ラストノート1

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 張りのある車の後部座席に深くもたれ掛かると、背中からじんわりと疲れが滲み出て来る。俺は背もたれに頭を預けながら、流星のように高速道路を流れて行く車のヘッドライトを眺めた。  俺だって幸せのはずだ。  俳優として成功を収め、愛おしい恋人だっている。  窓の外のビル群が放つネオンの奥を睨みながら、俺は窓に映る自分を見つめた。  それなのに、今はこの写真一枚に「おめでとう」の一言すら返せない。  原因は分かっていた。  俳優として先日映画で賞を貰って以降、仕事が息次ぐ暇もない程に立て込んでいて、恋人との生活が危機に瀕しているからだ。 「明日はCMと、雑誌の取材、夜は映画の撮影だからね。明日八時にお迎えいくから」  容赦ないスケジュールが運転席から流れて来ると、俺はその雑音に耳を塞いだ。 「オフは?」 「何言ってんの、今は売り時だよ。我慢して」  今は売り時、と言う言葉をもう半年以上も使っている。  それもこれも、海外で新人賞なんて物を穫ってしまったせいだ。  ――いや、ずっと夢だった俳優と言う仕事が出来るのは嬉しい。  こうやって求められるのは、やりがいもあるし、自分に出来る全ては費やしたいと思っているし、何よりも芝居が好きだ。だが、俺だって大切なものは芝居だけではない。 「俺に恋人いるの知ってるだろ? たまには息抜きだって必要……」 「番じゃないでしょ」  俺はその一言に押し黙った。  そうだ、番ならまだしも俺と恋人はまだ番じゃない。俺はαで恋人はΩであるから、いつだって番になろうと思えばなれるし、一世一代のプロポーズだってした事ある。  けれど、――断られた。  思い出すたび、ずんっと重く圧し掛かってくる現実に、俺は胸が真綿でゆっくりと締め上げられるような、息苦しさを感じてしまう。 「今は大事な時期だから、そっちに集中して。俺の事は良いから。大丈夫だよ」  と、恋人は優しく気遣うような眼差しで、やんわりと、俺の申し出を断ったのだ。  その時はまだ新人賞を獲ったばかりで、これからだという時期だったのは、傍から見れば一目瞭然。けれど、αとしては遅咲きで才能が開花した俺は、これで恋人を養い、今まで尽くしてくれた彼を幸せにできるーーその準備が整って、ただただ目の前が明るく喜びに満ちていたのだ。だから番になりたいと思っていたけれど、周りの大人や事務所、彼の冷静な判断が正しいというのも事実。  そして俺達は落ち着いたら番になろうと話し合い、決めた。  ――が、俺が落ち着くのは一体いつだというのだ。  このままでは少しずつ疎遠になり、自然消滅するという結末が目前まで迫っている。  現に、ここ数ヶ月セックスなんてものをまともにしていない。  元々ヒート時期が不安定な恋人は、俺がいない発情期を、一体どうやってやり過ごしているのだろうか。あいつの事だから、きっと家に引き蘢っているのだと願いたい……。  そこまで考えて頭を振るうと、嫌な予感を追い払った。 「今日は葵君の部屋で良いの?」  不意にバックミラー越しに問われて、慌てて頷くと、俺は頭を搔き毟ってから、勢い良く背もたれに寄りかかった。  車は世田谷方面へとハンドルを切った。
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