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私は、名前のとおり惠まれていた。私の家は川辺に何時、誰が建てたものかも分からない様なバラックで、そこはいわゆる差別用語で言うところの、朝鮮部落と呼ばれる場所だった。
父は私の記憶に最初から存在しないし、母は私が物心ついた頃にはもうアルコールが切れると手の震える人だった。
市の福祉課の人たちがよくバラックに来ていた。福祉課の人たちは私を施設に引き取ろうとしたけれど、母は頑なにそれを拒んだ。それは決して私を大切に思っていると云うのではなく、単に私が居なくなれば生活保護を打ち切られる可能性があったからに過ぎない。
「それの、どこが惠まれているの」
話を聞いていた遼太は怪訝な顔で惠を見る。
「確かに環境は人間の成長を左右する大きなファクターではあるけれど、環境だけが人の全てを決めるわけじゃない」
生まれ出た環境はお世辞にも整ったと言えるものじゃなかった。けれど私はそれを悲観する事がなかった。それは、私が人並みではなかったからだ。
身長は常に列の最後尾だったし飛んでも跳ねても走っても私の前にいる子供は誰もいなかった。知能指数が180以上あった私には取り立てて勉強する努力も必要なかった。授業中にノートを開いたことが無い。集中すれば一度聞いただけで先生の話を全部記憶することが出来た。だから何時も成績は学年でトップ。
資本主義社会では飛びぬけた能力にお金が集まる。それが良い事なのか悪い事なのかは別として、国や慈善団体から様々な援助を得て、私は東大医学部医学科に合格し、六年後には医師免許を取得していた。
臨床研修病院で二年間の研修を修了し、福永病院精神科の医局に入局した。彼と出逢ったのは、丁度その頃だった。
「彼って、それは秀さんの事」
「ううん、違う、私の、元夫、片山宗利よ」
片山家は、晩年の徳川家康の侍医を務めた家柄で江戸時代から代々医者と云う由緒正しい家柄だった。でもそれは後々に分かった事で、私と宗利が出会ったのは、極々、他愛もない出来事が切っ掛けだった。
「他愛もないって」
「そう、他愛もない事よ、偶々、同じ電車に乗り合わせたのが切っ掛けだった」
私は彼の顔も名前も、もいろん職業も知らなかった。ある日、何時もの満員電車の車内で高校生の女の子が痴漢に遭っていた。その女の子の周りには四人の、それぞれ年齢もタイプも違う男性が取り囲んでいて、彼女の表情から、彼女が何某かの被害に遭っているだろう事は確認出来た。けれど、それがどの男の犯行によるものなのかを私は判断できずにいた。私が迷っていると、私の背後から声がした。
「右の車窓から二番目の男じゃないですか、血圧が異常に乱れていると思います」
私はその声に促され車窓から二番目に見える男の顔を見た。確かに平静を装ってはいたけれど、よく観察すると呼吸も早く何処か息が乱れている。私は人の垣根の隙間から手を伸ばしその男の手を掴んだ。そして声がした後方に振り返った。彼は透き通るような笑顔を私に向けていた。
{後ろを振り向かず、明日に向かって走れ}
そんな言葉を美徳だと感じる情緒がこの国にはある。私も昔はとても素敵な言葉だと思っていた。でも、今の私はそれを正しいとは思えない。
古いアメリカの映画のワンシーンにこんなセルフが有った。
{現実を知りたければ、後ろを振り向くことだ}
私は、それが正しい事なのだと思う。
「どうして、それが、正しい事だと思うようになったの」
「現実はね、何時だって、過去と云うものの呪縛からは逃れられないからよ」
私が敢えて精神科医を選んだのは、単に血を見るのが嫌いだった事と、それは核心を得る程のものではないにしろ、私は人の心を診る事が出来た。私が自分の現実を悲観せずに生きて来ることが出来たのは、人並みではない、その力の所為だったのかも知れない。その力が誰かの為に役立つのなら、私の過去に有る他の全ての不都合は全部昇華されるものと信じていた。でもそれは違った。私は、彼に出逢った瞬間から、後ろを振り向かねばならなくなった。
「振り向いた先には、何が有ったの」
「差別」
「差別って・・・」
「この国にはね、昔、インドのカーストに勝るとも劣らない純然たる人種差別があった。そして、インドに未だそのカースト制度が蔓延(はびこ)るように、この国にもその差別は脈々と生きているの」
突然、病室の扉のドアノブがゆっくりと回る気配がする。その小さな異変は酷く張り詰めていた空気の中に居た二人には直ぐ伝わった。
「おーい、そろそろいいか」
その声と共に扉に隙間が出来る。二人が振り返るとその隙間から最初に入り込んで来たのは牧田ではなく、芳醇にして、少し胸が悪くなるほどの甘い匂いだった。
「寝ちまったんだよ」
恐ろしく甘い匂いと共に病室に入って来た牧田の全身からは、なにやら茶褐色の滴がポタリ、ポタリと滴り落ちている。
「ちょっ、なに、秀さん、それ、どうしたのよ」
「あぁ、悪りぃ、戦争ごっこしてたら、こうなった」
牧田の大きな胸に抱かれすやすやと眠る美月の全身からも、その茶褐色の滴はそこが病院の清潔なリノリウムの床であるのにも関わらずポタリポタリとお構いなく滴り落ちている。
「せ、戦争ごっこって、どんな戦争ごっこしたらそんな洋菓子の化け物みたいな格好になるのよ」
「あはは、そこのな、コンビニのな、プリンやらヨーグルトやらを全部買い占めて戦争ごっこしてたんだ」
惠は遼太に向け「次の機会に」そんな含みのある微笑みをひとつすると抽斗からタオルを取り出し席を立った。
「ちょっと、もう、こんなタオルだけじゃどう仕様もないわよ、お風呂入らなきゃ」
「だよなぁ、美月め、ったく」
「美月めじゃないわよ、秀さんよ、もう、全く、彼方だけは、本当に私の期待を裏切るわね。まぁ、良い意味でだけど」
惠はそう言いながら、すやすやと眠る美月の顔に目を落とした。副交感神経が働いている。なんという安らかな寝顔だろう。まるで胎盤に護られて眠る胎児の様に何の不安もない安らかな顔を美月はしている。ほんの小一時間。たったそれだけの時間で、この男は長年に渡り蓄積されたはずの美月の人間不信を除き、こんな安らかな寝顔の美月を当たり前の様に抱きかかえている。惠は改めて牧田の計り知れない人間性の豊かさに可笑しさを覚える。
「なんだよ、なに笑ってんだよ」
「ふふふ、なんでもないわよ。遼太君、見ての通り、これが秀さんよ。まぁそう云う事だから、今日は帰るわね。美月ちゃんの事は心配しなくていい。彼方は、先ず自分の身体を治しなさい・・・って、秀さん」
「なんだよ」
「この人・・・誰?」
惠が指をさすその先には、あの憐れなトラック運転手が牧田や美月と同じ様に茶褐色の雫を滴らせながら困り果てた様子で立っている。
「兄貴」
「だ、誰が兄貴だ、な、何だ、お前、まだ居たのかよ」
「今、会社に電話、掛けたんすよ」
「うっ、で、なんて」
「クビだって」
「マジか・・・」
「どうしましょう」
「そ、それは、残念だったな」
「はい、残念です、で、どうしましょう」
「え、どうってお前、そんな、俺に言われてもよ」
「突き放すんすか?」
「いや、その、なんだ、そうじゃねーけどよ」
「俺、今、冷静に考えてみたんすよ、事の顛末ってやつを」
「顛末って、む、難しい言葉を知ってるんだね、君は」
「兄貴」
「げっ、はい」
「そもそも、俺、悪くないですよね」
「え、まぁ、うん、そう、かなぁ」
「そうかなぁじゃねーし、俺、実は被害者だし!」
「え、そうなの?」
「兄貴ぃぃぃっ!」
「わ、分かったよ、巻き込んで悪かったよ、何とかするよ」
「ほ、本当っすか、兄貴」
「あぁ、いいよ、明日から俺んとこ来いよ、丁度、厄介事抱え込んだとこだし、まとめて面倒見てやらぁ、この秀さんがよ」
「兄貴ぃぃぃ」
「な、なんだよ、つか、その兄貴やめろよ、秀さんでいいよ」
「兄貴」
「なんだよ」
「ちょー、かっこええー」
「やめろ、お前、気持ち悪ぃ」
「兄貴、明日からよろしくお願いします」
「お、おう」
「兄貴、明日、何時に出勤っすか」
「んー、じゃ、六時にここで」
「了解っす、じゃ、失礼します」
憐れなトラック運転手はハッピーこのうえない笑顔で病院を後にした。
「だから秀さんって」
「なんだよもう」
「あれ、誰なのよって」
「あ・・・名前、聞いてねーや・・・」
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