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Ⅵ 女騎士 オークとデートをする
「ジルカ、お代わり」
「…お前、最近ますます遠慮が無くなってきたな」
「私はお前の教師だ。つまり、お前は教え子だ。何を遠慮する必要がある?」
「……」
「なんだその呆れた顔は!」
「声が大きい。外に漏れたらどうするんだ」
「くっ…」
ジルカは少し多めに粥をよそってやった。
「なぁ、一つ訊いて良いか」
「墓のことは」
「墓のことではない。確かに気になるが、もう訊かぬよ」
「?」
「どうして文字を読めるようになりたいんだ」
「それは」
「あの絵本を読みたいからだろう?この前はああ言ったが、絵本の内容を知りたいだけなら私に読み上げさせればいい。そうすれば、わざわざ文字を覚えなくとも済む」
「……」
「そちらの方がはるかに簡単でかつ合理的だ」
「あの本だけは、どうしても自分で読みたい」
「ふーん」
ジルカは俯いて黙ってしまった。こうなったら、もう何も話はしないだろうとダリアは諦めた。
「ふん。まぁ良い。…あぁ、腹いっぱいだ」
満足げに腹をさするダリアを見て、ジルカは小さくため息を吐いた。
「おい、そのダメ人間を見るような目で私を見るな!」
「お前、太ったな」
「ふ、太ったぁ?」
あわててダリアは胴回りをさする。確かに、今まではなかった“ゆるみ”が心なしかあるような…。
「やはりか」
「う、うるさい!大体、太ったのはお前のせいだろうが」
「俺の?」
「そうだ。毎日食事を出されて、なおかつ外出は禁止と来た。これで太らないというほうが無理な話だろう」
「お前は捕虜だということを忘れてないか?」
「捕虜に満足な食事を与え、快適な寝床を用意する方が悪い!」
「むちゃくちゃな…。
そうだな…じゃあ、一日一食にして俺の代わりに床で寝るか?」
「そ、それは…嫌だ…」
「わがままな奴だ」
「わがままじゃない!」
顔を赤くし、ぷるぷると震えるダリアを見てジルカは苦笑した。
「貴様、今笑ったな!」
「笑ってない。オークが笑うところを見たことがあるか?」
「くそー。なんだこれはオークごときに言いくるめられてるぞ、私」
悔しげにダリアは拳を握りしめる。
「もういい。貴様に言葉など教えぬ」
「じゃあ食事は抜きだ。お前が餓死したところで、別の人間を掠ってくればいいからな」
「ぐぬぬぬぬぬ、卑怯なりオークめ」
怒り心頭に、そっぽを向いたダリアを見て、ジルカは鼻でため息をついた。
「まぁしかし、ずっと家にいるというのも気が滅入るか」
「そうだそうだ。良質な食事と快適な睡眠、そして適度な運動を与えた方が教える側もはかどるぞ」
「ふーむ。ならば夜だったら外に出してやろう」
「ホントウか!」
「ただし、七日に一回だ。もちろん、俺も一緒だし、女王から呼び出されない時に、だ」
「いいだろう。外に出られるなら夜だろうと昼だろうと構わん。監視付きでも問題なしだ」
「外に出るときはあの外套を被れよ?」
「あのくっさいやつをか」
「臭いか?」
「臭い。獣の臭いがする。一回も洗ったこと無いだろう」
「…分かった。洗っておこう」
「よし、じゃあ早速今夜出かけよう」
「今夜?」
あまりに急な提案にジルカは戸惑う。
「ダメか?」
彼女の懇願する目に、思わずジルカは頷かざるをえなかった。
「よし!ああ、久しぶりの外だ。今夜が楽しみだなぁ。あ、ところで…」
「?」
「今日の昼はなんだ?」
「……」
「その目を止めろぉぉ!」
怒り狂うダリアを放って、ジルカは外套の洗濯にかかった。
夜─月はまだ出ていない。
「…近くには誰もいないようだな」
「早く、早くー」
「急かすな。バレたら一大事なんだぞ…よし」
周囲を確認すると、急いでダリアを裏の森の中へ連れて行く。
「あー、久しぶりの外だー」
「大声を出すな」
「分かってるよ…なんだ、外套のフードのところまだ濡れてるぞ。ちゃんと乾かしておけよ」
「…はぁ」
「どうした、ため息なんぞついて」
「何でもない。早く森の奥に行くぞ」
「そんなところに連れて行って私にナニをする気だ?ん?」
「今すぐ引き返して、女王の下へ連れて行ってもいいんだぞ」
「冗談だ、冗談。全く、オークには冗談も通じないのか」
「オークだからな」
月明かりが届かない森の中、ジルカは躊躇いなく進んでいく。
「ちょっと待て。貴様、歩くのが速すぎるぞ」
「オークは夜目が利くからな…そこ、木の根が隆起しているから気をつけろ」
「あん…?うわっ」顔から見事に転ぶ。
「だから言ったんだ」
「うるさい。言うのが遅すぎるわ」
「ほれ、立てるか?」
「バカにするな。一人でも…うわっ」
再び根に躓いたダリアを、ジルカは抱く格好で受け止める。
「くそ。屈辱だ…」
「お前、いい匂いがするな」
「はぁ?」
「!。いや、なんでもない。今のは忘れてくれ」
「なんだお前、ちょっとおかしいぞ」
「そうだな…」慣れすぎたか、ジルカはほとんど声にならない形で呟いた。
「何か言ったか?」
「何も」
「そうか?ええい、これでは何も見えん。せっかくの外出が無駄ではないか」
「もう帰るか?」
「いや、まだだ。お前が先に歩け。後からついて行く」
「捕虜のくせに要求が多い奴だ」
ジルカが前を歩いていると右手の小指が柔らかい何かに包まれる感覚があった。
「む?」
「また転ぶのは御免だからな。転ばぬ先の杖ならぬ、オークの小指というヤツだ」
「……」
「どうした」
「いや、お前が気にしないなら、いいんだが」
「相変わらずよく分からんヤツだな」
どっちがだ、と言いかけた矢先に森が開けた場所に出た。そこは小さい湖が広がっており、森にぐるりと囲まれていた。
「ほう。オークの伏魔殿のようなところでもこんなに綺麗な場所があったとは…」
「俺が森の入り口に住んでるから、他のオークはここまでは来ない。ここを知ってるのは、俺と─」
「私だけか」
おりしも月が天に昇った時分で、月の映し身が湖面を漂っていた。
「オークに穢されていないよな…?」
おそるおそる水面を触れてみる。清冽な感触が指先を迎えた。
「オークはこの水に触れることは出来ないから安心しろ」
「どうしてだ」
「それは…丁度、出てきたな」
「ん?」
湖の真ん中の方で音がしたかと思うと、人間の形をした影がこちらをじっと見つめていた。早朝の霜のように白い肌、身を包むほどの豊かな栗色の髪、その体の下は水と一体化していた。
「水精霊(ルサールカ)がいたのか!こんなに間近で見るのは初めてだ」
ルサールカは無感動な一瞥をこちらに投げかけると、水の中へと姿を消した。
「分かったか?あれが居る限り、この水を邪な存在が犯すことは出来ない」
「なるほど…なんか怒ってなかったか?いきなり彼女の住処に触れてしまったからかだろうか」
「お前は…処女だよな?」
「なっ」
あまりの予想外の問いかけに顔が真っ赤になる。
「違うのか?」
「違わな…って、なんで決めつけるんだ」
「どっちだ」
「け、経験はない」
「じゃあ、問題ない」
「何がだ!」
「ルサールカは穢れたものを極端に嫌う。あれが怒っているように見えたのは、俺が居たからだろう」
「へー。というかなんでそんなことをオークのお前が知ってるんだ」
「そうだな。何故だろうな」
「……」
気まずい沈黙が降りた。ジルカの不思議な知識量の由縁を知りたかったが、固く閉じられたその頤(おとがい)は納得のいく答えを吐き出しはしないだろう。
「ふむ…。おい、外出時間はあとどれくらいだ」
「そうだな。月が中空にかかるくらいにしようか」
「なら、時間はまだあるな。ジルカ、そこで見張っていろ」
「見張る?なにを…」
言い終わらぬ内にジルカの顔面を外套が襲う。
「おい待て、何をする気だ」
「見張れと言ったが、こっちを見るな。見たら、コロス」
意想外の殺気にあわてて後ろを向く。
数瞬の間─続いて聞こえたのは何かが水に飛び込む音。
チラリと振り向くとダリアが心地よさそうに水浴をしていた。
「見るなよ。見たらコロスからな」
「二度も言うな。お前の貧相な肉体など興味もないわ」
「言ったな」
戯れにダリアが水をかけてくる。聖水に近い湖水が軽くジルカの肌を焦がした。
「止めろ。オークがこの水に触れられないのは分かってるだろう」
「はは。私の体をバカにした罰だ」
文字通り水を得た魚のごとくすいすいと奥の方まで泳いでいく。
「ああ、気持ちいい。家では濡らした布で体を拭くだけだったからな。久しぶりに全身水につかる」
「まだそこまで暖かくはなっていないというのにご苦労なことだ」
泳ぎながら時折こちらに手を振るダリアに、軽く手を振って返す。
「満足した。もう帰るか?」水から上がり、濡れた髪を絞りながら尋ねた。
「いや、お前の体が乾くまで、まだここにいよう。家を水浸しにされては困るからな」
「お前はオークのくせに意外と神経質だよな」
「お前が無神経なだけだ」
ジルカの隣にダリアが座り、左手を前にかざす。その薬指には青白い玉石がはめられた指輪が。
「婚約者から貰ったものか」
「へへ、いいだろう。月長石〈セレニテス〉だ」
「ほう。知らない名だ」
「貴重な宝石でな。東方との貿易で偶にしか手に入らない貴重品だ」
「お前の婚約者はかなり裕福なようだな」
「そうだ。おまけに勇ましい。ほんと、私にはもったいないくらいの相手だ」
「婚約者にベタ惚れだな」
「当たり前だ。あの人のためだったら命だって惜しくはない」
「そうか」
「…なぁ、私の手を見てどう思う?」
「いきなりどうした。手か…特にこれといって変なところはないが」
「そんなことはない。よく見てみろ。この節くれ立ったゴツい手。この剣ダコ。無数に傷だって付いてる。…女の手というのは、本来もっと華奢で綺麗なものなんだ」
「そんな手、貴族の女しか持ってないだろう」
「あの人はそんな貴族の女に囲まれている貴顕の生まれだ。
そういう華奢な手を持った女性しか見てこなかった。彼女らはとても美しい。苦労や悲しみなど無縁の世界で育てば、あんな手になれるのだろうなぁ」
「そんな境遇でお前を選んだのは、よほど酔狂だったんだな」
「そうだな。あの人は少し感覚がズレてるのかも知れぬ。あの人は…」
「?」
「あの人は、こんな醜い手を綺麗だと言ってくれた。
槍剣しか握ったことが無いこんな野粗な私を誰よりも美しいと言ってくれた。
あの人はこの指に指輪をはめてくれた後、優しく抱きしめてくれた」
ダリアは膝を抱き寄せ、そこに頭を埋めた。その肩は微かに震えているようだった。
「おい…?」
「顔を見るな。見たらコロス」
「…この短時間に何回お前にコロされかけたんだろうな」
「お前が早く私を解放すればコロされずに済むぞ」
「まぁ、そうだな」
遠くで湖面を跳ねる音がした。魚か、それともルサールカか。
「お前との奇妙な共同生活もそう長くはないだろう」
「それは…?」
「言葉が段々分かるようになってきた。あの絵本を読める日もそう遠くないだろう」
「それじゃ…」
「婚約者にも、まもなく会えるだろうさ」
「本当か?本当なんだな」
「オークの言葉を信用するのか?」
「このっ…へっくち!」
ダリアが立て続けにくしゃみをする。
「うおお、風邪か?」
「こんな気温で泳ぐからだ。このまま居ても風邪を悪化させるだけだな。そろそろ帰ろう」
「おう…」
ダリアは震える体をさすりながら応えた。
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