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呼び出されたのは、葵の良く利用する駅から二駅ほど離れた大学病院だった。大きな館内に正面から入って行く勇気はなく、俺はサングラスもマスクも外せないまま、出入り口前でうろうろとしていた。暫く人波を観察しながら、どうしようかと迷っていると、そばにいた警備員が視線を送ってきている事に気が付いた。
これは芸能人だから、という目ではなく、完全に怪しい人物と捉えられているに違いないのが、痛い程分かる。
その眼差しに後押しされるが、今一つ踏み出せない。しかし、声を掛けられるのも時間の問題だ。
俺は意を決して時間と彼の視線に押されながら、自動ドアを潜り抜けると、葵の指定したオメガの専門病棟へと向かった。所かしこにある案内板を頼りに、サングラスだけを外して院内案内図を見ながら、何度も自分の位置を確認する。
独り言が漏れないようにと、マスクの中でああでもないこうでもないと口を動かしていると、あの、と声を掛けられた。もしかして、邪魔だっただろうか、自分が案内板の真ん前を占領している事に気付いて端に寄ると、
「俳優の要ですよね」
そんな風に声を掛けられた。
心臓が大きく一度跳ねた。
病院内でマスクをしている者も多いから、うまく誤魔化せるだろうと思ったのだが、甘かったようだ。
久々に声を掛けられて、掌に緊張からじんわりと汗が滲んでくる。
振り返って、人違いですと振り切れるだろうか。普段車移動な上、大体マネージャーと一緒にいるので、こんな風に一人で誰かを対応する事がない。
情けない事に焦ってしまう。
声からして、若い女の子だろうというのは分かるのだが、それ以上は分からない。ただ、声音に含まれる微かな期待と、浮き立つような少し高い声に、罪悪感を感じた。
「ここに居たの?」
どうしようかと迷っていると、突然誰かが俺の手を掴んだ。少し強引な力に思わず、一歩よろけて顔を上げると、そこに居たのは葵だった。
「すみません、人違いですよ」
俺の代わりにそう毅然と言い放つ葵の真っ直ぐな声音は頼もしく、俺は酷く安心してその手を握り返していた。
彼女たちの言葉を待たずに、彼に促されるまま廊下を歩きだす。暫く無言で人の流れに逆らうように歩いていると、
「ごめんね、入りにくかったよね。大学病院って人が多いんだもんね」
うっかりしていた、と言いながら、葵の柔らかな表情で振り返る。先ほどとは打って変わり、包み込むような優しさを帯びていて、俺は心根から安堵した。
「悪い、マスクだけで大丈夫だと思っていたんだ」
「遠くから見つけて、まさか目元だけでバレるなんて、俺も甘く見てた」
そう言いながら、葵の小さく柔らかな掌が、俺の手を包むように少しだけ強く握り返してきた。掌からじんわりと、沁み込むように葵の温もりが流れ込んでくる。
葵の優しさに、しぼんで干からびていた胸のどこかが満たされて、熟れ過ぎて甘みだけが溢れ返る果実のように膨らんでいく。
足早に歩きながら、葵の小さな背中を見つめていると、不意に窓から差し込む光が、彼の肩甲骨の辺りを照らした。彼の着ている白いシャツを泳ぐように、揺れる光が、まるで羽根が羽ばたこうとしているように見える。
「葵」
彼を呼ぶ自分の声が、思った以上に情けなく聞こえて、俺は続くはずだった言葉を飲み込んだ。俺に振り返った葵は、どうしたの? とその薄い唇に薄幸そうな、どこか寂し気な笑みを灯した。俺は頭を振って、何でもない、と答えると、葵の足がゆっくりと停止する。
院内の廊下にあるカフェの前、往来する人の中で、ホームに滑り込んできた電車がゆっくりと停止するように。
「……ねえ、少しだけ、お茶でもしようか」
そう言うと、俺の返事は聞かないまま、彼は小さなテイクアウトのみのスタンドカフェのカウンターに並んだ。名前を呼ぶ隙も与えない動きに、俺はただ彼を視線で追った。
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