夜のバス

3/5
152人が本棚に入れています
本棚に追加
/531ページ
 だからと言って、記憶喪失という訳でもない。名前も覚えているし、職場の住所や、電話番号もきっちりと言えるし、世の中の出来事もちゃんと知っている。  わからないのは、ここにいる理由だ。  隣の席の中年男が大きな欠伸をした。俺は横目で窓際の男の様子を伺った。  口が下品なほどに大きく開き、大きく息を吸い込んだか思うと、ゆっくりと息を吐き出出した。  同時に、俺の体の底から、「うっ」と何かが込み上げてくるような気がした。強い吐き気だ。  男の息が強烈に臭いのだ。生臭い。腐った魚を何日か放置したかのような匂いだ。  ここに座った時、臭かった。その正体が、この男の匂いだ。  男は40代くらいだろうか。加齢臭のようなものではない。食った食い物が悪いわけでもない。要するに、男の体が元々臭いのだ。そう強く断定してしまうほど強烈な印象の匂いだった。  男の隣に座ったことを後悔した。気持ちが悪くなってきた。田舎道を進むにつれ、空きが目立ってきたので、反対側の席に移ろうと、立ち上がった。
/531ページ

最初のコメントを投稿しよう!