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第一章
俺の朝は早い。
俺の朝は毎日、一杯の紅茶から始まる。
時間に余裕を持って起床し、お気に入りのティーカップに注いだそれを香りと味を楽しみながら啜る。
「うん、美味い。やはり、リプトンのレモンティーは至高にして究極の紅茶だな」
テーブルの上にあるペットボトルからレモンティーのおかわりを注ぎ、トーストをかじる。
バタートーストにハムエッグ。そして忘れてはならないレモンティー。
俺の朝食はもう何年も前からこれと決まっている。
むしろこれしかありえない。
ルーティンとも言える鉄板メニューだ。
それは新居に引っ越してきてまもない今日この日も変わらない。
いつどんな時であっても貫き通す。
そうしなければ落ち着かない。この感覚は夜に歯磨きをせずに寝る時の気持ち悪さとよく似ている。
磨かなくても平気だというやつは知らん。
ただ、不衛生だとそれだけ言っておこう。
「本当に泰正君は家計に優しい子だね」
対面式のキッチンから顔を覗かせる母親が俺と、俺の手にあるカップを交互に眺めてまったりとした口調で微笑む。
「……それって褒めてんの」
「ふふふ」
その笑顔にうっすら嘲笑の色が見え隠れするのは単に俺が自意識過剰なだけなのだろうか。
母親の細い糸目の顔からは何を考えているのかさっぱり読み取れなかった。読み取れないのはいつものことだが。
いかんせんうちの母親は天然気質なところがあり、常に微笑をたたえたその表情の腹の内は到底俺の思考が及ぶ領域ではなかった。
全てを見透かされているような気もすれば、逆に何も見えていないのではと思う時もある。心理的にも視覚的にも。
一言で総括するならすなわち謎。それに尽きる。
自分の親に謎とか言うのも変な感じだけれど。
それでも親子の仲は別段悪くないし、俺はグレることなくまっとうに育っている。ひょっとしたら家庭の円満の秘訣はお互いを深く知り過ぎないことなのかもしれない。
そんなどうでもいい推察を繰り広げつつ、俺は朝食を口に運びながら壁にかけられた時計を見やった。
そろそろ時間かな。俺は食事の残りをたいらげ、椅子から立ち上がる。
「あれ、泰正君もう行くの?」
「今日は転校初日だから。早めに行っておかないといけないんだよ」
「へえー。大変だね」
「いや、昔から転入日はそうだっただろ。なんで初めて知ったみたいな顔してるんだよ」
俺の父親は昔から転勤が多く、俺は幼い頃から日本各地を転々としてきた。
十六年間の人生の中で、幼稚園三つ小学校三つ中学校三つとメジャーリーグばりの移籍を繰り返してきた。
全国各地を転々としながら幾多の出会いと別れを経験してきたこの俺を人々はこう呼んだ。
『渡り鳥』と。
……まあ、嘘だが。ともかく、そんな感じでさすらいの身がデフォルトで転校には慣れっこな俺であったが、今回はいつもと毛色が少し異なっていた。
遡ることおよそ一か月程度。高校二年生の七月下旬。夏休みも始まろうかというそんな頃合い。
父親は晩飯の席で、唐突に海外へ赴任することが決まったとのたまってきた。
最初は何の冗談かと思った。
転勤が決まるのがいきなりなのはいつものことだから別に構わない。学年の途中での転校だって数多く経験している。
だがそれらは全て日本国内での話だった。それが、海外だって? 英語とか俺、喋れないよ?
俺は懊悩したね。
夏休みの間に駅前留学でもするべきだろうかと真面目に考えるくらいに。まあ俺の悩みは杞憂に終わったのだが。
今まで俺の家族は父親について行くことが当たり前だった。
しかし此度の行き先が海外であることが転機となったのだろう。いつもは親父の言うことに文句を言うことなど一切ないイエスウーマンな母親が珍しく物申したのだ。
一年半後には俺の大学受験もある。
大学は日本の学校に行かせるつもりだから海外に行くのは難しいと。その言葉を聞き入れた親父は
『そんじゃ、家でも買うか。そろそろ腰を落ち着けるマイホームが欲しかったし』
とえらく軽い調子でのたまい、驚くほどスピーディに分譲マンションを購入。
俺の意思や発言を介入させる暇もないまま母親と二人、新居での日本残留が決まった。
つーか家を買うなら転校しなくていいところに買ってくれよ。
そんなことも思ったりしたのだが、日本から出なくて済んだのだ。
贅沢は言わないでおこう。それにマイホーム購入は同時に転校先の高校に卒業までいられることを意味している。
はっきりと保証された定住。
それは俺にとって新鮮で魅力的な響きだった。
そんなこんながあって、今日は夏休み明けの二学期初日なのである。
つまり新天地での初登校日だ。
初っ端から遅刻をかますわけにはいかない。それに新参者は最初に職員室に挨拶へ寄らねばならないのだ。
したがって早出をするのは必然であり当然と言える。
強いられていると言っても過言ではない。早起きはさほど苦ではないのだが、若干の慌ただしさは否めない。
ゆとりが持てるのならそれに越したことはないと思うし。平時である明日からはもう少しゆっくりと出ても大丈夫だろう。
心持ち新たに俺は制服のネクタイを締め直す。玄関のドアノブに手をかけて、いざ出陣。……しようとしたのだが。
「泰正くーん。ちょっと待って」
リビングから追随してきた母親に呼び止められた。
俺は何用かと振り返る。母親はアマゾンの段ボール箱を抱えていた。
ますます何用だ。
「学校に行く前にこの荷物、お隣さんに届けてくれないかしら」
「何だよ、これ」
お隣への引っ越し蕎麦はすでに渡しているはずだ。何度か訪れても留守だったのでポストに突っ込んでの献上になったけど。
「どうやら間違ってうちに荷物が届いちゃったみたいなのよ」
母親は困っちゃったわねぇと言いたげな表情で頬を撫でる。
……いや、カーチャンそいつは受け取るときに気付けよ。
本当に何も考えていないのではないだろうか。
僭越だと思うが、我が母の頭のネジの具合が少し心配になった。
「わかったよ。702号室でいいんだよな?」
溜息を吐き、俺は了承した。
うちは角部屋であるため隣は一軒しかない。
入居時に挨拶回りが一部屋減ってラッキーだとガッツポーズした俺はさもしい性格をしているのかな。
「よろしくね」
「はいはい」
段ボール箱を手渡された俺は適当に返事をし、今度こそ本当に家を出ようとする。
「ねえ、泰正君」
「……まだ何か?」
再度出鼻を挫かれた俺は面倒だからやめてくれという意思を目一杯込めて訊く。
「今度の学校ではお友達ができるといいね」
…………。
「あの、まるで俺が前の学校でぼっちだったみたいな言い方はやめてもらえる?」
俺はなけなしの尊厳を守るためにすぐさま否定を入れさせてもらった。これでも環境に溶け込む術はそれなりに長けているのだ。
家に度々級友を連れて来ていた事実を我が母君はお忘れになっていらっしゃるのだろうか。
「あれ? そうだっけ」
とぼける母親を無視して俺は家を後にした。
ちょっと記憶に欠損が多すぎやしませんかね……。
割と真面目に心配になった朝の一幕であった。
「……マジで? 同じ名字とか」
『小鳥遊由海』
段ボール箱に貼り付けられているその伝票の名義を目視して俺は一人呟いた。
俺の名字は小鳥遊。フルネームは小鳥遊泰正。
小鳥遊という名前は比較的、いや、かなり珍しい名字で、これまで数多の地を流転してきた俺でも同じ姓を持った人間には出会ったことはなかった。
そして初対面でタカナシと読めたやつも数えるほどしかいなかった。つまり、相当マニアックな名字である。
それがまさか同じマンションの、しかも隣室にいるとは。
ポストにも表札にも名前が記されていなかったので隣人の名字は把握していなかったのだが、こんな偶然もあるのだなあと俺はたまげた。
インターフォンを押して呼び出しをかける。朝っぱらからの訪問だが、このお隣の小鳥遊さんは昼時や夕刻そして晩飯時にも不在だったのでこの時間帯にお届けに参るのは消去法的に適正な判断だろう。
「…………」
沈黙し、その場に佇みしばし待機するも家人が出てくる気配は一向にない。
また留守なのか……? そろそろ本格的にこの部屋には人がいるのかと疑いたくなる。
中で死んでいるのか、それとも長期でどこかへ出かけているのか。
できれば前者は勘弁して欲しいなと願いつつ俺は腕に抱きかかえた長方形の箱を眺めて途方に暮れる。
俺ものんびりはしていられない。そろそろ出発しなければならない。
そうすると、この荷物はどうすればいいのだろう。まさかドアの前に置きっぱなしにしておくわけにもいかないだろうし。
しょうがない。もう一回家に持ち帰って母親に託そう。
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