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「じゃあ一応七時に連絡入れるからね」
そう告げて去って行く車を見送って、築二十八年というアパートの階段を駆け上がった。青白い常夜灯に群がる夜光虫を横目に、ポケットから合鍵を取り出すと、二階の奥の角部屋のドアノブに鍵を差し込む。
音を立てないように鍵を開けると、ゆっくりと中に入り、後ろ手にドアを閉めて施錠した。カーテンが開いたままの窓辺から、街頭と月明かりの青い光が、まるで深海のようにぼんやりと部屋を照らしている。
寂し気なその雰囲気を見る度に、胸の奥がきゅっと詰まる。
俺達は一緒にいるのに、個々なのだと、思い知らされる気がした。
ワンルームの、ベッドとテーブルとテレビしかない部屋の寂しさに、いつだって引っ越して来いと葵には伝えてあるが、彼は笑顔で「考えておく」しか言わない事を思い出して、俺は奥歯を噛みしめた。
俺は考えた事を蹴りとばすように、スニーカーを脱ぎ捨てると、部屋の奥へと進んだ。
部屋に入ると、うっすらと、香水の最後の香りのように甘い葵独特の香りが漂っていた。もしかしたら、ヒート期が近いのかも知れない。
そっとなだらかな山を作っているベッドの傍に腰を下ろして、頭まですっぽりと被った布団を捲ってみる。
俺はそこにあるいつもと変わらない寝顔に、心の底から安堵した。
白い肌に、一度も染めた事がないような長めの黒髪。ふっくらとした瞼の丘。菱形に開いた唇からはゆったりとした寝息が聞こえる。
「葵、ただいま……」
小声でそう呟き、頬にある髪を耳に掛けてやった。さらりとした手触りに、馬鹿みたいに心臓が脈打つ。
俺は熟睡している葵のベッドに入るのを躊躇い、クローゼットから毛布を一枚出すと、それにくるまり、彼の傍に寝転んだ。現場が多いせいか、固い場所でもどんな体制でも熟睡出来るのが何だか切ない。
本当は一緒に眠りたいけれど、今布団に入れば必ず起こしてしまう。だから、葵の息遣いだけでも聞いていたい、一緒にいられない時間を少しでも共有したい。例え、気付いてもらえなくても。
俺はクッションを枕代わりにしようと手を伸ばして引き寄せた。
すると、運悪くそのクッションがローテーブルの足に当たり、かたんと音を立てた。
やばっ、と声を出さずに咄嗟に起き上がってテーブルの上にあるマグカップを支える。とりあえず何も起きなかった事にほっとしながら、さて寝ようとした時、不意にテーブルの上に置き去りにされたメモ帳を見付けた。
俺は何の気なしにそれを捲ってみる。
葵は忘れっぽいから、忘れてはいけないリストでも作っているのだろうか。そんな安易な気持ちで、何も考えずに、ただ、最近の葵を知りたくて、そのメモ帳を開いた。
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