ラストノート1

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「コーヒーでいいよね」  暫くして戻ってきた葵が差し出された紙カップを受け取ると、目立たない場所を探すように目配らせして、二人で渡り廊下の窓辺に歩いて行く。  外を見ていれば、顔は見られない。そう得意気に言うと、彼は鍵が掛かり、開く事のない窓ガラス越しに世界を見つめた。葵の吐き出す息で、小さく円を描いて、窓が白く曇る。まるで、昼間の月がそこにぽっかりと、浮かび上がるように。けれどそれはすぐに、空気に溶けるようにして消えてしまう。微かな水滴を残して。  俺はそれを見届けてから、窓の外に広がる病院の中庭に目を向けた。夕暮れ時で、そこはどこもかしこも橙色のグラデーションと明るい影を落としていた。空を見上げれば、右側に落ちていく太陽の光が、薄い青に溶けて、雲の影に鴇色の陰影を作っている。 それを眺めながら、不意に浮かんできた高校生の頃の記憶に、俺は一人照れ臭くなってしまう。まだ青くて、周りの先走ったアルファという期待に、押し潰されかけていた頃。 何もなかった俺にとって、アルファと言う言葉は、地獄への烙印でしかなかった。何も見出せず、今日も一日が終わって行くのを、忌々しい想いで、夕日を見つめていた。自分と世間を恨んでいた。そんな俺の隣で、葵は、 「それぞれの性には性の悩みがあるし、尽きないけれど、それでも要は要のままでいいよ」 と笑っていた。青臭くて、馬鹿丸出しだった俺を、葵だけは「そういうもんだよ」と隣で認めて笑っていた。離れないでいてくれた。  俺は珈琲を一口飲むと、安っぽい酸味と苦みのある珈琲を、味わいもせずに飲み下す。 「要、あのね」  前触れもなく、葵が口を開いた。何かを宣言するような、少し張った声に驚くと、葵も自分自身の声に驚き、また怖がるように俯いた。耳にかけていた髪がさらりと落ちて、俺は指先でそれを掬い上げると、耳に掛け直した。  耳の裏側の窪みに触れると、葵が真っ直ぐに俺を見つめて来た。葵の白い肌が、ほんのりと金木犀の色に染まる。キャラメル色に滲んだ瞳が微かに揺れて、不意に泣いてしまうんじゃないかと不安にかられた。 「要、ごめんなさい」  突然の謝罪に、俺は何も言えなかった。指先で耳たぶに触れ、 「理由は話せる?」  と、自分でも不思議なくらい落ち着いた声で、俯いてしまった葵のつむじを見つめた。  彼は泣いていた。  泣くほどの事があったのだ。そしてきっとそれは俺に深く関わるであろうことなのだ。俺と別れてしまおうと覚悟する程の事なのだ。  もう聞くしかない。 「要が俺との未来を話してくれるたびに、嬉しくて怖かった」  うん、と俺は頷いた。いつ葵が顔を上げても良いように、一番最初に俺を見る様に、彼の頭を見つめ続ける。この柔らかな髪に鼻先を埋めて、何度も過ごしてきた。ただ抱き締める時も、ベッドの中でも、彼の香りや彼の好きな香りがそこにあって、高揚した時も気分が逆立った時も、そこに顔を埋めて深呼吸すると、落ち着いた。止めてよ、と彼は笑っていたけれど、怒る事は一度もなかった。  今すぐ首の裏を抱き寄せて、力いっぱい抱き締めたい。  そう思っていると、葵がゆっくりと顔を上げて、涙のない、けれどその跡の残る頬や潤んだ眼差しを俺に真っ直ぐと向けて来た。 「俺、妊娠できないんだ。オメガなのに、子供が産めないんだ」  子供が産めない。  その言葉が驚くほど垂直に、心の一番深くに音もなく落ちて、吸い込まれていく。  ああ、そうか。  俺は自分でも驚くほど冷静に、葵の唇から出て来た告白を、自分の一番深い部分で受け止めていた。 「……だから?」  言葉の先を促すと、葵は少し目を見開いて、何を言わせるんだろうという少し非難めいた眼差しを俺に向けて来た、しかし、俺の崩れない姿勢に根負けしたように視線を落とすと、 「……だから、結婚できないし、付き合ってても将来の為にならない……」  恐々と、けれどはっきりと拒絶の形をしっかりと象りながら、葵はまるで禁忌を犯す呪文を唱える様に呟いた。  将来の為。  俺はその言葉を頭の中でしっかりとなぞる。  確かに俺は葵との間に子供が欲しいと願っていた。馬鹿みたいに、当たり前のように、そういう未来が絶対にあると確信していた。  けれど、俺はこの病院に入った時から、何となく……薄々この事態に勘づいて気がする。そして、俺は受け入れる準備を、いつの間にかしていた気がする。  確かに、少しも落胆がないと言えば嘘になる。  けれど、その理由がどうしても、俺と葵が別れる理由にはならなかった。  俺は足元に珈琲のカップを置いて、彼を抱き締めた。できるだけ優しい力で、ゆっくりと。彼の髪に頬を擦り当てた時、日に当たっていたそこが温かく迎えてくれて、俺は心底ほっとした。ここに在る、腕の中にしっかりといる葵の存在を、ようやく確認できた気がした。  この数日、抱き締めてもただ不安で、腕の中から細かい砂のように、彼の気配が消えていく気がして堪らなかった。 「葵、俺は滅多にお前の事怒らないけど、今回ばかりは勘弁してやらねえぞ」  確かな質量を持って、腕の中で抱き締めれば身動ぎする葵のその体が愛おしい。 「ンな事で別れるなんて、あり得ないだろ」  葵は何も言わなかった。外で吹いた風が、微かに窓を撫でて音を立てる。誰かの視線が俺と葵に刺さった気がした。  それでも俺は葵の身体を抱き締めたまま、耳元に唇を寄せて、彼の鼓膜の奥底に響かせるように、言い聞かせるように呟いた。  彼の身体の奥底まで届くことを、祈りながら。 「俺は、未来よりもお前が大事だよ」  彼の身体が微かに、俺の言葉に反応した。肯定か否定か、それを判断するにはあまりにも小さな反応だけれど、俺の言葉に葵の心が微かに音を立てた気がした。  窓の外で風が鳴いている。葵の鼓動と同じくらい、小さな声で。俺は葵の細い肩を抱く手に力を込めた。 「要が欲しかった未来は上げられないよ?」 「お前が居なきゃ意味がない」  また少しだけ声が濡れている気がして、ゆっくりと身体を離して覗き込むと、葵が泣いていた。ほろほろと瞳から滑り零れていく透明の雫が、甘い香りを帯びていて、俺は誘われるように頬の涙跡を吸った。  口から鼻孔へと抜ける、葵が放つ甘い香り。久し振りに感じたかもしれない。  俺はその香りに掻き立てられるように湧き上がってきた愛おしさに、彼を夢中で抱き締めた。誰が止めても離したくない、見られてもいい。  窓の外で風が囁いていた。それは穏やかで、暖かな西日を纏い、鮮やかで、今までに感じた事のない喜びで溢れていた。
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