第一章

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 俺がそう決断を下し引き返そうと体を切り返した時だった。  ガタンバタンベシャと何かが内側からドアに衝突したような激しい物音が聞こえてきた。 「……?」  そっと扉に耳を近づけそばだてる。ひょっとして物騒な事件のサインかもしれない。  監禁拉致とかそういう警察沙汰の可能性もありえる騒音に俺はごくりと唾を嚥下する。  ガチャリ。キーのロックが外れる音。  その音を耳にした俺はドアから一歩離れ、様子を窺う。  やがてドアがほんのわずかだけ静かに開かれ、そこから住人とおぼしき少女が顔を覗かせてきた。  俺は隣人の予想外の容姿に少しばかり面食らってしまう。お隣の小鳥遊さんは目鼻立ちのパーツなどが整った美少女だった。しかも銀髪碧眼だった。  い、異人さんだと……?  年齢は俺と同じか少し下くらいだろうか。  ただ彼女は美人であったが、その美貌を軽く打ち消すような生気のないやつれた表情をしていた。  顔色は白いというより不健康に青白く、眼の下にはクマができている。肩にかかるくらいのセミロングの銀髪は寝癖がついて横に大きく広がり激しくボサついていた。  服装はしわだらけのパジャマでそれがまた彼女のどんよりとした雰囲気を助長している。  眠たいからなのか不機嫌だからなのか原因は知らないが鬱々とした目つき。  彼女はそんな淀みきった目で俺の爪先から頭のてっぺんまでをじっとりと観察するように睨みつけてきた。  俺はその視線に何とも言えない薄気味悪さを覚える。  この少女が伝票に名前のあった小鳥遊由海なのだろうか。  どちらにせよ、やるべきことはただひとつ。さっさ済ませてとっと撤収してしまおう。 「あの、これ。間違ってうちに届いたみたいなんですけど……」  そう言って俺は携えていた段ボール箱を差し出す。すると 「ひっ、はひっ!」  小鳥遊由海(仮)は突如目を見開いて謎の奇声をあげ始めた。 「…………!」  唐突な隣人の奇行に俺はたじろぎ、半歩引き下がる。  なんだ、一体何が起こった。軽くパニックを起こしているように見えるがひょっとして俺の対応にまずいところでもあったのか。  いや、そんなわけはない。だって俺はまだ彼女に一言しか話しかけていないのだ。  じゃあ一体なぜ彼女はこんなにも錯乱している。俺が脳内で緊急現状分析会議を繰り広げていると小鳥遊由海(仮)は、 「かか、かっ。せっえぇいっ! ふひーっ!」  裏返った声で意味不明な言葉を発し、ドアを乱暴に開いて室内から飛び出して俺に襲いかかってきた。  そして俺の手から荷物をひったくると彼女は身体全体で覆い被さるようにして段ボール箱を抱きしめうずくまる。 「…………」  そこまで躍起になるほど大切な物を注文したのか。彼女の必死さを目前にした俺は箱の中身に少しだけ興味が湧いてしまった。 「はっ、はっ、はっ……」  早朝のマンションの廊下に少女の荒い呼吸音だけが響く。無言で立ち尽くすことしか出来ない平凡な男子高校生とうずくまる銀髪パジャマ少女の姿がそこにはあった。  シュールな絵面だ。 「……えーと、大丈夫、ですか?」  うずくまったままピクリともしなくなった小鳥遊由海(仮)の背中に問いかける。俺の言葉に反応したのか、小鳥遊由海(仮)は俯き加減でのろのろ立ち上がった。  荷物をしっかりと腕に抱えた中腰姿勢で俺を見上げながら睨む。  おい、どうしてそんな敵意剝き出しなんだよ。俺が一体何をした。  荷物を届けにきただけじゃないか。よっぽどそう言ってやりたかった。  もっとも彼女に俺の心の声は一切伝わることはなく、小鳥遊由海(仮)はさらに頭を抱えたくなるようなことをしでかしてくる。小さな口をもごもごと動かして 「おおお前もわたしのこと、股の緩い女だって、ばばば馬鹿にしてんだろ!」  まったくわけがわからないことを言い出したのである。 「…………」  俺は唖然。 「ここ、この箱の中身だって勝手に覗き見て、それで変態とか言って罵ってやろうってことなんだろ?」  一体何が入ってるんだよ、その中身。 「わわ、わたしのプライバシーを暴いてネタにしてやろうって、ここ、魂胆なんだろ!」  激しくどもりながら被害妄想をひたすらに口走るクレイジーサイコ野郎。正直お手上げだった。俺にはどうしようもできない。  こいつにはお薬が必要だ。医者の診察を仰いで、然るべき場所に収容されるべきだ。  こんなヤバいやつがウチの隣に住んでいやがったとは。  こいつは明らかにまずい人間である。  マンションの管理会社に問い合わせて即刻対処してもらわないと困るレベル。  住民集会でもいいから議題にして、とっとと追っ払ったりしてもらわないといずれ何かしらやらかす危険な匂いをプンプンさせている。  真性のヤバいやつだ。関わり合いたくない。  いや、これ以上は関わってはいけない。さっさと退散するべきだ。不必要に近づいて厄介なことに巻き込まれたらたまったもんじゃない。  渡すべきものも渡したし、長い接見は不要だ。身の安全のために俺が撤退の意を固め、その場を離れようとしたその時である。 「うぅ……」  奇人な隣人はあれだけ大事そうに持っていた荷物を床に投げ出し膝から崩れ落ちたのだった。 「えっ、ちょっと。どうした?」  ただならぬ様子に俺はしゃがみこんで小鳥遊由海(仮)の顔を覗き込む。 「お、お腹痛い……」  銀髪の少女は額に汗を滲ませ、腹を押さえながら苦しそうに顔を歪めていた。 「おいっ、しっかりしろ!」  小鳥遊由海(仮)はなんとか言葉をひり出した後、そのまま俺の目の前で悶絶した。  なんということだ……。  それから俺は携帯電話で119へ連絡。  救急車は赤いランプを点灯させて速やかに到着し、銀髪少女は担架で担がれ病院へ搬送された。  俺はというと小鳥遊由海が一人暮らしであったせいで付添人を引き受けなくてはならなくなり、不本意ながら隣人と同じ車上の人となって病院に同行する羽目となった。  母ちゃんよ、こんな時に朝シャンしてんなよなぁ!  病院に到着してからわかったことは銀髪クレイジー少女が小鳥遊由海本人であったこと。そして俺と同い年だったということ。  あとは小鳥遊由海の主な病状の原因は便秘だったということ。主なっていうか便秘だけが原因だった。  まったく、迷惑極まりない人騒がせなやつだ。しかも同じ名字であったせいで俺は親族家族と勘違いされ、詳しい病状説明や今後の家庭での予防対策なんかを医師からレクチャーされてしまった。  他人の腹の中のレントゲンを見せられても困る。  おかげで便秘になると腸の部分が真っ白になるという知識を無駄に習得してしまったではないか。 「ふっ……笑えよ。ベジータ」  病室のベッドで寝転びながら虹彩を失った瞳で天井を眺める小鳥遊由海は卑屈な笑みをたたえてそう言った。 「誰がベジータだ。……つーか笑えねえよ」  ベッドの脇に置いた椅子に腰かけ、俺は時計を見て時刻を確認しながら溜息を吐く。  今日は始業式だから午前中で学校は終了だ。  今から行ったところで間に合うわけがない。初日から欠席とか初めての経験なんですけど。  もしこれでクラスに馴染めなかったらどうするんだ。  転校に失敗した場合の落とし前はどうつけてくれるのかとしつこく問い詰めてやりたかった。  ちなみにこうして俺が隣に寄り添っているのは決して看病しているからではない。  ただ俺の母親が小鳥遊由海の身のまわりの品を準備して病院に持ってくるまでの時間潰しをしているだけ。  俺は帰ってもよかった、というかむしろとっとと帰りたかったのだが母親に待っていてくれとメールで頼まれてしまったので仕方なくこうして滞在している。  断ろうかとも思ったが、どうせ今日はもう暇だし。別にいいかなと思いこうやって無為の時を過ごしているというわけだ。  あと説明してどういう意味があるというわけでもないことだが、小鳥遊由海にはすぐに連絡の取れる身内がいないらしく、細かい入院の手続きなどは隣人のよしみでウチが代行することになった。  なぜ世帯向けのマンションに年頃の少女が一人で暮らしているのか。  そこらへんはよそ様の家庭事情なので踏み込む気はない。  もっと言うと興味がない。そんな興味のない対象はというと 「どど、どうだよ? なかなか面白い見世物だろ。ハラワタに糞をぎっしり溜め込んで気絶するマヌケなブロイラー家畜を見て優越感に浸れよ。ここ、これ以上の底辺はそうそう会えないぞ。遠慮しないで存分にせせら笑えよ、へへっ……」  自らを大げさに卑下して自虐的に笑っていた。  聞くに堪えない胸糞悪い台詞。  耳にしているとこちらまで気分が暗くなる。
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