ラストノート1

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 あの後、葵の定期健診に付き添った。 葵の担当医師で、黒沢と名乗る五十代後半の恰幅の良い男は、俺を見ると、少しだけ驚いたように、瞼の下がった目を開いた。俺を少しばかり観察するに留めて、すぐに親し気な笑みを浮かべながら椅子を勧めてくれた。  葵が神妙な顔で「番になる人です」と言うと、少しだけ心臓が緊張して、背筋が伸びる。医者はそうですかそうですか、と笑いかけながら頷き、今までの葵の身体に関する事を、丁寧に説明してくれた。  発情期であるヒート期は通常通り発生するが、子供を妊娠するための卵子に関して、葵には生まれつきの異常があり、ごく微量で弱いらしく、今後妊娠をする確率は限りなくゼロに近いという結果が出ているようだ。なので、周りのオメガとは一見変わりはしないが、妊娠が出来ないという事らしい。更にはそれを直す、これだという確実な薬もない。極めて稀なケースらしく、葵は不妊治療という事で去年から通い始めていたのをその場で初めて知った。  何故教えてくれなかったんだと、責めたくなる気持ちもあるにはあるが、実際その頃俺は仕事が忙しかったし、葵と顔を合わせて喋る時間も無くなり始めていたので、俺は頷く以外はできなかった。 「忙しいとは思いますが、彼を思いやる気持ちを忘れないで上げてくださいね」  黒沢は俺の顔を認識したようで、俺の胸に軽く杭を打つ。一年間、葵が一人で苦しんでいたのを、きっと一番そばで見ていた人物だからこその忠告なのだろう。俺は何も言えずに深くゆっくりと、誓うように頷いた。  病院を出ると、俺達は駅までの道のりをゆっくりと歩いた。俺はサングラスをポケットにしまい、マスクも外して、葵の細い指にゆっくりと自分の指を絡めた。何年もかけて絡まる木の根のように、離れないように。葵は少し戸惑うように俺を見上げてから、 「いいの?」  と、俺の手を握り返してきた。  ごめんなさい、と言葉の後ろに本音が隠れている気がして、 「こうしたいんだ」  と、俺は彼の握り返す倍以上の力で、葵の手を握り返した。  誰かの囁き声を巻き込みながら、足元を小さなつむじ風が吹き去り、車の往来の少ない道の真ん中で立ち止まる。車道の車が、流れ星のように一台過ぎ去る。街路樹がその疾走した風に靡いて、葉を擦り合わせて鳴いた。 「かなめ……?」  俺は見上げてくる葵の首筋に唇を押し当てた。柔らかく吸い付く様な肌、温かい体温、一つ呼吸をすれば、たちまちに甘やかな香りが胸いっぱいに広がり、幸福感で満ちていく。  その瞬間、街頭がぼんやりと暖かな光で、世界を照らし出す。 「いい?」 「ここで?」 「今が良い」  そう言うと、葵は俺の手を握って、ゆっくりと頷いた。 「愛してるよ」  俺は眼を閉じて、葵の肌に歯を立てた。  世界はいつだって、彼が居たら温かい優しさで満ちている。終わりなど見えない程に、果てしなく。
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