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「ろろろ……?」
わざわざ「」で強調してまで書かれたその三文字の平仮名の並びに、私の目は嫌でも引き寄せられた。
なんとも間の抜けた響きであるが、“少なくとも私の勝手な解釈では”家族への愛情に溢れた妻の日記にわずかに温まっていた私の胸は、この三文字に妙に締め付けられる感じがした。
次のページにも、筆まめな妻の日記は変わることなく書いてあった。
気になっている朝ドラの感想に始まり、パート先の文具店に来たクレーマーへの愚痴、サキにどうやってニンジンを食べさせるかの工夫など、実に多岐にわたる。
微笑ましい母娘のやり取りに頬を緩めた私の目は、やはり顔を出した“ろろろ”の三文字に止まってしまう。
――「ろろろって何?」と聞いても、サキはろろろだよとしか言わない。
アニメか何かにそんなのがいたような気もする。めちゃ喋ってて可愛い!
ろろろと話している間は大人しい。お夕飯作る間はおしゃべりしててもらえると助かるなぁ(笑)
文面からは特に気にしている様子は見られない。
だが、第三者である私には強烈な違和感があった。
日常とは全く異なる、不可解なものを感じる。
この日の日記はそこからまた別の話題が続いたが、私はもう他の話が頭に入らなくなってしまった。
――私に話し掛けてきているのかと思ったら、開いたクローゼットの中に向かって話し掛けていた。えっ、ろろろさんそこにいるの?(笑)
別の日の日記にも、当たり前のように“ろろろ”は現れる。
そして、その頻度も、日を追うごとに増えていく。
6月3日(月)
ヒマつぶしに見たYouTubeで変なものを見てしまった。
一般人が投稿した心霊動画だ。
こういうのをバカにしながら見るのが好きなんだけど、笑えなくなった。
小さな子供が、壁に向かって一心不乱に話し掛けている動画。
その姿が……サキにそっくりだ。
ろろろが本当にいるとは思わない。
でも、サキの発達に問題があるという事はないだろうか。
思えばウチの子は、他の子よりも立って歩くのが遅かったし、保育園でも、少しぼうっとした所があると言われた事がある。
いつも一人で遊んでいて、あまり他の子と話すのを好まないとか……。
パパに相談した方がいいかな……。
……その相談を受けた事はない。
妻の自殺未遂、その原因を急に突きつけられたような気がして、私は足元がぐらつくのを感じた。
自分の子供に、発達の遅れや障害があるかもしれないという疑念を、楽観的に受け止められる親などいない。
妻は私に相談できず、抱え込んでしまったのではないか?
目の前が暗くなるような感覚に顔をしかめつつ、私はページをめくる。
ろろろ。
ろろろ。
ろろろ。
あれほど豊かな感性で書き連ねてあった、色とりどりの生活が、少しずつ「ろろろ」に支配されていくのが見て取れた。
寝ても覚めても、妻はろろろに、サキの成長に関して思い悩んでいたのだ。
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