第四章

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「だけど小鳥遊さんに最初に声をかけた時はなぜかすごく怖がられてしまって逆にこっちが驚いたよ」  屈託なくそう話す棚橋。  そりゃ自分の世界に閉じこもって極力他人と交わらず生きている人間がいきなり同学年の人気者に話しかけられたら狼狽するのは当たり前だろう。  そこを棚橋が理解できなかったのは仕方ないといえば仕方ないのかもしれないが。  持つ者と持たざる者。  その隔たりは文化の違いと等しく常識を根底から異にさせる。  些細だが、それはボタンの掛け違いのように埋め合わせ不可能な差異を生む。  しかしそのことを強く意識するのは大抵、持たざる側だけ。  劣等感を胸に抱きながら生きる者だけ。  持つ側はその微細な違和感を大したものとは捉えない。  だから掛け違う。間違える。  そのことを、棚橋は一体どれほど理解して認識して受け止めていたのだろうか。 「人見知りの彼女と打ち解けるまでには結構時間がかかったけど、会話を重ねていくうちにぎこちなさも徐々に取れていった。  とりとめない話をしたり、どんな本が面白いとかそういう情報を交換し合ったり、何も言葉を交わさず、ただ黙って向かい合って読書をしたり……」  棚橋はきっと、理屈はわからなくとも、小鳥遊由海が敷いた壁を感じ取ったのだと思う。  常に人のことを考え、優しくあろうとするこいつだから自分の常識外のことでも違和感に気づけた。  気づいたからこそ彼は距離を詰めたかったのだ。  それが取り払えるものだと信じて。  時間の積み重ねと交流の繰り返しによって溶かすことのできる障害だと見通して。  不意に、棚橋の表情に暗い影が差す。 「そうやって少しずつ、少しずつ距離を縮めていってたんだ。なのに、あんなことが起きて……」  あんなこと。  それは俺がこの学校へ来る前に起きた悪逆だろう。  小鳥遊由海を追い詰めるために行われた所業。 「今の彼女は俺を拒絶している。それどころかこの学校そのものに愛想を尽かしてしまっている。もし、彼女がこのまま学校を辞めることになれば俺はもう彼女と関わる機会を失ってしまう。俺はそれが怖かった」  俺は黙って棚橋の苦悶の帯びた声を聞く。 「何も気づけず、いつの間にか終わっているような、そんな結末は嫌なんだ。こんなままで終わらせたくはない」 「棚橋、お前は……」 「だから手をこまねいているだけではダメだと思った。何かをしなくては何も変わらないから。……もう、間違えたくはなかったから」  棚橋は俺の言葉を遮るようにそう続けた。  偶然にも話すタイミングが被ってしまったのか、それとも聞きたくはないという拒絶の意思からだったのか。  判断はつかなかった。 「でも、そう上手くは行かないものだ」  溜息を吐きながら棚橋は言った。 「いやいや、むしろ順調なほうだろ。手掛かりもすんなりと見つかってるし」  トントン拍子もいいところだ。  それが正解に結び付くかは別としても。  進展はしている。  一体、棚橋がなぜ不服に感じているのかわからない。 「いや、そういうことじゃなくてさ」 「は?」  棚橋の言葉の意図が読み取れず、俺は首を傾げる。 「……君は。こういうことであまり悩みそうにないな。別にいいかと、自分の中で整理をつけて簡単に気持ちを切り替えることができそうだ」  俺は一瞬だけ目を見開き、刹那、黙する。  やはり意味がわからない。  いや、わかりたくない。俺は表情を硬化させる。 「随分と知ったように言ってくれるな」 「君は俺の知っている人によく似ているからね」  俺を捉える棚橋の目が俺自身の本質を看破しているように見えてきた。  棚橋よ、お前は一体俺の何を見抜いている?  心臓の鼓動が早鐘を打ったように早くなっていく。 「誰と比べているのか知らんが、俺はそいつとは違う。俺は俺だ」  ふつふつと沸き起こりだした苛立ちから、ついつい棘のある口調になる。  俺の何を見てそう言える。  俺はお前には何も見せていない。  底を晒した覚えはない。  その判断は早計で、見当違いだ。  だからはっきりと否定させてもらう。  棚橋は俺の気色が変わったのを感じとったのか、慌てたように弁明の口上を述べる。 「すまん、気を悪くしたのなら謝る。別に君を不快にさせるつもりはなかったんだ」  そうして取り繕った後、一呼吸置いて。 「ただ俺は自分以外に興味がない、君の自立した強さが羨ましいだけなんだ」 そっと手持ちの本の背表紙に視線を落とし、静かにそう言った。 「あのな……」  棚橋の見当違いの見立てに安堵と、呆れが入り混じった息を吐く。  俺はそんなふうに見られるような振る舞いをしていたつもりはない。  ひどく当たり前な凡夫として見られるように生きているつもりだ。  そうであるように行動してきたはずだ。  だから俺はやはり否定しなければならない。  棚橋のその解釈について。  ただ、いかように立ち回れば棚橋に俺が凡庸で何の変哲もないつまらない人間であると認識させることができるのか。  俺は考えを巡らせる。  棚橋に、今の認識を改めさせなくていけない。  だが、ひらめきも取っ掛かりも見つからない。  俺は、どう手を打てばいい?  機転が利かない、自分の土壇場に弱い性分に腹が立つ。 「あら、小鳥遊君じゃない」  ぐるぐると思考の迷路にはまりかけていた俺のもとに背後から図書室であることをわきまえられた声量の押さえられたソプラノがふいに届く。  名前を呼ばれ、はっとして俺は振り返る。 「お、おお……。イツキか」  振り返った先にいたのはクラスメートの学級委員であった。  手には借りる予定なのだろう、文庫本が数冊抱えられている。  さすが教室でも読書を恒常的に嗜んでいるだけのことはある。 「図書室に小鳥遊君がいるなんて驚いたわ」  イツキは長い黒髪を手櫛でそっとひと梳きしてそう言った。 「……昔からよく言われるよ」  イツキの出現に一息つける間が生まれた。俺はその段落によって日常の空気に触れ、平静を取り戻した。  緊張はほぐれ、焦燥は霧散。  深く息を吐き、気の静まりを確認する。  どうにも無駄に深く思い詰めすぎていたな……。  冷静になってから自覚し自問する。  そこまで見苦しく取り繕って棚橋に己を偽装したかったのかと。  いいや、そんなわけない。  正直、危なかった。  ここでイツキが現れてくれなければ俺は愚にもつかないことを言の葉にのせて口走っていたかもしれない。  俺は声に出さず心の中でイツキに礼を言う。  そんな救世主イツキの目線は気が付くと俺を通り越した向こう側に向けられていた。 「あら……」  俺の陰に隠れていて視界に入っていなかったのか、今になってイツキは棚橋に気付いたようであった。 「棚橋君、久しぶりね」 「ああ……」  なぜだが棚橋がいつもの爽やかスマイルではなくぎこちなく引きつった顔になっている、ように思える。  俺の気のせいだろうか。 「二人は知り合いだったのか?」  この流れなら訊ねたほうが自然だろうと考え、俺は会話の運びとして問うてみた。  すると、 「昔、小学校が同じだったのよ」  イツキがさらりと答えた。 「へえ……」  意外と年代物のつながりだった。  旧知の割に棚橋がすっかり黙りこくってしまったのは気になるところだが。  ただ、イケメンが戸惑っている様は見ていると案外気分がよい。  そんな僻み根性たっぷりな見方をしているとイツキが俺の横を抜け、棚橋の目の前に立ちはだかった。  そうして冷めた表情でずいっと見上げ棚橋に顔を接近させる。 「棚橋君、聞いたわよ。また見当違いなお節介を働こうとしているらしいわね」  棚橋は気まずそうに目を背ける。 「あなたは好意を平等に振り撒かなくてはいけないのよ。特定の誰かにその優しさを注ごうなどとは考えてはいけないの。薄まっていないあなたの優しさはただの毒でしかないのだから」  イツキは確信を持ったようにそう語る。  二人の過去にそう言わせるだけの何かがあったのだろうか。  二人と時を同じくしていない俺にはわからない。  ……そのことに妙な疎外感を覚えたのはなぜだろうな。  どうでもいいことのはずなのに。 「他人を不幸にしたくなければ無駄なことはやめて今まで通り均等に、偏ることなく大勢に偽善を振る舞うことね」  イツキの声は冷徹に響く。  その音色は普段の喋り方が温かく柔和に感じられるほど意識されて研ぎ澄まされた鋭さを持っていた。  イツキはあまり感情の起伏を表に出さない性格ではあったが、かといって恐怖を感じるようなことはなかった。  だが今は……。 「無駄なこと、じゃない。今度は間違えずにやってみせる」  棚橋は底冷えのする態度で佇むイツキに詰まりつつも反駁する。  いや、イツキに向けてというより自分に言い聞かせるかのように。  だが、 「……あなたには何一つ変えることはできないわ。だって、あなたは何も変わっていないもの」  イツキは即座に否定する台詞を弾き返す。  徹底的に、容赦なく突き放す厳格な姿勢。  棚橋という男をすでに見限った者の言動だった。 「イツキ、俺は……っ」  何も期待してはいないと、直截に言われた男は呻きながら反論を紡ぎだそうとするが言葉は続かなかった。 「どちらにしても、あなたのことはどうでもいいの。ただ、独りよがりな正義感で小鳥遊君や他の人を巻き添えにするのはやめてちょうだいね」 「…………!」  棚橋の表情が歪む。  俺はそれをただ黙って見ている。  俺の立ち入る領域ではないような気がして。何も言えなかった。 「小鳥遊君。気を付けて。柔和な表層の裏に巣食う化け物は、いつだってあなたのような善良な第三者に陰から牙を突き立てようと狙っているのだから」  イツキは俺へ流し目を向け、ひどく抽象的で雲を掴むような警告を囁く。 「……お、おう?」  言っていることの意味はわからなかったが、聞き返せる空気でもなかったので俺は勢いに流されて頷いた。  俺の返事に満足したのかイツキはころりと表情を変え、 「じゃあ、また教室でね」  イツキにしては朗らかな微笑みを向け立ち去って行く。  一体なんだったんだ……?  棚橋にやたらと風当りが強かったことや唐突にもたらされた比喩過多な警鐘。  まるで台風のようであった。  おい、イケメン。お前、あいつに何したのさ。  ふんわりと頭に浮かぶ疑問。  そして微妙な雰囲気の中に取り残された男二人。 「…………」 「…………」  ……気まずい。  イツキはなんて大きな爪痕を残していきやがったんだ。  もともと何を喋ればよいのかに困窮する間柄の俺たちがこんな状況で二人きりにされたらどうなるかくらい察してくれてもいいだろうに。  棚橋はさっきのイツキからの口撃を食らって参っている。  ここは俺から何かを話すべきだろうか。  俺が判断に迷い二の足を踏んでいると棚橋は気難しそうに顔をしかめながら手に持っていた本を棚へ戻した。 「じゃあ、小鳥遊君。放課後に待っているから」  重々しげに口を開き、無理やり作ったのが丸わかりな力のない微笑みを気丈にも浮かべる。 「……お、おう。わかった」  そういえばこいつ、いつも笑ってんな。  他人に対して努めて常に笑顔で接するのが信条なのかね。  まあ仏頂面でいるよりかはよっぽどいいだろうけど。  人に不快感を与えることが少ないのはやはり笑った顔だからな。  ひとまずの別れの挨拶を交わし合い、棚橋は場を後にする。
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