに早く家を出ても、ミュノはいつも先に来て待っている。
さすがに今日こそはと期待していたのだが、どうやらミュノには敵わないらしい。
「今日はマトが早く来る気がしたから」
ミュノはくるりと振り返って、いつもの巨木の方へ歩き出した。
「あのさ、ミュノ」
「何? マト」
いつもの問いかけのようになってしまった事に、言ってから気が付いた。
「……ミュノ。知らせなきゃいけないことがあるんだ」
やはり予想と違っていたのか、いつもと違う台詞にミュノが振り返る。
「どうしたの?」
「もしかしたら近いうちに、会えなくなるかもしれない」
「どういう、こと?」
ミュノは首を傾げて、長いまつ毛の生える瞼を何度か上下させた。
「修理されるんだ、この壁。この森の壁まで修理するつもりらしい」
「……いつ?」
「わからない」
わからないが、そう長くはないことは確かだ。
あの父さんが決めた事だ。資金と人が揃えばすぐにでも取り掛かるだろう。
「そう……」
それだけ言ってミュノはいつものように、折れた巨木を見上げた。
彼女が今どんな表情をしているのか、ここからでは分からなかった。
「ちょっと来て、マト」
「えっ、ちょっ……」
ミュノに手を引かれるまま、ずんずんとどこかへ進む。
森の奥へ進んでいるのか、それとも森から出ようとしているのか、それすらも知らされなかった。ただ、かなり急な斜面を、落ち葉を蹴散らしながら登っていく。
もうかなりの高さまで登ったんじゃないかという所で、木々で溢れていた視界が開けた。
初めての高さだった。
あの二股の巨木よりもずっと高い。
延々と聳える壁、広がる森、地平線まで続く見慣れぬ街、吸い込まるような高い空。この世界の全てが見える気がした。
「すごい……」
無意識に声が溢れた。
何がどう凄いのか自分でも上手く説明ができないが、目の前の景色を見て浮かんだ単語が——すごい、だった。
「そうでしょ」
ミュノが自慢げに言う。
壁が右側にある。
という事はいつもの巨木はこの丘の後ろというわけかと、脳内の地図に大雑把に印をつけた。
もこもこと盛り上がる蒼い森の向こうに、煉瓦造りの街が広がっている。
にょきにょきと生える煙突から煙が上がっていた。
暮らしているのだ、人が。
ずっと、壁の向こう側——つまりここ——で暮らす人を、ミュノ以外にまともに見たことがない。だから、壁の向こうに人が住んでいるという実感が今まで無かったのだ。
だから、壁の向こう側にはミュノしか住んでいないのではないか、愚かにもそんな気すらしていた。
だが違うのだ。
家があって、その煙突から煙が上がっていて、その下では人が火を焚いている。この街のどこかにミュノが暮らしている家があるのだ。
至極当然のことだがそう思うと何だか少し安心した。
いや、嬉しかったのかもしれない。
隣でミュノが名前を呼んだ。
「見て」
白くて細い指が示す方を見た。
どうやら街よりも壁寄りを示しているようだ。
「あれは——」
ちょうど、隔てられた二つの街をつなぐ入り口の所だった。
大勢の人々が集まっているのを見て、あれが何なのかすぐに理解した。
ここに来る時に見るあの集団——その相手側だった。
「毎日……」
ミュノがゆっくりと腕を下した。
「毎日ああして、壁の向こうの人たちと言い争ってる」
最近は怪我人もでているとミュノが言った。
「私たちはね、ここで暮らしちゃいけないんだって」
耳が痛かった。
ここからでは見えないが、あの集団の先には自分の街の人々がいるのだ。
暴動には参加していない、子供だから何も出来ない、とただ傍観しているだけの自分も、ここの人々にとってはきっと同罪なのだろう。
「マト……?」
自分に対する怒りと虚しさと申し訳ない気持ちが、涙となって目から溢れていた。
「あ、いや——ごめん。僕も……知っていたのに……何も……」
違うとミュノは首を振った。
「私の言い方が、悪かった」
宥めるように優しくミュノが言う。
「あのね、マト。さっきここで景色を見た時、きっとマトはこの世界の広さを思い知ったと思う。私も、初めてここから景色を見た時に思った。でも、世界は今見えているのよりも、ずっと広い」
これよりも、ずっと。
そうだ。ここから見ることのできないずっと先にも、景色は、世界は、彼方まで続いている。
「きっとね、マト。世界は広すぎるの」
そう言ってミュノはまた、人混みを見下ろした。
その目は彼らを哀れんでいるようにも、蔑んでいるようにも見える。
「マト。私はマトと逢えなくなるのは嫌」
それは自分も同じ気持ちだ。
だからこそここへ来たのだ。
「ねえ、マト」
「何? ミュノ」
いつもの問い掛けと立場が逆転していた。
ミュノは小さく息を吸った。
そしてこの景色の遥か遠く、世界を見つめて言い放つ。
「マト。世界を小さくしよう。この世界は、広すぎるから。私とマトだけの、二人だけの世界になれば、そうなればずっと一緒にいられる。世界は平和になる。だから——」
——この世界を小さくしよう。
ミュノはもう一度そう言って、静かに手を握った。
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