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虐待
この夏の暑さは異常だった。蒸せかえるトラックの荷室に重い家電製品を運んでいると、その余りの暑さにこの世の終わりは本当に来るのかも知れないと、横山遼太は思う。
今年の記録的な猛暑がエアコンの記録的販売台数を叩き出した所為で、この某家電量販店の配送を担う物流倉庫は火がついた様に忙しい。
「終わった、もう、死ぬ、つか、地球、暑すぎる! 大丈夫かよ、人類滅亡すんじゃねーのか!」
遼太は、もう梃子でも動くものかと言わんばかりに倉庫の板の間の上に大の字に寝転がった。
「馬鹿野郎、てめぇが地球の心配なんかしてどうなる。そんなくだらん心配より、地図のひとつでも覚えろこの馬鹿たれが」
「くそー、ったく、こんなにきつい仕事だなんてよ、ホント、詐欺だぜ、詐欺、この詐欺師オヤジが!」
遼太は、自分の横に移動し、自分と同じように大の字になった牧田(まきた)秀夫(ひでお)に目を向ける事なく、倉庫の高い天井を睨みながら辛辣に悪態をつく。しかし牧田は、そんな遼太を横目で見ながら何かを愛でる様に目を細めた。
遼太の推定年齢は二十代前半。あどけなさは残るがもう成人である。成人と言えば聞こえはいいが、最近の二十代などガキの延長でまるで使い物にならないと牧田は考えている。自分の行く道も、自分の生活の保障も、何もかも社会や親が用意してくれるものだと勘違いしている。戦争も、貧困も知らない、産まれた時から平和が日常であるこの世代は自分で何かを切り開こうと云う気概がない。何を考えているのか分からないこのゆとり世代の若者たちを牧田はどうにも好きになれない、と云うよりは、むしろ毛嫌いをしていた。
そんな牧田が遼太と出会ったのは初夏の湿った空気が産毛を撫でる去年、五月の事。その日、仕事を終えた牧田は何時もの様に神林惠が商う店に顔を出した。
古い店内は立ち呑みの店とさほど大差はない。狭いカウンターと数席のボックスがあるだけの酒舗、兼、食堂の様な店は、しかし惠の人柄の良さと先代店主の味、そして、今時に無い良心価格で商売は大いに繁盛し、宵の口になると店には何時も酔客が溢れていた。
「よう、席、空いてるか」
漆喰の壁は長年の風雨に曝され随分と傷みのある白に変色していて、そこに嵌め込まれた木製の引き戸は立て付けが悪く開くのには少しばかりの力とコツを必要とした。
牧田が「惠心」と白で抜かれた文字の浮かぶ藍色の暖簾を潜り、ガラガラと音をたてながらその扉を開くと、店内は珍しく静としていて酔客が居ない。しかしその代りに血塗れで蹲る若い男と、それを取り囲むようにチンピラ風の男たちが三人店の奥に居た。
「秀さん・・・」
惠は珍しく困惑を露わに入って来た牧田を見てそう一言呟く。
「おい、今日は貸し切りだ、出て行け」
そんな惠を押し退ける様に若い男の髪の毛を掴んでいたリーダー風の男が、男の髪の毛を離し牧田に視線を向ける。
「惠、ビール、突き出しは、そうだな、揚げ出し豆腐がいい」
牧田は緊迫した店内の状況など意にも解さぬと云う風にカウンターに腰かける。
「おい、おっさん、貸し切りだってのが聞こえなかったのか、ああ!」
血まみれの男の髪の毛を離したその男はそう言いながら牧田に近寄って来た。牧田はうんざりしたように男を見上げる。
「なんだこの安物のドラマみたいなシュチエーションは、いいか、安物のドラマならな、俺が今からお前らを外に連れ出して叩きのめす、今風に言うならフルボッコだ。そうなってもいいのか」
「なんだとてめぇ、なめんじゃねぇぞ」
牧田の前に立った男は言うが早いかいきなり牧田に殴りかかる。しかし牧田はそれより早く既に手にしていた割り箸を襲い掛かる男の拳に向けていた。
「うぎゃあぁぁ」
鋭利ではない割り箸の先端が男の拳に突き刺さり、男は悲鳴をあげて突き出した拳を今度は懐に抱え込むようにして後ろに飛びのく。
「おいおい、だから言ったろうが、あーもう、面倒くせーなお前ら、望み通りフルボッコにしてやるよ、外に出ろ」
牧田はそう言うと拳から血を流す男の髪の毛を鷲掴みにし店外へと連れ出す。それを残る二人が慌てて追い駆け外に出た。
「君、大丈夫・・・」
惠は男たちが居なくなると手拭きに氷を包み蹲る男の傍による。
「すいません、迷惑、ゲホッ、お掛けして、ゴホッ」
「そうね、迷惑だわ、客はみんなビビッて帰っちゃったし、商売あがったりよ」
男の咳には血が混じっている。どうやら腹を蹴られた時に胃から出血をしたようだ。
「君、名前は」
「横山ゲホッ、遼太」
「そう、じゃ、遼太君、救急車を呼ぶ前にひとつだけ訊かせて、今、二階の物置でかくまっているあのお嬢さん、あの子は君の何なの、私が見るに、君、まだ随分若いでしょ、娘が居るようには見えないんだけれど」
「いや、美月は、美月は俺の、俺の娘です」
「本当に」
「はい」
「嘘じゃないでしょうね」
「間違いありません、ゲホォ、美月は、俺のゲホォ、ゴホォ」
「分かった。もういい、救急車が来るまでもうしゃべらないで」
惠が扉を開き外の様子を窺うとさっきの男たちの姿はなく、深々と煙草の煙を吸い込んでいる牧田一人がそこに居た。
「あいつら、どうしたの秀さん」
「あぁ、やっぱフルボッコにすると後が面倒だから、ハーフボッコにして帰らせた。あいつら、金城組傘下の組のチンピラだ」
「金城組・・・」
「あいつら、俺たちを狙ったわけじゃない様だが、あのガキ、なんだ、彼氏にしちゃ若すぎるよな、お前、ロリコンだったのか」
惠は軽く握った右こぶしで牧田の鳩尾を殴り、舌を出しながら119番に通報する。
「もしもし、こちら●○市●○三丁目の飲食店、惠心ですけど、喧嘩で殴られた男の人が居て、はい、吐血が認められるので、はい、よろしくお願い致します」
惠は電話を切ると睨むように牧田を見上げた。
「バカ、さっきまで顔も知らなかったわよ」
「痛ぇぇぇ、てめぇ!いったい、どう云う事だ」
「どう云う事かなんてこっちが訊きたいわよ!」
牧田と惠がそんな問答をしていると、遠くで救急車のサイレンが聞こえて来る。
「兎に角、あの遼太って子を、病院に連れて行って来て。あの子、小さな女の子を連れて来てるのよ、私はその子を見てるから、秀さん、後は頼んだわよ」
「お、おい!惠!」
惠はそう言うともう振り向きもぜず店の中に入って行った。牧田は駆け付けた救急隊員に顎で店の方向を示す。折りたたんだ担架を持った二人の隊員は五分もしない内に遼太を担ぎだして来た。
「親族の方ですか」
「否、ゆきずりだが」
「付き添い願えますか」
牧田は一瞬の間を置いて無言で首を縦に振る。
「受け入れ先の病院が決まりました」
別の隊員が無線機を片手に牧田の方に声を投げる。牧田は遼太の横に乗り込み、二人を乗せた救急車がけたたましいサイレンと共に夜の国道に消えて行った。
「もう大丈夫だよ」
惠は二階に上り、物置の扉を開きながら中に匿っていた幼女にそう声を掛けた。しかし幼女は振り返らないままで惠に質問をする。
「パパ、大丈夫なの」
「大丈夫よ、内臓が破裂したわけじゃないから、直ぐ元気になるわ」
「そんな事、どうして分るの」
「え、あぁ、そうね、私は、昔、病院で働いていたから」
「そうなの」
「うん」
「看護師さんだったの?」
「うーん、看護師さんでは、ないんだけれど」
「じゃあ、お医者さん?」
「ええ、そうよ。私は医師だから診れば解るの、お父さんは大丈夫。あっ、そうだ、お腹空いてるでしょ、下に降りてご飯食べない」
「あのね、美(み)月(つき)は、ここに来る前に、パパとラーメン食べたんだよ、海苔とね、卵が入っててね、凄く、美味しいラーメンなの」
惠は美月に近づきながら膝を落とし、肩に手を掛けると自分に背を向けたまま話す彼女の顔を覗き見た。子供らしい丸い輪郭にくりくりとした大きな目が付いている。そしてその愛らしい目はよく動いた。まるで小動物の様にきょろきょろと動いて何かを探している様にも見える。
「美月ちゃんっていうんだね。そっか。美月ちゃん、でもね、お店をお休みしたから、料理がいっぱい余っているし、私は、お腹空いたな。美月ちゃん、一緒にご飯食べようよ」
「いいの」
「うん」
美月は惠に手を引かれ階下に降りる。惠は保冷ケースの中の肉じゃが、切り干し大根などを適当に小鉢に盛り、出汁巻き卵を焼いてそれらをテーブルに運んだ。美月はそんな惠の動作をつぶさに目で追っている。否、それは追っていると言うよりは観察していると言った方が適切なのかもしれない。
「さぁ出来たよ、美月ちゃん、お米、どれくらい食べられる」
惠の質問に美月は少しだけと云う感じのゼスチャーを申し訳なさそうに小さな手で惠に示す。美月の仕草に惠は微笑みながら頷き、しかしそれに反してかなり多めのご飯を茶碗によそって美月の前に出してやった。
美月は何かを確かめる様に惠が出した料理をほんのしばらく凝呼(じっ)と見詰める。しかし、次の瞬間、美月は弾かれた様にパクパクとそれらを食べ始め、その様子は貧困のスラム街に居る子供達の姿を惠に連想させた。
惠は当然の疑問を胸に抱いた。惠の目から見て美月は四歳から五歳くらいだ。これくらいの歳の子供が、父親が口から血を吐き救急車で運ばれた後、こんなに気丈でいられるものだろうか。遼太が運ばれた後の惠に対する美月の質問は余りにも的確だったし、美月の話し方、所作、それら全てが無理に子供らしい無邪気さ、可愛らしさを強調している様な気がしてならない。そして、食事を済ませたと言いながら美月は黙々と惠の出した料理を食べている。
惠はよく動く美月の瞳を観察した。色素が薄いのか、美月の瞳はカラーコンタクトをしている様な綺麗な鳶色をしている。そして惠と目が合うと、必ず愛らしい顔で微笑むことを忘れない。しかし、笑っていない。よく見ると美月の目は微細(ちっとも)も笑っていないのである。美月の笑顔は、統制された共産主義国に在る高級ホテルのフロアガールの様に、洗練された、否、計算された様な、そんな凍り付いた笑顔だった。
「ごちそうさまでした、美味しかったぁ」
美月は惠が出した皿の全部を平らげた。とても直前にラーメンを食べて来たとは思えない。
「ねぇ、美月ちゃん、よかったら、私の家に帰って、一緒にお風呂入ろうか」
「え、あ、うん、いいよ」
その問いかけに美月は零れる様な笑顔で素直にそう応えた。しかし一瞬、美月の眦が奇怪な変化をする。惠は意を決し、美月の手を握ってみる。すると美月の中で何かが刹那にして、まるで逃げ出すかのように消えるのを感じた。
・・・何なのこれ、心が見えない・・・いや、この子・・・心が・・・
惠は洗い物もそこそこに戸締まりをし、美月の手を引き歩いて僅かの距離にある自宅マンションへと帰宅する。
「でも、そっか、着替えが無いのかぁ、ねぇ美月ちゃん、美月ちゃんのお家は、ここから遠いの」
浴室に入ると惠は一生懸命に服を脱いでいる美月に質問をする。
「うん、遠いよ、今、パパと旅行しているから」
「車で旅行しているの」
「ううん、電車だよ」
「じゃあ、着替えはホテルか何かに置いてるいの」
「あ、うん、そう、ディズニーランドのね、中のホテルなの。とっても可愛いお部屋なんだよ、ミッキーがね、たくさん居るの」
「そっか、じゃ、直ぐには取りに行けないわね、よし、寒いから浴槽に入ってちょっと待っててね」
この子の服や下着の汚れはあの騒動で急に汚れたものではない。もう何日も着替えていないし入浴もしていない。そしてあんな状態でディズニーランドで観光しているはずも無いのである。この子は、その少ない語彙を駆使して嘘をついている。刹那的な悲しい、悲しい虚言を並べている。
浴室を後にした惠は寝室に置いてある箪笥の抽斗を開けた。
・・・有った・・・
抽斗に仕舞われていた衣類は男児の物である。しかし一年に一度買い足されて溜まったその衣類の中には、ちょうど美月の身の丈に合う物も大切に保管されていた。
「お待たせ、これ、男の子の物だけれど、これで明日まで我慢してね」
「ううん、わぁ、可愛い、ありがとう」
お世辞にも可愛いとは言えない男の子用のパジャマを見て美月は満面の笑顔を見せる。
「さぁ、私も一緒に入るね、美月ちゃん」
判断をするには情報量が余りにも少ない。だがほぼ間違いないだろう。入浴をしながらこの子の身体を観察すれば、たぶん、その痕跡があるに違いない。
・・・この子は・・・虐待を受けている・・・
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