第五章

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「あ、でもうちの近所の野良猫にエサをやってるばあさんが最近野良猫の数が減ったとか言ってたな」  それは保健所が仕事をしてるからじゃないのか。  今回の件とは特に関係がなさそうだ。 「探してるのは飼い猫なんだ。首輪もついてたし野良に混じることはないと思う」 「そうかぁ。悪いな、力になれなくて。でも、事情はよくわかんねえけど見つけたら教えるよ」 「そうしてくれると助かる」  さすが部活で主将を務めているだけあって気が回る。  能天気ではあるが空気が読めないわけではない。  若田部は意外と人に気を遣えるナイスガイなのだ。 「それよりも小鳥遊、ちょっとこっち来い」  そのナイスガイがいつにない真面目な顔で俺を手招きして呼び寄せる。 「どうした?」  八重樫に背を向ける格好でひそひそ話をするように肩を組んでくる。  ちょ、あんま近寄ってくんな。  ラーメン臭い。 「お前、オレの誘いを断って八重樫さんとデートとかふざけんなよ」  若田部の誘い……そういえばそんなこともありましたね。 「なに、お前ら知り合いなの?」  並々ならぬ若田部の迫力に俺は圧倒されながら訊いた。 「知り合いじゃない。オレが一方的に知っているだけ。大人しめだけど可愛いよな、八重樫さん」  そう言って若田部はイヤらしく笑う。歯に乾燥ネギついてるぞ。 「…………」  付き合っていられないとはこのことである。 「若田部。俺たちもう行くから」  このままここに留まっても厄介な絡まれかたをするだけだと判断した俺は軽やかな離脱を図る。  八重樫も追随して歩みを再開する。 「お前は地獄に落ちるぞ! 十日以内に落ちるぞ! ソフトボールの神様が許さないからな!」  後ろでカップラーメンを持った騒がしい野郎が喚いている。 「いいの?」  八重樫は来た道を気にする素振りを見せながら訪ねてくる。 「いいさ。放っておこう」  空気が読めて面倒見がいいが残念な男。  それがソフト部キャプテン若田部の悲しい実体であった。  若田部と別れてからケータイで時刻を確認すると学校を出て十数分が経過していた。  時間的にそろそろ到着してもいい頃合いだろう。  そして途方もない聞き込みを開始する決断を下さなくてはいけないリミットも迫ってきている。  気が重くなるばかりだ。 「小鳥遊君。ちょっと待って」  俺が怠惰な思想にふけっていると八重樫がふと何かに気が付いたように神妙な顔つきとなって立ち止まる。 「誰かにつけられてる、かもしれないです」  つけられてる? そんな馬鹿な。誰が? 「ちょっと失礼します」  八重樫が俺との距離をほぼ密着する程詰め、鞄から手鏡を取り出して背後の景色を映し出す。  曲がり角にある電柱の陰に見慣れた我が校のスクールバックの一部が見え隠れしていた。 「確かに誰かいるな」 「いますよね」  同じ場所に、しかも物陰という不自然極まりない場所に一定以上留まり続ける輩。  明らかに不審だ。  ひょっとしたら俺たちが嗅ぎまわっていることを察した犯人が俺たちの動向を窺っているのかもしれない。  だが八重樫はよくあんなのに気付いたな。 「俺が行って確認してくる。八重樫はそこで待っててくれ」  考えすぎかもしれないが絶対にありえないわけではない。 「え、でも……」  不安げな目が俺に向けられる。 「ちょっと顔を見てくるだけだよ。やましい理由であそこにいるんじゃなかったら俺が近づいても何もしてこないだろ?」  八重樫を安心させるため俺は万一の可能性を疑ってのことであると強調した。 「怪しい動きをしてきたらその時はその時にどうにかすればいいさ」 「……気を付けてね」  俺はただ来た道を何気なく歩いている素振りで引き返す。もちろん警戒することも忘れてはいない。  一歩二歩、少しずつ対象との距離を縮めていく。  相手に動きはない。俺の取り越し苦労だったか……? と、安堵したその時である。  俺の足の向く先が自らにあると悟ったらしい謎の追跡者は電柱の陰から曲がり角に飛び込み、一目散に駆け出したのだ。 「おい、待て!」  声を出すのと同時に俺も足を上げて走り出す。追いつかずとも、その姿さえ確認すれば。そうすればこちらのものだ。  俺は身軽さを重視し、鞄を投げ捨てる。いざ揉みあいになった場合にも両手が空いていたほうがいいしな。  一直線の住宅街の道。  猛スピードで走り去っていこうとする天帝学園生の後ろ姿を視覚で捉える。  そのシルエットを見た瞬間、俺は目を見開いた。 「なんであいつがここに……」  見覚えのある背格好。髪型。  俺のよく知る人物とよく似た、いや本人としか思えない背中が逃亡している光景がそこにはあった。  思考が追いつく前にまず無意識に足が止まり、急転直下すぎる現実が目に入ってきた場景の処理を遅らせる。  追いかけて、引き留めて。  すぐにでも話を聞かなくてはならないはずだと頭ではわかっていた。だが俺は何もせず、ただ呆然と佇んでそいつがT字路を曲がって消えていくのを見送ったのだった。 「小鳥遊君! どうしたんですか!?」  立ち止まって放心している俺を心配したのか、八重樫が駆け寄ってくる。 「すまん……。思ったより足の速いやつでさ」  とっさに考えた、事実を交えた言い訳を述べる。 「……知っている人でしたか?」  八重樫は真剣な眼差しで俺を見つめ訊ねてきた。 「……いいや」  俺は嘘を吐いた。そうしなければいけないのではと、八重樫の顔見て直感的に感じたからだ。  まだ何も確信がない今の状況で言うべきことではないだろうし。  いらぬ不信感を煽っても仕方ない。  だが、俺はかなり困惑していた。  この事実を基に導き出される結論は限りなくありえないシナリオ。  ……なあ、ちょっと前に別れたばかりのお前がどうしてあそこであんなことをしていたんだ?  何も言わずに俺たちをつけていたんだ?  一体、どういうことなんだよ。  こうなってくると何を信じればいいのかわからなくなってくる。  人間不信に陥りそうだよ、まったく。  晴れ渡っていた空模様が唐突に怪しくなり始め、灰色に彩られだす。  水滴が頬をなぞったような気がして手の平を天に向けると、だまし討ちとも言える大雨が空から降り注いできた。  八重樫の自宅のマンションを目前に信号待ちをしていた俺たちは土砂降りのスコールになすすべなく打たれる羽目となった。 「とりあえず、わたしのうちまで行きましょう!」 「お、おう」  追い立てられるように俺たちは駆け、先を急ぐ。  鞄を頭上に掲げ微細な抵抗を試みるも、雨はそれを嘲笑うように俺たちをずぶ濡れにした。    こんなことなら折り畳み傘を常備しておくんだった。  最近ロクなことがない。  踏んだり蹴ったりだ。  どうしようもないほどに水も滴るいい男になってしまった俺は八重樫の自宅に一時的に雨宿りがてら上がらせてもらっていた。 「どうぞ、拭いて下さい」 「ありがとう」  俺は通されたリビングで八重樫から白いバスタオルを受け取り、濡れた髪や制服を拭った。  自分の家とは異なる洗剤の匂い。  だが悪くない。  どうでもいい感想だ。  八重樫の自宅は俺の家より各室の面積が広めの世帯向けマンションだった。きっとお値段も我が家よりお高いことだろう。  そしてなんと聞けば八重樫はこの4LDKのマンションに一人で暮らしているという。  何だかどこかで似たような設定を聞いたぞ。  最近は女子高生のマンションでの一人暮らしがブームになっているのか。  まさか。  隅々まで掃除も行き届いていてまさに塵一つないと表現するにふさわしい清潔具合。  だが八重樫の家は最低限の家具しか置かれておらず、整理整頓がなされていると言うよりはむしろ殺風景と言えるもの寂しさがあった。  この小綺麗さに俺が違和感を覚えてしまったのは、ほぼ同じ条件の中で構築されたゴミ屋敷を先に見てしまっていたからか。まずいぞ、感覚の基準が間違いなく汚染されている。  家主の性格の違いによって生まれるインテリアの差異を比較し脳内で吟味したりしていると八重樫が俺の対面に腰を下ろして口を開いた。  この家、ソファーすらないんだもんなぁ。  おかげで俺も彼女もフローリングに直座りだ。  カーペットかクッションくらい置けばいいのにと思いながら俺は耳を傾ける。 「小鳥遊君。この雨模様だし、今日はもうこれでお開きにしませんか?」  声に出されたのはそんな予想外の提言。  その提案は渡りに船ではあるのだが、まさか向こうから切り出されるとは思わなかった。  そんなに俺といるのが嫌か。 「えーと……?」  どういう選択肢をとるべきか迷った俺は逡巡するための間をとるようにこのリビングの数少ない家具であるこたつ机に目を移す。 「それに……小鳥遊君、本当はあまり乗り気ではなかったでしょう?」 「そんなことは……」  校門で顔合わせをしてから抱いていた本心の図星を突かれ狼狽える。  初めから、見透かされていたのか。  完璧に擬態できていると自惚れていた自分に激しい羞恥を覚える。ひょっとすると同じように俺の本質もすでに看破されているのだろうか。他人を軽んじ、時には軽蔑することさえもある性根を。  八重樫は特に俺を非難するわけでもなく、眼鏡越しの澄んだ瞳で見つめてくるだけ。 「まあ、八重樫がそう言うのなら今日はやめにしておこうか」  前述の八重樫の指摘を否定することもなくただ聞かなかったことにして俺は平然とそうのたまった。  大丈夫、そのはずだ。  俺は自分に言い聞かせ、意識を切り替える。  不安な気持ちを切り捨てる。 「そういえば八重樫は若田部とは同じ中学なのか?」  沈黙が訪れれば押し寄せてきかねない焦燥に恐れを抱いた俺は、やり取りを途切れさせないようにと会話の継続に努める。 「どなたですか?」  逆に訊ねられてしまった。どうやら若田部は八重樫に認識されていないらしかった。  悲しい男だ。 「さっきコンビニの前で会ったやつだよ。あいつもこの辺に住んでるらしいし校区が被ってたんじゃないかって思ったんだが」 「そうですね。ここの住所なら被っているかもしれませんけど。でもわたしは中学の頃は他県に住んでいたのでこちらの学校の出身ではないんですよ」 「そうなのか」 「ええ、高校から引っ越してきたので。だから別に地元というわけではないんです」 「なるほどな」  と俺は応答したものの、天帝学園は確かにいい学校ではあるが越境してまで通う価値があるのかと言われればそこまででもないんじゃないかと疑問に思ったりした。 「ところであの、話は変わるんですけど」  今度は八重樫の方から俺に話題を持ちかけられる。 「何だ?」 「小鳥遊君にひとつお願いがあるんです」 「お願い?」  金は貸さんぞ。もっとも、そんな要求はしてこないだろうが。 「今日、小鳥遊君を家に上げたことは棚橋君には内緒にしてもらえないでしょうか」  遠慮がちに俯き加減の上目使いで八重樫はそんな『お願い』をしてくる。  その台詞と表情から俺は彼女がどういう意図をもって口止めを求めたのか察する。 「棚橋のことが好きなのか?」  普段なら察したとしても決して口には出さないだろうに。  意趣返しでもしたかったのかね。  この時の俺は調子に乗っていらんことを口走ったのだった。 「本人には言わないでね」  恥じらうように八重樫は微笑み、唇に人差し指を当てる。 「口は堅い方だから、安心してくれ」  俺の言質をとった八重樫は安堵の胸を撫で下ろし、 「嘘ついたら針千本だからね」  冗談めかしてそう言ったのだった。
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