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Ⅱ 女騎士 手当され、介抱され、文字を教えろと脅される
「ん…」
ダリアが目を覚ますと、すぐに目に付いたのは木組みの見慣れぬ天井であった。
ここはどこだ、と言おうとして口の違和感に気づく。猿ぐつわだ。
「目が覚めたか」
傍らには自分を拉致したオークがいた。手には血で濡れた刃が。
「ん!んーっ!」
「…どうやら、わめける程度には丈夫そうだな」
「んー!」
「今から猿ぐつわを外す。ただし、騒ぐな。いいか?」
「……」ダリアはうなずいた。
「よし」オークは猿ぐつわを外す。
「なんだ貴様は!ここはどこだ?私を拘束して…ぐっ」
ダリアは口を手でふさがれた。
「騒ぐな、と言ったはずだ」
「……」
彼女は敵意を込めた視線を血塗れた刃に向ける。
「ああ、これか」
オークは刃を傍らのテーブルに置く。
「もう一度言う、騒ぐな。そうしたら危害を加えない。いいな?手を放すぞ」
「…貴様の目的は何だ」
「目的、か。それは、後で話すとして…」
「話すとして…?」
なんだ?まさか、この場ですぐに。
ダリアの脳裏に、最悪がちらつく。
「まずは、食事だ」
「…は?」
余りにも想定外の単語に驚く。
気づいていなかったが、スープだろうか、鼻を優しくくすぐる匂いがしていた。
「貴様は…む?」
右腕には木が添えられ、右脇には包帯が巻かれて“治療”されていることに気づく。
「これは…」
「起き上がって、椅子に座れるか?」
ベッドの近くのテーブルには、湯気が立つスープが置かれていた。
「無礼(なめ)るな、これくらいの傷…ぐっ」
「ムリか。やはり、人間〈リュンドスキ〉は脆弱だな」
「貴様、愚弄するか!…がっ、腹が…腕が…」
「落ち着け。…全く、これは人選を失敗したかな。もう少し大人しそうなヤツにすればよかった」
「あ?何か言ったか?」
「何でも無い。上体を起こすことぐらいはできるな?」
「くっ…」
オークはダリアにスープを渡し、自らはテーブルに座った。
「これは…毒か何か入っているんじゃないだろうな」
飴色の液体に、白くやや太い筋が幾筋か見えた。毒が入っているようには見えないが、油断はできない。
「うたぐり深いな。そんなもので殺すくらいなら寝ている間に殺している」
「む、確かに…。
ちゃんと、食えるような代物なんだろうな?
この細長いものは何かの肉の筋のようだが、魔物の肉だったら」
「そんなものオークでも食わない。
それはただの鶏肉だ。いいから黙って食え」
「鶏肉?本当だろうな、騙そうとしているんじゃ」
「もういい、そこまで疑うなら食うな」
オークは心底あきれたように、ため息をついた。
「しかし…」
空腹を感じていることもまた事実であった。不倶戴天の敵であるオークに腹の虫の声など聞かせた日には屈辱で憤死するだろう。
「仕方…ない」
ダリアは覚悟を決めて、スープに口を付けた。
「!、美味い…」どれだけ味気ないものかと思っていたが、予想は完全に裏切られた。
ほどよい塩味に鶏肉の旨味。
単純な料理だが、丁寧に作られているのを感じた。
思わず、一気に飲み干してしまった。
「毒など入っていないと最初から言っているだろ」
「…は無いのか?」
「は?よく聞こえんぞ」
「スープはもう無いのかと訊いている!」
「……」
オークは唖然とした表情をし、対してダリアの顔は真っ赤に染まっていた。
「なんだ、気に入ったのか」
「はっ、これは…。ち、違う!断じて、違うぞ。これはただ、スープの残りを確認しただけであって、もっと飲みたいなど微塵も」
「…こんな騒がしい人間を選んでしまうとは」
やれやれとオークは頭を左右に振った。
「さ、さっきから何を言って…うっ」
目の前にスープの入った鍋が置かれた。
「これをすべてやるから、これ以上騒ぐな」
「だ、だから私は…」
「さ・わ・ぐ・な。うるさくするなら、これは無しだ」
「ぐっ…」
観念したように、ダリアは残りのスープを食べ出した。
「ふん、ようやく黙ったか」
見る間にスープを食べ尽くしたダリアは満たされたようなため息をつき、ベッド際の壁にもたれる。
「……」
「な、なんだその驚いたような顔は」
「いや、敵から出された食事をここまで躊躇いなく受け入れるのかと思ってな。しかも、手負いで」
「騎士を拝命した時から、いかなる状態にあろうと食事できるように鍛錬しておくことは当然だ」
「…毒が入ってたと言ったら?」
「なんだと!」
「嘘だ」
「嘘だとぉぉぉぉ!」
猿のようにダリアは怒った。騎士ではなく、社交界の華やぎが相応しそうな美形が台無しであった。
「ふむ、知能はそこまで良くなさそうだな。これは失敗したか?」
「一人でぶつぶつ何を言っている!」
「何でもない」
「ぬぅ…何か、馬鹿にされたような気がするが…おい、さっきも訊いたがここはどこだ。どうして私はここに寝ていた」
「ここはタウリカ半島。オークの巣窟のど真ん中だ」
「やはりか…。私の部隊の者たちはどうなった?」
「知らん。あの場で俺が見た生き残りはお前だけだった」
「そうか…ところで、私はどれくらい眠っていた?今は日暮れ直前のようだが」
差し込む太陽の光が赤みを帯びていた。
「二日…と言ったところか」
「二日!そんなに私は眠っていたのか…まさか!」
あわてて体にかけられている布団を引きはがして、自分の衣服を検(あらた)める。幸いにも、鎧の下に来ていた衣服はそのままだった。
「なんだ。眠っている間に何かされたかと思ったか?」
「オークは女を見ると、凌辱せずにはいられない存在だと聞いているからな」
「お前のような女を攫ったところで…」
オークはじっとダリアの胸を見て、また首を振った。
「なんだ!」
左腕でとっさに胸を隠す。
「安心しろ。俺に、陵辱の趣味は無い。…しても、つまらなそうだ」
「あ?最後、聞こえなかったぞ」
「…そう言えば、お前の名前を訊いてなかったな」
「ダリア・リュボスラーヴァだ」
「ダリアか…。ところで、お前は文字が読めるか?」
「?。そんなことを訊いて、一体」
「いいから答えろ」
「読めるとも。騎士の嗜みとして読書だってする」
「どんな類いの本を読む?明確に答えろ」
「へ?」
「なんだ、言えないのか?嘘をついたのか」
「馬鹿者!騎士は嘘などつかぬ。そ、そうだな。主に読むのは兵法書や軍記、歴史書だな」
「それだけか?」
「ほ、他には教養として詩を読んだりもする」
「詩か…。どんなものを主に読む?」
「そ、そんなことを訊いて貴様に何の得がある!」
「大事なことだ」
「…だ」
「何だ?聞こえないぞ」
「ああ、もう!恋愛詩(ミンネザング)だ!悪いか!」
「恋愛詩か…なるほど」
「それで?何故、こんな質問をしたのだ。私を辱めたのだからそれくらい教えてくれてもいいだろう」
「辱めた?人間の世界ではどんな本を読むかどうかを訊くことは相手を辱めることになるのか?」
「いや、そういうわけじゃないが…」
「おかしな奴だ。…ちょっと、待ってろ」
オークは家の奥へと消えた。
「くそぅ、ずっと秘密にしてたのに。まさか、オークなぞに言う日が来るなんて…」
「これを見てくれ」
奥から持ってきたのは、何冊もの本であった。
薄い子供向けのものから、分厚い哲学書まで種類はバラバラで、中には血がべっとりと付いているのもあった。
「なんだこれは」
「本だ」
「そんなことは見れば分かる!これを持ってきて私に何をさせたいのだ。
まさか、子供みたいに寝る時に朗読しろとでも言うんじゃないだろうな」
「俺に、文字を教えて欲しい」
「へ?」
「俺に、この本たちを読むために文字を教えて欲しい。
そのために朗読という手段が有効であるのなら、それでもかまわない」
「文字を習いたい?オークのくせに?」
人間とオークが戦争を始めて数年。
その生態に関しては不明な点が多いものの、粗にして野にして卑であり、反文化、反文明的な存在であることは知られている。
そんな蛮族が文字を教えて欲しいと言ってくるなど、意外すぎるものだった。
「どうなんだ。俺に教えることは出来るか?」
「…それを断ったら、どうなる?」
「お前を生かしておく理由は無くなるな」
オークは机の上の刃を握った。
「それで私を殺すか…。文字を教えて欲しいなどと、しおらしいことを言ってくるかと思えば、やはり、野蛮そのものだな」
「オークだからな」
「ふんっ、これ以上ない説明だな。…一つ、教えて欲しい。私をさらったのには、何か理由があるのか?」
「特に理由などない。弱っていて、さらいやすかった。ただそれだけだ。性別も何も関係ない」
「私がさらわれたのは、全くの不運というわけか。…いいだろう、文字と本の読み方を教えてやる。ただし、条件がある」
「条件?そんなことを言える立場には無いはずだが」
「この先、本を読めるようになったら、私を用済みとして殺すのだろう?
そんなのはゴメンだ。
だから、貴様が本を読めるようになったら私を解放しろ。それが条件だ」
「オークが約束を守ると?」
「もちろん、こんな口約束を信頼しきっているわけじゃないが、
気休めでも無いより有った方がいいだろう?」
「…了承した。俺が本を読めるようになった時、お前を解放しよう」
「一応、その言葉を信じておこう」
「まぁ、今はその傷を治すことに専念しろ。お前に途中で死なれてはいろいろ面倒だ」
「言われるまでも無い!」
ダリアはオークに背を向けてベッドにもぐった。
傷を一刻でも早く治し、スキを見てここから逃げ出すためにはどうすればいいかを考えながら、気づけば意識は夢の彼方へと飛んでいた。
薄明の意識の中、懐かしい匂いと音を感じた。
これはなんだったか…ああ、そうだ、モナヒニャがいつも朝食に作ってくれるお粥の温かい匂いと優しく煮える音だ。
いつも塩を入れすぎてしまうから、今日こそちゃんと言わなきゃ。
「モナヒニャ、塩は少なめで…」
「『モナヒニャ』?俺はそんな名前ではないぞ」
「!」
低くくぐもった声に驚く。目を開けると、そこには困惑したオークの表情が。
「ばっ!」
現在の自分が置かれている状況を思い出し、夢だと気づくと同時にさっきの自分の発言に顔が赤くなる。
「い、今のを聞いたか?貴様」
「『モナヒニャ』という言葉か?あれはどういう意味だ」
「そ、そうか分からないならいい。それなら、いい」
「?。朝から騒がしい奴だ」
「う、うるさい!元はといえば貴様が……貴様が?貴様、何をしている」
「料理だ。別に珍しくともなんともあるまい?」
「珍しいとかそういう問題ではなく…貴様、昨日といい今日といい料理が出来るのか?」
「ああ」
「オークにも料理する習慣があるのか」
「いや、ハイ・オークは奴隷に料理を作らせ、ロー・オークは生の素材のまま食らう。だから基本的にオークは料理などしない」
「ハイ?ロー?」
「なんだ、知らないのか」
「オークに個体差があり、上位と下位で分かれ、おおまかな階級が存在するのは知っているが、ハイやローといった呼称は知らん」
「指揮官クラスがハイ・オークで、一兵卒クラスがロー・オークだ。俺たちはそう呼んでいる」
「ほう。なら、奴隷が居ない貴様はローなのか」
「そうだな」
「オークは料理などしないと言っていたのに、貴様はするんだな」
「ああ。料理をするオークなど俺だけだろうな」
ダリアはさらに質問しようとしたが腹が盛大な音を奏でたので質問タイムは打ち切られた。
一瞬の間─
「…お粥(ポリッジ)だ。塩は少なめにしてある」
「うん…」
ダリアはいっそのこと空気を読まない腹を割いてやりたいと思った。
「ああ、そうだ」
たらふく食べた後、ダリアはベッドに寝そべり満足そうに腹を撫でる。
「なんだ」
「貴様の名前はなんと呼べばいい?いつまでも“オーク”では味気ないぞ」
「俺は別にそれでもかまわんがな。人間は不思議なことを気にするものだ」
食器を洗いながら彼は答えた。
「私が気にする。貴様にも名前くらいあるだろう?
我々もそんなに貴様らの名前を把握しているわけではないが、たとえば指揮官として知られているラーツとか」
あいつか、と青灰のオークは苦々しげに呟いた。
「残念だが名前は教えられない。名前があるのはハイだけで、ローには無い」
「なんと。じゃあ、貴様らローはどうやってお互いを呼び合うのだ?
名前が無いと不便だろうに」
「ロー同士で会話するなんてことはまずない。言葉さえしゃべれない、本能のまま生きている者も少なくないからな…そうだな、ローを区別するのはコレだ」
「ん?」
彼は右腕をダリアに見せた。そこには星形に見える傷跡があった。
「ローにはそれぞれ、直属の上司によって体のどこかに個体を識別するためのマークを付けられる。俺の場合はコレだ」
「なるほど…。星か…ふむ、ならば貴様のことを星〈ジルカ〉と呼ぼう」
「ジルカ…」
「いい名だろ?」
「悪くは…ないな」
「そうだろう、そうだろう。ふふん、私はセンスがあるな」ダリアは嬉しそうに笑った。
「さて、ご満悦のところ悪いが早速、言葉を教えてもらおうか」
「言葉か…何か、それ用の本は無いのか?何もない状態から教えるとなると色々面倒だ」
「本か…こっちに来い。どれがその本か判断が付かない」
痛みがまだ残る脇腹を押さえながら、ダリアは後に続いた。
案内されたその部屋は小さくはあったが、入り口以外の三方の壁すべてが本棚となっていた。予想以上の本の量に驚く。
「こんなにもよく集めたものだ。
ん?布団らしきものがあるがここで寝ているのか」
「唯一のベッドは貴様に占領されているからな」
「ぐっ…」
「俺がどこで寝ようとどうでもいい。どうだ、適用の本はあるか?」
「ああ、人間語からエルフ語、ドワーフ語の本、共通語(ザハリィン)の本まである。どの言語を学びたいんだ?人間語と共通語は教えることは出来るが、エルフ語、ドワーフ語は簡単な単語くらいしか教える事は出来んぞ」
「言語には複数の種類があるのか…道理でいろいろな形の文字があると思った。ちなみに今会話している言葉は何語だ?」
「共通語だ」
「なるほど…そうだな。とりあえずはこの本を読めるようになりたい」
「これは…」
それは昨日見せられた本で、血がべっとりと着いていた本だった。
一目では分からなかったが、どうやら絵本のようだ。
「これは…。これをどうやって手に入れた」
大量の血を浴びたために、ページを開くたびにペリペリと音がする。この血はおそらく絵本の持ち主のものだろう。
「ある家族を殺して奪ったものだ」
「貴様、この本の持ち主の子供を殺して奪ったのか!」
「…そうだな」
「さすがオークだ。血も涙も無い」
「それがオークだ。知らなかったのか?」
ダリアは憎悪の目でジルカをにらんだ。
「怒ったか?だが、約束は約束だ。言葉を教えてもらおう」
「ふん、忌々しいが私も騎士の端くれだ。約束は果たそう。丁度、子どもが使う共通語の本があるな。これを使おうか。今見せた絵本も共通語で書かれていたしな」
「何度言えば分かる。いいか、これは“ヘー”と読む文字で、こっちは“ゲー”と読むんだ」
「これが違う文字…?全く、一緒じゃないか」
「違う、“ヘー”はここで書くのを止めるが、“ゲー”はここが少し飛び出る形になる」
「ふーむ…全く同じに見える」
「ああ、そこで勢い付けて書いてしまうから同じ形になってしまうんだ。いいか?ここで…む?」
トビラを叩く音がした。
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