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サイコパス
寂れたテナントビルが月の夜空を歪に切り刻んでいる。街路にはホームレスのビニールハウスが立ち並び、交差する道の辻には幾つもの怪しげな屋台が並んでいた。
「これこれ、なんだかんだってさ、やっぱ、これが一番美味いのよね」
そんな屋台のひとつで、サザエの貝殻に大貝の身をぶつ切りにしたものを入れ、日本酒と塩だけで味付けをした焙り焼きをつまみに飲んでいる男の周りを、遼太を襲ったあのチンピラ共が取り囲んでいた。
「で、なんなのお前ら、なんで手ぶらな訳よぉ」
男はチンピラ共の方を振り向き怪訝な声でそう言う。
「叔父貴、すいません、スーパーマンみたいな野郎が邪魔に入ったもんで」
男は、右手に痛々しい包帯を巻いた男のそれを聞いて思い切り口の中の物を噴き出した。
「ぶぅはぁっ、へっ、ひゃっはっはっはっ、スーパーマンみたいな野郎って、なにそれ、なんなのその言い訳ぇ」
「いや、でも、本当に化け物みたいに強い奴で」
「あのさ、お前、馬鹿じゃね、俺らはさ、そんなときの為に道具持ってんじゃん、なんで弾いてやんないんだよぉ」
「叔父貴、いや、そんな簡単に道具使ったら、すぐにパクられ・・・」
パンッ!
叔父貴と呼ばれた男は手に怪我を負った男が言い終わるのを待たずに、懐から取り出した22口径のリボルバーを空に向けて発砲した。辺りには銃声が響き硝煙の匂いが立ち込める。
「おいおいおい、なに言ってんのお前、道具はさ、使う為にあるんでしょ、違うの、びびって引き金引けねーならヤクザなんかやめちゃえよ」
叔父貴と呼ばれた男は躊躇うことなく、その22口径のレンコンに装填されている残りの5発を全弾打ち尽くした。呆然とするチンピラ共が後退りをする。やがて遠くでパトカーのサイレンが聞こえて来ると、それが合図の様に手に包帯を巻いた男以外チンピラ共の全員がその場から一目散に逃げだした。
「ったく、いいよもう、俺が行ってやるよ、おい、その店、連れてけ。つか、お前、誰だっけ」
「お、俺は、あの、えーと」
「ひゃっはっはっ、ウケる、いいよそれ、お前、今日からそれに名前変えろよ」
「へっ、な、なんの、ことっすか」
「阿野だよ、阿、野、お前、今日から阿野瑛人な、ひゃっはっは、ウケるぅぅ、つか、オヤジ、これ、はい」
叔父貴と呼ばれる男は手に持ったリボルバーを屋台の店主に手渡す。店主をそれを顔色一つ変えずに受け取り焙り物の網の横にあるおでん鍋の中に沈めた。
「安楽さん、これ、捌いても」
「いいよ、安物だけどさ、おじさんにあげるよ」
屋台の店主はそれを聞くと柔らかくにんまりとした笑顔で安楽に頭を下げる。
「ありがとうございます安楽さん、また、御贔屓に」
金城組に突如として現れたこの安楽栄治と云う男を、この界隈でもはや知らぬ者は居なかった。徹頭徹尾の武闘派であり、潰された組は数知れず、この男に逆らうヤクザ者はもう誰も居なくなっていた。
「よし、阿野瑛人君、案内したまえよ」
安楽は腰かけていた椅子から立ち上がる。足が長い所為か座っているとそうでもないが、こうして立ち上がると安楽はかなりの大男だった。肩幅は広いが胸板はそれほど厚くない。そしてその広い両肩から伸びる二本の腕は異常に長く、安楽の影だけを見るとまるでその体つきは蟷螂の様だった。
「あの、叔父貴、タクシー呼んできましょうか」
「いいよ、丁度いいこんころもちだからさ、歩こうよ、瑛人君」
安楽にそう促され阿野瑛人と名付けられたこの男は控えめに安楽の少し後ろを歩いた。
「叔父貴、少し質問をしてもいいですか」
「なんだよぉ、お前、質問ってなんだよもう、なんか畏まってそんなのさ、照れんじゃんよぅ」」
「あの、叔父貴は、なんで極道になったんですか」
「瑛人君」
「は、はい」
「違うよ、お前さ、なんか勘違いしてるいよ、俺はぁ、ご、く、ど、う、なんかじゃないからね」
「え、だって、叔父貴は金城組の若頭補佐じゃないですか、喧嘩上等、抗争無敗の安楽栄治に憧れて、俺、金城組に入ったんすよ」
「え、なんて、聞こえなっかった、もっかい言ってみて」
「いや、だから、俺は、喧嘩上等、抗争無敗の安楽栄治に憧れて、極道になったんすよ」
「もう、なんだよぉ、お前、言葉責め得意か、こんにゃろめ、憧れとか、そんな、お前、照れるじゃんよ。んー、そっか、じゃ、いいもん見せてやるよ、着いて来い」
「えっ、あの遼太って奴と、美月ってガキ、探さなくてもいいんすか」
「今日はもういいよ、つか、お前ら、あのガキどもが何故追われてるか知ってるの」
「いや、し、知らないっす、ただ、命令されたから」
「お前さ、何故あのガキどもが追われてるか、知りたくね」
「し、知りたいっす、金城組全体で追うって、それ、尋常じゃないっすよね。俺、ずっと疑問だったんすよ」
大きな国道沿いに立ち並ぶ全国チェーンの飲食店の看板は、それは何処かの国の国境線の様に安樂達が住む裏町から、ここが現実世界である事を誇示する様に光っていた。
「じゃ、教えてやるよ、瑛人君、タクシーを拾おうか」
安樂は歩道から少し車道に体を出し、前方から走って来るタクシーに向けて手を挙げる。タクシーは安樂の挙げた手に応じてオレンジ色のウィンカーを左に出し、次いでハザードを焚きながら二人の前に停車した。タクシーは二人を乗せ、そのまま西に進路を執る。阿野が窓を少し開くと、都会特有の雑踏に含まれるあの匂いは何時しか消えていて、新緑の草の匂いが鼻先を掠めた。
「叔父貴、何処に行くんですか」
「ぷぷぷ、秘密基地。どう、楽しみだろぉ?」
やがて車窓から内に入る風に汐の香りが混じり込んでくる。阿野は窓を全開にして、ヘッドライトが切り裂く闇の向こう側に目を凝らした。
「ここは、いったい・・・」
そこは、海と言うには狭く、川と言うには広く、遠くに望む大海原から少し陸に切り込んだ場所にある汽水域の川が流れる村だった。安楽は無言でタクシーを降り、阿野が精算を済ませるのを振り向きもせず車外で大きくひとつ伸びをしている。運転手は妙な緊張を顔のあちこちに浮かせたまま卑屈な態度で料金を受け取ると、そそくさと車を走らせ元来た暗闇の中に消えて行った。
「なんすかね、強盗でもされると思ったんすかね」
「タクシーの運転手はよく知ってるんだ。ここがどれだけ危険な場所かってのをね、ここは、村中だから」
「村中って、そう云う地名なんすか」
「あはは、瑛人君、お前、結構世間知らずだな。ここは、村。いわゆる、部落さ」
「部落って、あの、昔、身分の低い人が押し込められてたっていう」
「なんだ、知ってんじゃん。そうだよ。同じ人間なのに、ここに住む奴らは、こんな時代になってもまだ人間として扱われていない。ここに住んでいる連中は人間以下だと、未だに世間は差別をする」
「差別、ですか」
「ここはね、俺の故郷なんだよ」
「ここが、叔父貴の・・・」
安樂が右手の人差し指と中指を立てる。阿野は心得た様に煙草をポケットから取り出すと安楽にそれを差し出し、その筒先にライターで火を点けた。
「差別ってのはね、色々な原因がある。でもね、概ね、風習や宗教が理由だ。インドのカーストはよく差別の槍玉に挙げられる事が多い。しかし、これも宗教上の理由からでね、日本の部落差別とは根本が違う」
「根本・・・ですか・・・」
「あぁ、そうだ。差別には肌の色の違い、生活風習の違い。インドのカーストは同民族間差別であっても、宗教って目に見える理由がある。だが、日本の部落差別は違う。同じ民族で同じ風習であるにも拘らず、宗教的理由もなしに、ただ、人を、人でなしと呼び、差別をした。これは、差別の歴史の中でも世界に類を見ないものだ」
「どうして、そんな差別が始まったんですか」
「人は、他の誰かより自分の方が優れている、優位に立っていると思いたい生き物だ。特に日本人は、狭い島国根性ってのがあってね、心のさもしい人間が多かった。狭い島国の中、更に狭い地域の中で、俺は庄屋だから偉い、地主だから偉い、そうやって、一部の人間が自分の虚栄心を満足させる為に、同じ国の人間であるにも拘らず、同じ風習や歴史、宗教を持つ同民族であるにも拘わらず、差別する対象を無理やりに造り出した」
安樂はそこまで言うと、右手の指に挟んだ煙草を川に投げ捨て阿野に背を向けたまま歩き始めた。阿野はその安樂の背中を黙って追う。
「日本には飛鳥時代、仏教が伝来した。それ以来の日本人は四足、つまり豚や牛を食べなくなった。仏教は日本人にこう教えた。四足には魂が有る、殺生をしてはいけない。死体には触れるな、死の穢れが移る。馬鹿な話だ。動物の命にまで日本人は差別をする。鳥類、爬虫類、魚類、昆虫は殺していいなんて誰が線引きしたってんだ」
安樂は振り向かず、前を向いたまま独り言の様に話を続け、阿野は安樂のそれに耳を澄ませる。
「動物も人間もいつかは死体になる。死体は絶えることなく毎日生産される。その死体の処理は誰がする、それは、誰かがやらねばならん仕事だ。畜産もそうだ。仏教の影響で日本人は殺生を嫌う。ところが、日本は今では世界でも有数の食肉消費大国だ」
安樂と阿野の足元は、やがて舗装路から離れ、小さな砂利が靴の下で感じられる砂利道になって行った。
「殺生はいけない事だと子供に教えながら、食肉を貪り喰う日本人。自分たちが食う食肉を生産する為、貧しい人々に供給されるべき穀物を、金にものを言わせ買い占める日本人。食肉を生産供給する人々、豚や牛の皮を剥いで革製品を生産供給する人々、人間の死、死体の処理に関わる人々を、卑しい身分、エタや、ヒニンだと呼び、蔑み差別する日本人」
安樂が突然立ち止まった。そこは川の土手だった。安樂はその土手を下りて川辺へと向かった。阿野もそれに習い安樂の後を追って川辺に下りる。安樂は暫く無言で土手を見上げながら川上へと歩いた。
「ここだ、見ろ、小さな横穴があるだろう」
安樂の言葉に、阿野は安樂が指さす方に目を向ける。するとそこには、人が二人ほど入れるだろう、浅い横穴が幾つも点在していた。
「瑛人君、お前さ、火垂るの墓って、映画、見た事ある」
阿野は安樂に言われ、あの映画のワンシーンを思い出した。確かに、似ている。あの少女が、亡くなった川辺に、ここはとてもよく似た風景だった。
「あの話は、よく出来ていた。あれは事実だ。お前が見ているその横穴で、エタだ、ヒニンだと差別を受け、行き場を失った在日朝鮮人や村の人々が戦時中、この横穴で、あんな風に死んでいったんだ、ぷぷぷ、酷いと思わないか、日本人ってよ」
「叔父貴、叔父貴は、俺が在日だと、知って?」
「お前が半殺しにした遼太君、彼奴も、お前と同じ朝鮮だ。まぁ、あいつの場合、ハーフだがな」
「それは、本当なんすか」
「あぁ、彼奴は、俺が拾った。丁度、今、瑛人君をここに連れて来た様に、彼奴もここに連れ来て、今、話した事と同じ事を話した。彼奴に俺は、鞭を握れと言った。彼奴は俺が渡した鞭を手に取り、俺達の仲間になった」
「む、鞭って、いったい何の話ですか叔父貴」
安樂はコートの内側からそれを取り出した。安樂が手にしているのは一般に認知度が高いしなる紐、或は細い棒状の鞭ではなく、唐以降の中国などで用いられた、金属の警棒状の捕具、所謂、硬(こう)鞭(べん)と呼ばれる物だった。しなりはまったくない。鉄の場合は鉄鞭と言い、日本の十手も同種。柄となる部分以外には、威力を増すために竹のような節などが付けられている。中国の刑罰で鞭打ちとなった場合、ひも状のムチではなく、棒状のムチを指す。成人男性が全力で殴りつければ、刑の途中で死亡する者もいるほどの威力がある。
「これが、鞭だ」
安樂は、阿野の眼前でゆらり、ゆらりとその鞭を揺らして見せた。
「瑛人君、生き物を、殺した事はあるか」
「生き物って、あの、えーと」
「何でもいいよ、虫でも、魚でもよ、何でもいい、殺したことはあるか」
「は、はい、あります」
「初めて生き物を殺した時、お前、どう思った」
「ど、どうって、言われても・・・」
会話をしている最中も、安樂の手に握られた鞭は、ずっと、一定のリズムで揺れている。
「俺は、他の意思ではなく、自分の意思で、自分の悪意で、初めて生き物を殺した夜、一晩中、泣いたんだ」
「えっ、お、叔父貴が、な、泣いた・・・」
「怪(お)訝(か)しいか」
「あの、えーと、叔父貴が、泣くなんて、なんか、その、イメージ出来なくて」
「ぷぷぷ、だよねぇ、自分でも話してて恥ずかちぃ。でもよ、不思議と、悲しいとは思わなかったんだよ。別に、なんともねぇのによ、涙だけが、止まらねーんだ」
「そ、それは、俺には、よく分からないです」
「でも、それっきりだ」
「何が、それっきりなんすか」
「俺にもよくわからねぇよ、よくわからねぇけどよ、その夜以来、俺は、変わった。俺はそれ以来、どんな事をしても、何も思わなくなった。だからよぉ、何でも出来るようになったんだ。どんな悪い事でも、躊躇うことなく出来るようになった。ところがだ。たったひとつだけ、消えない感情が有る」
「消えない、感情、ですか」
「なぁ、瑛人くん、在日朝鮮人の二世、三世たちは、この日本に産まれて、日本人と同じ飯を食って、同じ糞をして、同じ様に、真面目な暮らしをしているのに、ずっと、チョンコ、チョンコって、蔑まれ、差別され、どんなにひたむきに頑張っても、ろくな仕事にも就けず、何か問題があれば直ぐに解雇され、最後は刑務所に行くか、死体になるしかなかった。そうだろ、違うか。俺の中にたったひとつだけある感情、それは、この国に住む、閉鎖的な人間どもに対する憎しみだ」
安樂は揺らしていた鞭を今度は指で弾く。キンキンと耳障りな金属音が何度か静寂の川辺に木霊した。安樂は鞭を阿野の目の前に差し出す。すると阿野はそれを躊躇うことなく受け取った、否、最早、阿野はその時、躊躇う事が出来なかったのかもしれない。
「向こうを見ろ、あそこに森が見えるだろう」
「はい」
阿野に鞭を手渡した安樂は、再びコートを開き、今度は自分の煙草を一本取り出して阿野に手渡しす。
「俺の姿が見えなくなったら、そいつを一本吸ってあの森に来い。いいものを見せてやる」
安樂は阿野にそう告げると、意味ありげな嗤(わら)いを口元に含んだまま阿野に背を向け、鬱蒼とする夜の森へと歩いて行く。ジャリジャリと革靴の底が小石を踏む音が遠ざかって行き、つむじ風が安樂のコートをひらりとひとつ揺らす。すると安樂の羽織るコートは瞬く間に黒い景色の一部となり、黒の中に溶けて行った。
初夏であるというのに川辺の風は肌を刺すように冷たい。阿野は安樂が消えるのを見送ると、その冷たい風に身震いをした。安樂が言葉にしてくれた質(もの)は、阿野が今まで言葉にできなかった憤りの全てだったのかもしれない。己が、何故こうも破壊的に、反社会的になるのか。何に苦しみ、何に憤り、何に泣いているのか。阿野は安樂の話を聞いたこの瞬間それを理解した。それは一種の悟りだったのかもしれない。
阿野は目の前をもう一度見た。そこは、暗い川辺の黒い道、そして、その先に聳えるのは、何者をも黒く包み込む黒い森。
「恐い」
それを見た阿野は感覚的にそう思う。視覚を奪われる闇を恐いと思うのは生き物の本能だ。しかし阿野はその本能が示す恐怖の向こう側に限りない床しさと魅力、そして期待を見ていた。安樂に手渡された煙草を、阿野はそれに火を付けぬまま匂いを嗅いでみる。厭な臭いがした。バナナに含まれるアルカロイドの様な厭な、そして危険な匂い。阿野はそれでもよいと思う。どうせこの先、この日本に居る以上、自分には陽の光の下を歩く未来は訪れないだろう。
安樂の煙草を口に咥える。ライターの火をゆっくりと筒先に近づけた。煙を吸い込むことへの微かな躊躇いと恐怖感を喉元でグッと奥に呑み込む。すると、そんな自分が滑稽に思えて、阿野はライターの炎を一気にその筒先から吸い込んだ。
時間にして数秒だった。何時もは死んでいる筈の、何者にも命を与えることの無い月の光が、まるで太陽の日差しの様に明るく見えた。阿野が知っている世界の色、色彩の全てがそこに在る気がした。そして、その鮮やかな色彩が自分に別れを告げに来たことも阿野は同時に理解した。太陽の光の中に在るこの世界のあらゆる彩に、阿野は小さくひとつ手を振りそれに別れを告げた。後に残ったのは純然たる黒の濃淡。阿野は安樂から渡された煙草を吸い終えるとそれを足で踏み躙り、安樂が消えて行った、一切の色を失ったその黒い森を目指し歩き始めた。
阿野の見ている世界は、もう阿野の知る以前の世界ではなく、点描画の様な、黒と白だけの世界だった。麻薬ではない。これまで様々な麻薬に身を落とした事のある阿野にはそれが分った。精神の興奮も鎮静も感じられない。ただ、その感じられないと云う事に違和感を覚えるのである。どうでもいい。あらゆる物事がどうでもいいと感じるのだ。
なるほど、これは諜報機関などが暗黙の元に用いる、自白剤、或は、洗脳剤のようなものだろう。阿野は黒い森の中を歩いた。速くもなく、遅くもない歩調で、空っぽのまま歩いた。どれくらい歩いたろう。安樂が歌を口遊(くちずさ)みながらひとり、道端で阿野を待っていた。
♪探し物はなんですかー ♪見つけ難いものですかー
しかし、もうそれは安樂ではなく、阿野の目には巨大な蟷螂に見える。
♪カバンの中も、机の中も、探したけれど見つからないのにー
安樂の目は、蟷螂の点黒目の様に、何処から見ても自分を無感情に睨み据えて来る。
♪まだまだ探すきですかー ♪それより僕と踊りませんかー
蟷螂は阿野に背を向け、さらに深い森へと歩き始め、阿野は導かれるようにそれを追う。
♪夢の中へ、夢の中へ、行ってみたいと思いませんかー♪うふっふー♪う ふっふー うふっふー♪さーあー
暫く歩くと、そこには古びた牛舎があった。しかし、牛は一頭もいない。静寂の中、その牛舎の異臭だけが、そこが牛舎であったことを告げていた。
「着いたよ、瑛人君、ここが、その夢の世界だ」
蟷螂は朽ちかけた牛舎の一角に積まれている藁をその細く長い手で払いのける。するとそこには、幾重にも頑丈に施錠を施された赤錆びた鉄の扉が現れた。
「いらっしゃい、瑛人君、歓迎するよ」
厳重な施錠はすぐさま取り払われた。数段の階段を降りると今度は鉄格子があり、その先には何人もの子供が監禁されている。阿野は驚かない、否、あの煙草の所為で驚けなかった。
「瑛人君、質問です、これは、良いことですか、悪い事ですか」
阿野は蟷螂の質問を考えてみる。こんな暗い森の朽ちかけた牛舎の地下に、子供が何人も監禁されている現実。それは、誰がどう考えてみても、悪い事だ。阿野は少時(しばらく)の空白の後に蟷螂に対して答えた。
「わ、悪い事です」
「そうですか、では、次の質問ですよぉ、瑛人君が見ているこの光景は、悪い事ですか、良い事ですか」
阿野は再び蟷螂が言う同じ質問を考えてみる。そしてまた少時の空白の後、蟷螂の質問に答える。
「悪い事です」
「そうですか、では、また次の質問をするよ、瑛人君、子供がここに沢山います、これは正しい事ですか、間違った事ですか」
「間違った、事です」
「瑛人君、よく、考えてみよう、これは、悪い事ですか」
同じ内容の質問が繰り返される。何度も、何時間も、同じ質問内容だけが質問される。自分の答えを否定されることは無い、しかし質問に対する答えが正解なら質問者は同じ質問を繰り返さない筈だ。質問の答えが間違っているから質問者は同じ質問を繰り返す。自分の答えは間違っている。正解はなんだ。阿野は思考の停止した頭で考える。
「良い事です」
「おい、加藤、伊藤、大西、出て来い、瑛人君がちゃんと答えられたよ」
いつの間にか阿野の周りを三人の男が取り囲んでいた。
「ようこそ、神の園へ」
加藤がそう言うと三人は続けざまに阿野の肩を軽く叩き歓迎の意を表した。
「瑛人君、知ってるかい、日本では届けが出されるだけで、年間、8万人の行方不明者が居る。捜索願が出されない者を含めると、延べ10万人の人間が消えているが、発見されるのはその内の半分にも満たない。そして、全体の多くを占めるのが十代以下の若者であり、子供達だ」
蟷螂が再び阿野に煙草を勧める。阿野はそれを口に咥え筒先に火を点けた。アルカロイド系特有の苦みが煙に混じり阿野の鼻腔を刺激する。そして、その刺激は更に阿野の思考を奪って行く。
「日本の警察は犯罪検挙率90%以上。日本は世界でも有数の治安大国だ。しかし、それには裏がある。日本の警察は解決できる事件しか事件にしない。解決出来そうもない事件は民事不介入を盾にはなから事件として取り扱わない。つまり、勝てる戦しかしないのが日本の警察だ」
阿野の指をすり抜けるように煙草が床に落ちる。意識はある。しかし、阿野の思考は完全に停止した。阿野はゆっくりと後ろを振り向いた。狼が居た。狼が三匹、阿野の背後で涎を垂らしていた。
「お前なんか産まなければ良かった。お前なんかいなければいいのに。そんな風に扱われる子供は世の中には吐いて捨てる程に居る。こいつらはそんな子供だ。要するに、親だけではなく、社会から見捨てられた人間だ。捨てられているなら拾って何が悪い、そうだろ」
母子家庭の多くは、家賃が優遇される公営住宅に移り住むことが多い。しかし、家賃や、保険料の控除、幾ばくかの母子手当の給付を受けても、父親が居る世帯に比べれば、その生活レベルは遠く及ばない。母親の多くはその現実に打ちひしがれる。現実から逃避しようと仕事に逃げる者、ギャンブルに逃げる者、男に走る者、酒や麻薬に溺れる者。数多の理由の中、ネグレクト(育児放棄)は始まる。
「ぷぷぷ、公営住宅なんかに行くとよ、ランドセルを背負ったまま夜遅くまでウロウロしている子供が何人もいる。そいつらは大概、母親からのネグレクトに遭っている。俺達は何も無差別に攫うわけじゃない」
一般の感覚で、子供が行方不明になれば親も警察も必死に捜索するものだと考える。しかし、ネグレクトに遭っている子供にそれは当てはまらない。心を病み、未来に希望を見出せなくなった、そんなシングルマザーたちは子供が消えた事に、「もうこのまま、忘れてしまえば、育児に悩まされずに済むかもしれない」そんな悪魔の囁きに耳を傾ける者も居るだろう。捜索願は出す、しかし必死になって探そうとはしない。警察も事件性が有る(解決できる問題)と判断しなければ事件にする以前に探そうともしない。
行方不明になった子供は、やがて失踪宣告を受けるなどして社会から忘れ去られていく。そして、もしその誘拐犯が、日本国民でなかったら。この国の直ぐ近くにある、あの独裁国家の人間が行った事件なら、憲法9条に縛られ、他国に軍事力を行使できないこの国は、誘拐された人を取り返しに行く事はおろか、逆に誘拐された事を隠蔽し、闇に葬ってしまう様な国なのだ。
「日本人の子供は、大金になるんだよ、ぷぷぷ」
阿野の頭の中にはもう何もない。洗脳により、安樂が頷く事だけが答えの正解だと云うロジックが完成している。
「何故、日本人の子供は金になるのか、ぷぷぷ、それは、日本が、これも世界でトップクラスの衛生大国だからだ。日本人は清潔だ。アジアの貧困国の子供の様に病気を持っていない。考えてみろ、臓器を移植したら変な病気に感染したってなったら何の為に高い金を支払って臓器を買ったのか分からないだろ」
誘拐・・・拉致・・・ 臓器売買・・・
アルカロイドで抑えられた阿野の思考は、それでもこの言葉にだけは嫌悪を感じる。罪もない小さな子供を殺しその臓器を売買するなど、それはもう正に悪魔の所業である。
「憲法9条で縛られたこの張りぼての国は、浚い放題、拉致放題のドル箱だ。どんなに拉致して国民を海外に売り捌いても国家は何も出来ない。いや、何も出来ないどころか、国家間の摩擦を恐れ自国民を平気で見殺しにする」
阿野の瞼や眉がぴくぴくと蟷螂のその言葉に反応する。しかし蟷螂はその反応を見逃すことなく、すかさず阿野にたたみ掛けるような質問をする。
「瑛人君、君は日本人じゃないよね。日本人の子供を売買する、それは悪い事ですか」
阿野の思考は洗脳に従がい蟷螂の求める答えを模索する、しかし阿野の中の善意が悲鳴を上げる、それは間違いだと、それはいけない事だと必死に泣き叫ぶ。
「そ、それは、わ、悪い、事です」
「瑛人君、もう一度聞くよ、在日を苛め抜いて来た日本人になら、何をしてもいいんじゃないのかい。君も差別に苦しんで来たんだろ。ぷぷぷ、よく考えるんだ、日本人の臓器を売買するのは、悪い事ではないですよねぇぇぇ」
「うごぉあぁぁぁ」
阿野の口角に白い泡が吹き出してくる、奥歯は砕けそうなまでに食い縛られ、無感情であるはずの阿野の顔が苦悶に歪んで行く。
「瑛人君、俺達は、差別される側から、差別する側に行くんだ。誰がどんなに叫んでも、この世から差別はなくならない。それなら、差別する側に行くしかないだろう。違うか」
「おぉぉじきぃぃ、み、見損ないましたぁぁ、極道はぁぁ。極道はぁぁ、在日はぁぁ、そうじゃないぃぃ」
「おいおいおい、馬鹿かお前、だから最初に言ったじゃん、俺は極道じゃないよって」
「うがぁぁぁ」
阿野がいきなり立ち上がり鉄格子に向かい走り出した。
「やめろぉぉぉ、こんな事、こんな事、人間のやることじゃねぇぇぇぇ」
阿野は必死に力ずくで鉄格子を外そうとするがしかし頑強な鉄格子はびくともしない。
「あららー、洗脳失敗かぁ、意外に義侠心が強いかぁ。なんだよもぅ、けっこう気に入ってたのになぁ」
安樂は振り向くと、加藤に向かいそうため息を漏らす。
「珍しいですね、あいつ、そんなに見どころがあったんですか」
「そうじゃねーよ、阿野瑛人って、名前がさ、ぷぷぷ、ウケるぅ、いいだろ」
「叔父貴、どうするんです、あいつ」
「そうだなぁ、阿野瑛人はお気に入りだったけど、殺すか」
「叔父貴、提案なんですが」
加藤の横から前に出て口を挟んだのは大西だった。
「何だ、大西」
「はい、檻の中にいるガキどもの中から阿野瑛人を選んじゃどうです、こいつらの中に差別される側から差別する側に行きたい奴が居るかもしれません」
大西の提案を聞いた途端、安樂の目が綺羅(きら)綺羅(きら)と輝いた。
「大西ぃぃ、お前いい事言うなぁ、そいつはいいや、あはは、うん、いいよ、大西、やろう、やろう」
安樂は立ち上がると阿野の後ろに立った。阿野は鉄格子から手を離し安樂に向かい身構える。
「瑛人君、君の憧れの、安楽栄治が相手だ、さぁ、掛かって来いよ」
阿野は大きく目を見開き拳に力を籠めるが身体に力が漲(みなぎ)らない。アルカロイドの効き目がピークを迎え、阿野はなす術もなくその場に膝を付いた。
「なんだよ、だらしないなぁ、もういいよ、おい、大西、阿野を檻にぶち込め」
「はい」
阿野は大西に髪の毛を引き摺られ子供たちが監禁されている檻の中に抛り(ほうり)こまれた。安樂は檻の前に転がっている阿野が手放した鞭を格子の隙間から檻の中に投げ込む。
「お前ら、誰でもいい、そいつを殺せ、そいつを殺した奴が、今日から阿野瑛人だ」
だが、そんな安樂の呼びかけに応える子供は誰一人居なかった。子供たちは真っ青な唇に恐怖を浮かべたまま、ただその状況に震えているばかりだ。
「なんんだよぉ、折角のチャンスだよ。ほら、言うだろ、成功は逃げない、逃げているのは自分だってさ。誰か殺れよ、後一分な」
そう言った安樂が腕のロレックスに目を落としたその時だった。一人の少年が檻の一番隅から立ち上がり前に向かい歩いて来た。
「おれ、やる」
少年は鞭を拾い上げ無表情でそのしなりの無い鉄の塊を見詰めている。
「ははは、おもしれぇ、いいぜ、殺れよ、殺ればお前を今日から俺たちの仲間にしてやる」
加藤、伊藤、大西が興味深げに檻の前に足を向ける。少年は白目を剥いて泡を吹いている阿野を見下ろした。なんの躊躇いもない一撃が頭上か頭蓋骨を目掛けて振り下ろされる。悲鳴は上がらない。スイカが叩き潰されるような鈍い音だけが檻の中に響いただけで、後は暫くの静寂がその場を包んだ。
ポタリ、ポタリ。ポタリ。
鉄鞭から滴る血が檻の床を赤く染めて行く。
「いいよ、いいね、おい、拍手だ、拍手」
四人の拍手が少年のその行為を賞賛する。
「まぁ、お前、売り物にならねえし、そもそも、まだ生きてたのかよって感じだし、よしよし、合格、合格。お前、今日から阿野瑛人になれ」
阿野瑛人に命名された少年は、血塗れになったもう阿野瑛人ではなくなった男の頭にとどめの一撃を打ち下ろそうともう一度鞭を振り被る。
「おい、待て、そいつにとどめを刺す前に聞いておきたい事がある」
安樂はそう言うと自ら檻の中へと足を運び、そして血塗れの男の髪の毛を掴み上げ、耳元で囁いた。
「おい、お前らをボコって遼太と美月を匿っている奴ら名前を言え。言えば金城組で同じ釜の飯を食った好でこのまま解放してやる、運が良ければ命は助かるだろう。もし、言わなければぷぷぷ、分るよね」
もう虫の息しかしていないこの男が助かる可能性は殆ど無い。しかし、男にはまだアルカロイドと安樂の洗脳が効いていた。
「ま、まきた、ひぃ・・でお・・・と、かん・・・ばやし・・・め、めぐみ・・・」
男がその末期の声を発した途端、安樂の背中にまるで凍り付くような殺気がほとばしる。何時もはいったい何をどう考えているのか全く分からないこの安樂と云う男が、誰が見ても分るほどの殺気をその背中から放ったのだ。
「なぁんだとぉぉてめぇぇー、何故それをもっと早く言わねぇんだぁぁぁあぁぁ」
蟷螂の様に長い安樂の腕が天井に最も近い場所まで振り上げられたかと思うと、それは左右の目にもたまらぬほどの連打となって男の顔面に降り注いだ。一瞬で男の顔はもうその原型を留めない。既に、それは顔ではなく、肉の塊でしかなくなっていた。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・」
グチャグチャに潰れた男の顔面を凝視していた安樂が漸く顔を上げる。
「ひゃっはっはっ、どうだかねぇ、縁ってのは、不思議なもんだねぇ。惠、お前は、俺から逃げられねぇようになっているみたいだぜ」
独り言のようにそう呟いていた安樂が三人の名前を呼んだ。
「おい、加藤、伊藤、大西、お前らは牧田秀夫と、神林惠の消息を調べろ」
「ま、牧田秀夫って、親父さんにはどう説明するんです、あいつらには手を出すなと言われていますが」
「頃合いだ、俺は親父の所に行ってくる」
「分りました」
「そうだ、阿野、お前がとっても知りたい事、教えてやるよ。お母さんの事、知りたいだろ?教えてやるから、あいつらの居場所が分かったら、お前がその死体、始末して来い」
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