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4
朝、目が覚めると必ずあの人は俺の枕元に立ち、俺を見下ろしていた。魚の様に感情の無い目だった。課題が毎日、有った気がする。与えられた課題をクリアできた時は良かった。でも、出来なかった時、あの人は何時も俺の頭を足で蹴った。そう、声でも、手でもなく、無言で揮われる俺に対する有形力の行使は、何時も、足で行われた。
「惠さん、知ってる」
「何を」
「あのね、人の手は、どんな時でも、何処かに優しさが残っているものなんだ。ほら、手加減をするって言葉はよく使われるけど、足加減って言葉は使わないでしょ」
「そう言われてみれば、そうね」
手は愛情を示す。それは仮令(たとえ)それがどんなに些細な愛情であったとしても、手はその人の中の愛情を相手に伝えるものなのだ。しかし足は違う。足はそれを揮う対象に、一切の慈悲を与えない。
「俺は、そんなあの人が、とても、怖かった」
朝食は、米・麦・粟・豆・黍(きび)または稗(ひえ)が交ぜられた五穀米に豆腐の味噌汁、味付け海苔、そして生卵。それが三百六十五日、毎朝食卓に上った。昼と夜は数十種類のメニューがあったけれど、それ以外の食べ物は一切提供されない。緻密に計算された栄養を適切な時間に適切に摂取する。俺の食事は楽しむためのものではなく、身体を如何に健康に維持し成長させるか、それ以外の事は何も考えられていなかった様に思う。俺はあの人の前で食事をするのが、嫌いだった。
・・・まるで、受刑者・・・
でも、幼かった俺はそのことについて自分が不幸であるだとか、あの人の行いが人道に悖るだとか、そんな風に考えた事はなかった。俺にとってそれは当たり前の日常だったし、その環境に不満を持ち、否定的かつ反逆的な気持ちを育てるには俺は幼く、俺はあの人の求める事に応え、与えられる課題をこなすしかなかった。でも食べる物は与えられたし、あの人の求めに応えていれば、あの人の足が俺を踏みにじることは無い。だから俺は、あの人の足が自分を踏み躙らない様に毎日努力するしかなかった。
「ねぇ、遼太君、ひとつ質問をしていい」
「なんですか」
「彼方の話の中に出てくる、あの人って、いったい、誰なの」
「母親かな」
「お母さんなの」
「たぶん」
あの閉塞された空間には情報を得る物が何もなかった。テレビもラジオもなくて、限られた書物と熱帯魚の水槽だけが、俺が物事を考える為の道具だった。それは、俺の記憶の一番最初から存在していたし、俺は好きとか、嫌いとか、そういう事ではなく、何かを考える時、何時も水槽の中の魚を見ていた。
「その水槽の中には、どんな魚が飼育されていたの」
「グッピーだよ」
「他には」
「居ない、グッピー、だけだった」
俺はあの水槽が何の目的であの場所に置かれていたのか、それは知らない。最初の記憶では数種類の連飼いのグッピーが90センチの大きな水槽の中を広々と泳いでいた。そのグッピーが初めて子供を産んだ時の事を俺はとてもよく覚えている。
「惠さん、卵胎生って分る」
「うん、雌親が、卵を胎内で孵化させて子を産む繁殖形態、かな」
あの時、一匹の雌の様子が怪(おか)しいのを俺は薄々感じていた。だから、ずっと、その雌を見ていた。何かが起こる予感がしていた。それはもう明け方だった。水槽の隅でガラスの壁に寄り添うように泳いでいた雌が、ふいに身震いしたかと思うと、尻から勢いよく小魚を産んだ。凄いと思った。生命がひとつ増える事。そうやって生命が新しく生まれる事に、訳も分からず、とても感動した。
小魚は一度飛び出してくると次々と、何匹も何匹も産まれた。俺はそれを夢中で見ていた。
産まれた子供は直に大きくなり、大きくなった子供は、またそれぞれに子供を産んだ。それは無分別に、無差別に、ある時は自分の兄妹に、ある時は自分の親や子供に生殖器を向け、貫き、そして繁殖を繰り返した。けれどある日それは起こった。
無分別と無差別の繁殖により血が濃いくなり、遺伝子に異常をきたした気味の悪い奇形の個体ばかりが水槽の中に増えて行った。そんな気味の悪い感情の無い顔をした奇形の魚がひしめく水槽の中で、それは起こった。感情の無い不気魅な顔の親魚が、産まれたばかりの子供を、食べた。なんの躊躇いもなく、今、自分の尻から放りだした、産まれたばかりの自分の子供を、我が子を次々に食べていた。
それを見た俺は、袖をまくる事もせずに、そのまま両手を水槽の中に突っ込んだ。水草を拭き抜き、装飾の流木も岩も全部取り払った。水槽に繋がれていた全てのコンセントを引き抜き力一杯、滅茶苦茶に水槽の水を掻き雑ぜた。悲しいのか怖いのか、それが怒りなのか恐怖なのか、何も分からないまま、ただ泣きながら水槽の水を掻き雑ぜた。
キッチンに走った。抽斗と云う抽斗全部を開けた。そこに有った塩と醤油と油を水槽にぶち込んだ。有りっ丈の全部をぶち込んだ。やがて黒ずんだ水の中の小さな世界が死滅した。振り向くとそこには何時の間にかあの人が居て、あの人は、あの、親魚と、同じ顔で、俺を見ていた。
その頃の俺はもうあの人の肩を越す位に背が伸びていた。だから俺は、あの人を相手に初めて拳を振り上げた。俺を踏み躙り続けて来たあの人の足が殊の外非力だった事を、俺はその時知った。自分が誰なのか、ここが何処なのかも、あの閉塞された空間の、外の世界の全部をも知らなかったけれど、あの人の足が非力で自分の力の方が強い事が判れば、俺にはそれで充分だった。
もうあの人の足は俺を踏み躙れない。その事実は希望だった。その希望は一気に俺の肩に堆積していた重い暗闇を払拭した。全身の筋肉が暴力的に躍動した。やがてあの人は動かなくり、俺は寝室に行き、本棚に有る全ての書物を、俺に課せられて来た課題の全てを、気が狂ったように破り捨てた。
室内を物色すれば幾ばくかのお金もあったろう。でもそんなもの、その時はどうでもよかった。俺は、ひとつの壊滅した匣(はこ)に在った小さな世界と、それが置かれていた、もうひとつの、それよりも少し大きな箱の中の世界に横たわる、あの人に背を向けた。
総ての光を遮断していた分厚いカーテンを引き千切って、俺は生まれて初めて窓の鍵を開いた。鬱蒼と茂る夜の黒い木の枝の隙間から、遠くに黄色い点滅信号が見えた。
室内の灯りを全部消すと、明滅する黄色い光だけが、今、見えている世界の全てを照らしていた。俺は、最後に一度だけ後ろを振り向いた。横たわるあの人は相変わらず動かなかったけれど、あの人の横たわる床には、その明滅する光に照らされた黄色いりんごがひとつ、ふたつ、転がっているのが見えた。
「少し、休もうか」
「黄色だった」
「何が」
「りんごは、黄色くて、黒ずんでいて、怖い、怖い、腐っていて、それから、それから」
「分った、よく分かったから、もう話さなくていい、大丈夫よ、少し休みなさい」
惠のそれに、肩で息をしていた遼太が言葉を止め素直に目を閉じる。
「大丈夫だから」
惠はそう言うと、遼太から自分の中に何も伝わらない事を確認しながら遼太の頭をもう一度撫でた。
「いい、私は今から入院の手続きをして来るから、そのまま休んでなさい」
惠は遼太の瞼を指でなぞると、そのまま席を立ち病室を出た。
この子達は・・・いったい・・・
病室から階段を階下に降り受付に目を向けると、そこに牧田と美月が居た。それを見た惠はくすりと笑う。あながち似合わなくもないが、あの厳ついゴリラの様な牧田が小さな子供の手を引いているのが惠にはなんだか滑稽に思えたのだ。
惠は美月に気を取られている牧田の背後に気配を消して近づき、掌を耳元に近づけパンッ、と大きく打ち鳴らした。するとあの厳ついゴリラの様な牧田の顔が、今度は鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔になる。
「のわっ、てっ、てめー、惠、な、何しやがるっ!」
「あっはっはっ、可笑しい、秀さんがポッポちゃんになってるよ美月ちゃん」
そう言いながら大笑いする惠を見て美月も笑う。その笑顔はそのまま雑誌のグラビアにも使えそうな程に愛らしかった。しかし、やはり美月のそれは顔面の筋肉だけのもので、心からの笑顔ではない。
虐待が始まる平均的な年齢は二歳前後という統計的な結果が出ている。二歳前後と云うと、子どもの「環境を探索しようとする能動的行為」が活発になる年齢だ。この年齢に虐待が始まる事で子どもは好奇心に満ちた能動性が保護者からの虐待を引き起こすと感じるようになる。能動的な動きは危険を招くものであり、自分の安全を保証するために能動性を抑えるのが一番であることを経験から子供は学習してしまうのだ。すると、自分をとりまく環境に無理やりに適応した結果、子供は能動性や好奇心を抑え込んでしまう。そんな子供に共通するのが「凍てついた眼差し」である。
周囲に警戒心を抱き、内面を決して見せようとしない凍り付いた冷たい瞳。惠は美月のその凍てついた眼差しが、医師としてよりも、人間として痛い程に理解できるのである。何時の間にか唇を噛み締める惠の肩を牧田が軽く撫でる。
「おい、こいつら、面倒を見る事に決めたんなら、早く入院の手続きを済ませて来いよ、美月は俺が見ているから」
牧田は不器用に口角を上げ、撫でた惠の肩を今度は軽く後ろから押してやった。そうすると、痛い程に唇を噛み締めていた惠の顔が、それは何かの確信を得た人の様な笑みに変わる。
「ありがとう秀さん、行ってくるね」
惠がそう言うと牧田はいきなり美月を抱き上げた。美月の顔は笑顔である。恰も抱き上げられた事を喜んでいる子供の様に見える。しかし、本当は困惑している、否、或は、嫌悪なのかも知れない。
人に優しくされる事が無かったであろう彼女にとって、それは耐え難い違和感なはずである。だがこの牧田と云う男はそんな事には全くお構いなく美月を可愛がろうとする。医師の立場から考えるとそれは余り褒められたことではないのだが、牧田にそんな事を言ったところでどう仕様もない。逆にこんな男だからこそ、もしかしたら美月の心を開くことが出来るのかもしれないと惠はその時そう思った。
「じゃ行って来るね」
笑顔でそう言った惠を見て、牧田は惠が大きな決心をしたことを感じた。牧田に背を向けて受付のカウンターを目指す惠の足取りにもう迷いは無い。惠を見送った牧田は美月を抱いたまま正面玄関から外に出た。そして昨日の深夜に訪れたコンビニに足を運び、店の中で美月を床に降ろす。
「さぁ着いた、で、美月、どのお菓子にするんだ」
「いいよ、美月、お菓子、好きじゃないもん」
「んなわけねーだろ、子供はお菓子が好きって相場が決まってんだよ。秀さんなんかな、子供の頃なんて、お菓子しか食べなかったんだぞ」
「うそだー」
「うそだよ」
「秀さんのうそつき」
「美月のうそつき」
「美月、うそなんかついてないもん」
「うそついた、本当はすげーお菓子が好きなくせに」
「好きじゃないもん」
「おい、美月、ひとつだけ俺の言う事を聞け、これは命令だ。いいか、俺は、美月の事が好きだ、それだけは信じろ」
「なんで好きなの」
「そうだな、なんか、小っちゃくて弱っちいから」
「小っちゃくて弱っちいから好きなの」
「あぁ、大人はな、そんな小っちゃくて弱っちい子供を守りたいと思うもんなんだよ」
「そんなの、そんなのうそだ!」
「・・・そうだな、これは少し、うそだな。じゃ、俺は、そうだな、美月のじーちゃんになってやるよ」
「うそだ!」
「これは、本当だ、俺は美月が好きだから、今日から俺は美月のじーちゃんだ、あのな、じーちゃんってのは、お菓子を買い与えて孫を甘やかすって相場が決まってんだよ。だから、意地張ってないで、早く好きなお菓子選べ」
美月の鳶色の瞳が凝呼(じっ)っと牧田の顔を見ていた。その少ない人生に於けるありったけの抽斗を開け、美月は今、何度も何度も、牧草を繰り返し反芻する時の牛の様に牧田が話した言葉を考え、この目の前に居る大男を信じて良いのかどうかを考えているのだろう。そうまでしなければ人を信用できない。そんな美月の生い立ちを思うと、牧田は言いようの無い悲しみを覚える。
時間にして数十秒、否、数分だったかもしれない。凝呼っと牧田を見ていた美月の視線が不意にコンビニの外を流れる車の群れに移る。その視線に釣られて牧田が目を外に移した瞬間、開いたままだったコンビニの出入り口から、突然美月が迫りくる車の群れ目掛けて飛び出した。
「なっ!おい、待てっ、美月っ、危ないっ!」
牧田は慌てて腰を上げ美月の後を追う。だが美月のその小さな足は、まるで獲物から逃れようとする小鹿の様に速かった。
コンビニは病院前のコーナーを抜けた車が丁度加速するポイントだ。数台の乗用車に煽られた二トントラックがアクセル全開で加速しながら近づいて来る。そこに美月は目を閉じたまま、飛び込んだ。
ギャギャギャーーーー
トラックを先頭に数台の車が踏む急ブレーキの音とゴムの焼ける匂いと白煙が辺りの空気を支配する。
ドンッ
鈍い衝突音が辺り全部の喧騒を静寂に導くと、美月を抱きしめた牧田が歩道の外の雑草の上に転がっていた。トラックの後方にいた乗用車が、自分達は関係ないとばかりにそそくさとアクセルを踏み我先にと逃げて行く中、牧田を跳ねたトラックの運転手だけが突然の出来事に顔を青ざめて外に飛び出して来た。
「だ、大丈夫ですかっ」
「お、俺は、も、もう駄目だ、お、お前、この子を、この子を、頼む」
体を小刻みの震わせながら美月を抱きしめていた牧田が腕の力を緩める。するとその腕の中に居た美月が突然大声で泣き出した。
「いやぁぁぁ、ごめんなさぁぁぁい!秀さぁぁぁぁん!」
「み、美月、も、もう、こんな事、しちゃ駄目だぞ」
「はいぃぃ、ごめんなさぁぁぁい、わぁぁぁん、もうしませぇぇぇぇん!秀さん!死んじゃだめぇぇぇ」
牧田はそこで断末魔を掴んだ。牧田を跳ねた男が腰を抜かした様にその場に座り込み、震える手で携帯電話を胸ポケットから取り出そうとする。
「お、おい、待て、お前、俺の、俺の最後の頼みを聞いてくれ」
「へ、あ、あの、と、兎に角、救急車を」
「救急車は、もう、もういい、俺は、手遅れだ」
「そ、そんな」
「お、俺は、こ、この子が、好きなお菓子を、食べて、喜んでいる姿が見たかった、あそこのコンビニで、この子に、好きなお菓子を、選ばせてきて、く、くれ」
「いや、あの、そ、そんな、場合じゃ、と、兎に角、警察に、警察に」
それを聞いた美月は突然立ち上がり、今度は行き交う車に細心の注意を払いながらコンビニへと走った。美月の姿が視界から消えると牧田はむくりと起き上がり震える男の耳たぶをひっ掴む。
「おい、てめぇー、痛かったじゃねーか」
「す、すいません、あ、あの、大丈夫、なんですか」
「そんな事はどうでもいい、おい、お前も運転手なら、人身事故になればおまんま食い上げだろ、勘弁してほしかったら、直ぐにあの子の後を追ってレジ済ませて来い」
「えぇぇ!本当にそれで勘弁して貰えるんすか!」
「いいから、早く行ってこい、おい、美月に悟られんじいゃねーぞ、今いいとこなんだからよ」
「わ、わかりましたぁ・・・」
男は狐につままれた様な顔で美月の後を追いコンビニへと駈け込んで行った。それを見送ると牧田は再び元の場所に寝そべり右の人差し指をぶすりと鼻の穴に突っ込んだ。
「痛ってぇぇ、ちょっとだけ鼻血が出たじゃねーかよ、ったく、いい根性してやがるぜ、あのお嬢様」
暫くすると慌てふためいた小さな足がザクザクと下草を踏み分ける音が聞こえて来る。一瞬、牧田の口角があがり、しかし次の瞬間もう牧田は断末魔の中に在った。
「秀さん、グスン、見て、美月、いっぱい買って来たよ」
美月は、両手いっぱいに抱えたコンビニ袋を牧田に見せると、その中からプリンを取り出し封を開ける。
「そ、そうか、美月、よ、よかったな」
「うん、ほら、美味しいよ、美月、本当はね、プリンが大好きなの」
「美月、秀さん、これで、もう、思い残すことは無い、さ、さよう、なら・・・がくん」
牧田が息を引き取った。(迫真の演技)
「ひ、ひでさぁぁぁん、いやぁぁぁーーー」
「うっそぴよぉぉぉおぉぉーん、ぎゃっはっはぁぁー、やーい、騙されたー」
最初、この上もなく点になっていた美月の瞳孔が、溢れんばかりの怒りと共に黒目の全部を覆いつくす。
「ひ、秀さんの、ばかぁぁぁぁ!」
「うるせー、美月が悪いんだろ」
「ほんとうに、ほんとうに、心配したのにぃぃぃ!」
美月は手に持ったプリンを思い切り牧田に投げつける。
「うぎゃ」
卵に含まれるたんぱく質が熱によって固まる(熱変性)時に、一緒にある水分(牛乳)を抱き込んで固まっただけの頼りない半液体が牧田の顔面に炸裂する。
「やりやがったな、てめー、もうゆるさねー」
牧田はしかし、美月ではなくこの騒動に巻き込まれた憐れなトラックドライバーを睨み据える。
「おい」
「ひっ、は、はい、な、何でしょう」
牧田はジーンズの後ろポケットから萎びた二つ折りの財布を引き抜きそれをドライバーに投げつける。
「これであのコンビニの半液体状の乳製品全部買い占めて来い!お前も混じれ!戦争だぁぁぁぁ!」
「ひ、ひぇぇぇ、わかりましたぁぁぁ」
惠が手続きを終え病室に戻ると遼太はまだ微睡(まどろみ)の中に居た。彼が横たわるベッドの脇にある据付の棚に音を立てぬようそっと受付でもらった書類を置く。惠はそのままの姿勢で遼太を見下ろした。安らかとは言えなかった。時折、遼太の眉の間には思い出した様に軽い皺が刻まれ、その吐き出される寝息には幾つもの苦悶が含まれている様に惠には思えた。
「あ、あぁ、惠さん、美月は」
惠は付き添い用のパイプ椅子に再び腰を降ろすと遼太の頭を撫でてやる。
「大丈夫、秀さんが見ていてくれてるよ」
「そっか、そうだった。惠さん、ちゃんと話せなくてごめんなさい」
まだ微睡から覚め切らぬ遼太の目は薄い。しかし遼太がこうして話してくれるようになったことに惠は安堵を覚えた。
「ねぇ、惠さん」
「ん、なに」
「あの人、秀さんって、いったい、どんな人なんですか」
「あはは、何よ藪から棒にそんな事」
「俺には父親が居ないから、もし自分に親父が居たらどんなだろうとか考えていたら、なんか、秀さんの事が頭に浮かんで」
惠はひとつ大きな深呼吸をする。消毒液のツンとした刺激臭が肺の中に溜まると、惠は、しかしその不快ではない匂いを含んだ空気をゆっくりと吐き出した。
「私もね、父親を知らないの」
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