晩夏のムスク

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 在りし日の記憶を呼び覚ますのは、いつだって匂いなのだと思う。  夏という季節も記憶の抽斗(ひきだし)を開けるのに一役買っているのかもしれない。夏は思い出と相性が良い。晴れ晴れした特別な一日も、耳を(ふさ)ぎたくなる苦い経験も、夏の空気がうまいことくるんで思い出にしてくれる。  コインランドリーの駐車場、前向きの車に乗り込んだときだった。ふと懐かしい匂いがした。それが何の匂いだったのか、思い至るまでにしばしの時間がかかった。  もう九月に入ろうかというのに車内は蒸し暑い。秋に追い立てられて死にかけの夏が、それでも残していった熱に満たされていた。  助手席には洗濯かご。乾燥機から出したばかりのタオルや下着から、熱気と共に甘い香りが立ち上っている。コインランドリーは普段使わない私でも、のろのろと通過した台風のせいで洗濯物が溜まってしまって、仕方なく足を運ばざるをえなかった。  だから、この匂いとの遭遇も、あの人を思い出したのも偶然だった。  夏夕暮れ時の熱を帯びた湿った空気、そこに混ざる甘くて清潔な匂い。車のシートの匂い、ほのかなガソリンの匂い。思いがけず揃ってしまった。  誰かに誘われたかのようだった。この車は今、私をあの夏の日に連れていくための時間移動装置で、インジケーターはオールグリーンだ。起動のスイッチを押す必要は無い。
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