見ている。

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 結局、仕事を辞める事は出来なかった。  この年齢で一から仕事を見つけるのは至難の業だと、冷静になって考えた末の決断だ。  だが今は、工事部から外れ、総務部で本社勤めをしている。  残業は少なく、また現場手当も無くなったため給料はだいぶ安くなってしまったものの、山奥で土砂や地下水と睨み合っていた頃と比べると、生活の自由度は比べ物にならない。  朝は弁当を作ってサキを保育園に送り、夕方は保育園に迎えに行く為、16時には仕事を終えて帰ることができる。  今は、こうしてサキと二人で妻の帰りを待っている。  この新しいマンションで。 「今日もママのところ行くの?」 「うん。だから今日は車で迎えに行くからね。保育園の後におばあちゃんを迎えに行って、それから病院だよ」 「わかったー」  一命を取り留めた妻と話し合い、マンションは売り払う事にした。  妻にとっては、恐ろしい思い出だけが残る場所だ。  給料が下がる事もありかなり悩んだものの、やはりもう一度やり直すにはこれしかないと思った。  今の中古マンションは前と比べるとかなり手狭にはなったが、親子二人の住居としては今のところ特に不足は無い。  あとはここに妻が戻ってくれば……。  妻は心に深い傷を負った。  妻の父親も、本心では私を赦してはいないだろう。  義母のとりなしがなければ、問答無用で離婚させられていたはずだ。  何もかも元通りというのはムシのいい考えかもしれない。  だが、少なくとも再出発を切る事はできそうだ。  実家で療養中の妻を迎えて、私達はやり直してみせる。  ――そういえば。  妻の日記に出て来た、あの「ろろろ」とはいったい何だったのだろう。  サキの空想の中から現れ、妻の精神を侵した「ろろろ」。  ここしばらくはこうしてサキと接する時間がかなり長くなっているが、妻の日記にあったような、サキがそこにいない“何か”と話すような様子は見られない。  日記では常に「ろろろ」と何やら話しているようだったが、今の娘の興味の対象はもっぱら「プリキュア」だ。  年齢相応にお人形を欲しがり、テレビにかじりつく。  壁やクローゼットに向かって話し掛けているよりはずっと健全と言える。  妻の了解を得て、あの日記は処分した。  あれは私からの誕生日プレゼントだが、持っていて気持ちのいいものではない。    「ろろろ」なんて、いない。いるはずがない。  “もし本当に存在したとしても”、あのマンションに置いてきてしまったのだから……。 「楽しみだねぇ。はやくママに会いたいねぇ」 「そうだね。じゃあ行こ――」  二人分の弁当箱を持って、私は娘の声がした方を振り返り、そして、絶句した。  私に話し掛けていたのではない。  手に持っていた人形を床に落とし、壁に向かって話し掛けている娘の姿がそこにあった。 「ママ、会ったことあるよね? え、そうなの?」 「サ、サキ……?」 「うん、そうだよ。これから保育園なの。保育園楽しいよ。あ、でも来れないかー」 「サキ……やめ……」  人形とおままごとをしているのとは全く違う。  本当に会話をしているようにしか見えない。    そこに、確かに、“何か”が、いる。 「あれ? パパに会うの初めてだっけ? そっかそっか」 「サキ、やめなさい!」  私の怒鳴り声に反応し、壁に向かって話していたサキが、ゆっくりとこちらを振り向く。  瞬きひとつしない見開いた目に見据えられ、動けなくなってしまう。  手からこぼれ落ちた弁当箱が音を立てて中身を床にぶちまけた。 「パパ、ろろろが来てるよ」  サキが指さした先には、少しだけ汚れた間仕切壁があるだけだ。  なにもいない。  “誰も”いない。  ……はずなのに。  言葉を失い、後ずさる私の耳に、どこからか声が聴こえてくる。  動物の鳴き声のようにも、人間の声のようにも聴こえるソレは、確かに、聞き間違いなく、こう聴こえた。 ――ろろ……………ろ……ろろ…………ろろ ろろ、ろ…………ろろろ……ろろろ………… ろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろ
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