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Ⅷ 女騎士 オークにすがりついて泣く
─世界など、壊れてしまえばいい。
ポヴィヤは葡萄酒〈ヴィナ〉をゆっくりと口に含みながら思った。
ツバメの巣〈ラストチキノ・グネスド〉城の一角。灰海〈シリー〉を眼下に見下ろす部屋のベランダで、ポヴィヤは火照った体を独り静かに冷ましていた。
寝室の方から聞こえてくる耳障りなほどの大きい寝息。単体でさえうるさいのに、それは二つ分の寝息だ。
快楽に身を任せ、嗜虐〈サディズム〉と被虐〈マゾヒズム〉に心を砕かせる。そのひとときだけ、世界は壊れてくれる。行為が終わった後に来るのは圧倒的な虚無だというのに、何度も行為を重ねてしまう。
最近は、そのひとときですら満足にいくものではなくなって来ていた。慣れてしまったのだろう。
次は人数を増やそうか。いや、ただ相手を増やすだけではつまらない。奴隷となっている人間の女を連れてこようか。いや、男の方が良いか。
そんなことを考えながら客間に入ると、誰かの足音が聞こえた。
この城でこんな静かな足音をさせるのはアイツくらいしか居ない。少しからかってやろうか。手持ちぶたさだった彼女はゆっくりと廊下への扉を開けた。
「ごきげんよう。今夜も良い夜だな」
「これはポヴィヤ殿。まだ起きておいででしたか」
「ふふ、やはりお前か」
案の定、腕に星の傷を付けた青灰色のオークだった。以前はその他大勢の一人に過ぎなかったが、最近は何か気になる雰囲気を漂わせるようになっていた。
「これから女王陛下のお相手か?」
「いえ、もう終わりました。これから帰るところです」
「帰る?不思議だな。以前は朝まで女王陛下と共に寝ていたではなかったか」
「女王陛下は現在、熟睡中ですので自分の役目は終わったかと」
「朝まで付いてやらねば駄目ではないか。そうだ、この前も朝にお前の姿が見えなくて女王陛下はご立腹だったぞ。あれがかなりの寂しがり屋なのは知っておろうに。ねぐらに帰っても、することも無いのだろ?どうして帰るのだ」
「それは…」
目の前のオークが表情を押し殺しながらも、焦っているのを感じた。
何かを隠している?
あの単純で粗忽なオークが?
ひどく興味が湧き、ポヴィヤは意地の悪い笑みを浮かべた。
「どうだ。少し話をしないか?ローが決して口に出来ない酒を出してやるぞ」
「しかし…」
明らかに歯切れが悪かった。
確信した。目の前のオークは何かを隠している。
この城に流れ着いてしばらくになるが、オークがここまで人間くさい行動をする様を初めてみる。
─面白い。実に面白いぞ。
「一献付き合え。これは命令だ」
部屋に戻り、グラスをもう一つ取り出し、葡萄酒を注いで渡す。
「これはローどころか、人間でさえなかなか口にできない逸品だ。心して口にしろ」
「…それでは」
オークはゆっくりと紅血の液体を口に含んだ。
「どうじゃ?」
「なんとも…このようなものは初めて口にするので…何かおかしいことでもありましたか?」
ポヴィヤが笑いをこらえ、肩を揺らしていた。
「そりゃ、おかしいじゃろ。オークが上品に葡萄酒を飲んでいる様が見られたのじゃから。まるで、人間のようじゃ」
「私は…」
「前から違和感があった。何故、お前だけが他とは違う?何故、お前だけがそのように私に敬語を使う?何故、そんなにも…そうか、お前、まさか」
ポヴィヤは立ち上がりオークの顔に右手を添えた。
「この推測が当たっているのなら、あれがある時期から急にお前だけを床に呼ぶようになったのも何となく合点が行く。
どうじゃ?あれを籠絡した手管を妾にも」
「……」
ジルカの沈黙にポヴィヤが目を細める。
「なんじゃ、その目は!」
「目?」
「何故、そんな憐れむような目で妾を見る!」
ポヴィヤはオークの頬を引っぱたいた。
「なんじゃその目は!
なんじゃその目は!」
オークはただ暴力を振るわれるままに任せていた。
「お手を」
「あぁ!?」
「血を流してしまっています。これ以上は」
オークは表情を変えず、血が付いた口で静かに言った。オークの皮膚は岩のように硬い。いくら殴ったとしても女の手で傷つくことはない。
顔に付いている血はすべてポヴィヤのものだった。
「貴様…もういい。下がれ。興が削がれた」
「失礼します」
オークは一礼して部屋を出て行った。
ポヴィヤはグラスに残ったものを一気に飲み干すと、床に叩きつけた。
不快な高音が響く。
「ん~、ポヴィヤ様なんですかぁ?今の音」
寝室からのそりとオークが出てきた。熊のようにいかつくケダモノを連想させるような肢体で、その目は愚鈍さしか感じさせない。
「何でもない」
オークはその怒色の表情に怪訝な表情をしたが、すぐに貪淫の表情に変わった。
「へへ、ポヴィヤ様ぁ~」
「触るな。今はその気は無い」
その言は無視され、荒々しい手は彼女の胸を遠慮なく握り、もう一方の手は腹部から下方へと流れていく。
「触るなと…言っているだろうが!」
「へ?」
傍らにあった剣を掴むと、振り向きざまに淫獣の頸部へ一閃させた。
呆けた表情のままの頭が転がる。猪首の骨をも両断したその白銀は刃こぼれ一つせず持ち主の怒りを代弁した。
目前の肉塊は天井へ届かんばかりの濁流を噴き出し、地響きのような音を出して倒れた。
「穢らわしい…」
ポヴィヤの顔は醜悪なまでに歪んでいた。
こんなにゆっくりと眠り続けたのはいつ以来だろうか。
ダリアは煤けた天井を眺めながら思った。
孤児院時代は…いつも腹を空かせたまま眠っていたから満足に眠れていた思い出はない。
騎士見習い時代は…連日の過酷な訓練でいつも倒れるように眠っていたから安眠とは言い難い。
騎士になった時は…コルニ公は戦場が我が家のような方だったから、それに従う我々も常に石を枕とし、草を褥としていていつも薄い眠りだった。
…あれ?もしかして、オークに囚われて私初めて安眠してる?
いやいや、まさかまさか…でも、ここにいれば何もしなくても食事は出てくるし、少し堅いが十分なベッドで眠れている。
あれ?ここってもしかして快適じゃない?
そう!めっちゃ快適だ!
いや、でもオークの家だぞ?
うーん…。ま、いっか。
それにしても、あのオークは不思議なやつだ。言葉を教えてくれと言ってくるオークなんてこの先、二度と会えないだろう。物覚えも意外と早かった。もう貴族の五、六歳児程度には読み書きができている。あの血まみれの絵本を読むことだってもはや可能だ。
なのに何故か読むことをためらっている。あの絵本を読むために私を捕らえたというのに全く持って不思議なやつだ。
明日の朝あたりに、もう一度読み渋る理由を訊いていようか。
そんなことを考えながら寝返りをうつと、部屋に差し込んだ月光がダリアの横顔を撫でた。
その瞬間、ふと家の外に何かの気配を感じた。
ジルカが帰ってきた…か?
いや、何かいつもの彼の気配と違う感じがする。
扉を開けようとする乱暴な音が。
やはり違う。ジルカだったら、鍵を持っているからこんなことをするはずがない。
まさか…まさか!
今度はドアが乱暴に叩かれる。壊しかねない勢いだ。
他のオークに私のことがばれたか?…いや、もしかしたらジルカが鍵を…?
ドアを叩く音は終いには、はっきりと破壊の意志を感じさせるものへと変わった。
まずい。逃げなければ。
「ここを開けろ!居るのは分かってるんだぜ」
いつかジルカを呼びに来たオークの声だ。その声を聞いた瞬間、己の危機をはっきりと悟った。
私の鎧と剣!ええい、ジルカめどこに隠した。
探そうと思っても、明かりがない状態では探せない。探し回る時間もない。
「逃げても無駄だぜ。人間一人がオークの根城に迷い込んで逃げ切れるはずがねえ」
「そんなことを言われて逃げないやつがいるか!」
身近にあった錆びた短刀をひっつかむと、裏戸の鍵を壊して転がるようにして外へと出た。同時にドアが破られる音がしたが、振り向く余裕などなく裏の森へと逃げ込む。
「やっぱり居やがった。へへ、しかも女だぜ」
怖気がたつような邪淫の声。捕らえられたらどうなるかが容易に想像できた。
─とにかく、逃げなければ。
時折、木の根に躓きながらも暗闇を藻掻くようにして走った。
「夜目が利くオークから逃れられるかよ!」
走っても走っても後ろの気配が振り切れない。
どうする?どうする!
微睡みかけていた頭に必死で血を巡らせ考える。
いっそのこと立ち向かうか?─ダメだ!こんなちっぽけな短刀では戦えない。
このまま逃げ続けるか?─長く囚われていたおかげで以前ほど体力が無い。限界が思ったよりも近い。
自らの荒い呼吸の音が耳を覆っている中、水がはねる音が聞こえた。
そうだルサールカの湖!あそこに逃げ込めばオークは追ってこれない。
一縷の望みが見えた。
死にものぐるいで湖へと向かう。
月明かりが見えてきた。
あと少し、あと少し─のところで体がガクンと重くなる。
「やっと捕まえたぜ」
悲鳴を上げた。幾久しくあげていない。騎士として無様なまでの“女”の悲鳴。
無理矢理仰向けに倒され、衣服が引きちぎられる。
「はっはー、お楽しみの時間だ」
顔半分が何かで撫でられ、濡れた。体全体が怖気で奮い立つ。
濡れた原因はねっとりとした重い唾液だ。
皮膚の硬い粗暴な手で乳房が荒々しく揉まれる。
オークの生臭い吐息が顔全体にかかる。
恐怖と嫌悪感に思わず眼をつぶる。すると、股の間に何か熱源を感じた。
うようよと上下に動いているようだ。
これは─!!
「久しぶりの─」「?」
オークのだみ声がそこで途切れた。刹那、顔全体を異臭のする液体が覆った。
驚いて眼を開くと、先ほどまであった邪悪な顔は無く、噴水のように体液を吹き出す肉塊だけがそこにあった。
「な、なん─」
「大丈夫か!」
そこには見慣れた青灰色のオークの顔が。
助かった。安堵と歓喜に異形の救世主へ身を投げる。
声を張り上げて泣いた。子供の時分以来の見境無い涕泣だ。
なんでこんなに泣いて居るんだろうと冷静に見ているもう一人の自分が、謝罪の言葉をひたすら呟く彼の声を愛おしく聞いていた。
「ケガはないか?」
「ケガは…いっつ─」
足全体が痛くなっているのを感じた。見てみると、無数の切り傷ができていた。裸足で夜の森を走ったのだから、当然であった。
「歩けるか?」
「なんとか─けほっ、こほっ!」
「どうした」
「どうやら、返り血がのどに入って…こほっ、こほっ」
「とにかく返り血を流そう。オークの血にふれたままではマズい」
「家に戻るか」
「いや、そこで洗い流そう」
「そこでって、お前ルサールカの湖でか?彼女の怒りを買うぞ」
「大丈夫だ。どうしても怒りが収まらなかったら、俺の身でも捧げるさ」
「は?何を言って…おわっ!」
ジルカはダリアを抱き上げると湖へと向かった。
「ちょ、下ろせ。歩けると言っただろう」
「無理してるのがバレバレだ」
「ぐっ…」
ジルカは湖へ駆けていくとダリアをそっと中へ入れた。
「傷にしみるかもしれないが、少し我慢しろ…ぐっ!」
「お、おい。お前の方が痛がってるじゃないか」
「気にするな。これくらい問題ない」
ダリアを湖へ入れた後、引き抜いたジルカの両腕には全体に火傷のような痕が出来ていた。
「大丈夫か」
「大丈夫だ。それより、お前の傷はどうだ?」
「水が傷にしみるが思ったほどではない。それどころか、心地良ささえ感じる。さすが、ルサールカ住まう湖だ」
ダリアは身を横たえると、気持ちよさそうに眼をつぶった。
「ひとまずは安心だな」
ダリアの体から、赤黒い色が広がり、いつしかそれは水の中へと消えた。
「水草がくすぐったいな…ん」
遠くで魚のはねるような音がした。
そちらを見ると、ルサールカがこちらをじっと見つめていた。
危惧していたような怒りの雰囲気は無く、すぐに姿を消してしまった。
「しばらく、水につかっていろ。外套を取ってくる」
「ああ、感謝する」
ダリアは仰向けになって、湖面を漂っていた。
見上げれば月は天上にかかり、静かな光をこちらに投げかけている。
ささやかな風がわずかに水面を波立たせ、それは母が揺らす赤子のゆりかごのように優しく、穏やかだった。
このまま眠ってしまいそうな感覚になる。それほどまでに心地良い。
「ああ、綺麗だな。ここは」
ダリアは立ち上がり、その裸体を月光の下にさらし、手を夜の女王にかざす。
「戻った…」
ジルカのこちらを見る目が驚いたように見開かれる。
「どうした?」
「…何でもない。濡れたままだと風邪をひくぞ。拭くものも持ってきた」
「ありがとう」
ダリアは体を拭き、外套を被ると湖畔に座るジルカの隣に座った。
先ほどまで決死の逃避行をしていた空気はもう無く、世界はまるで二人しかいないかのような、そんな静けさだけがあった。
ダリアは横にいる異形の化け物に視線を向けた。様々な感情がこみ上げてくるが、これをぶつけてもこいつは何も応えてはくれないのだろうと少し悲しくなった。
ふと、ジルカの視線がこちらに向けられた。
「そんな目で見てきてどうした」
今なら分かる。
その粗暴な口調の底にある優しさが。
爬虫類のような目の奥にある慈しみが。
ダリアは口を開いた。
「訊きたいことがある」
「訊きたいことか…まぁ、いいだろう。何が訊きたい?」
「沢山ある。でも、まずは」
「まずは?」
「お前は本当にオークなのか?」
「直球だな。他にどう見えるというんだ?
俺はオークだ。それ以上でも、それ以下でもない」
その言葉には必要以上に自分を卑下するものを感じて、ダリアは一層悲しくなった。
「茶化すな!」
ダリアは立ち上がって、ジルカの方へ向いた。
「おいおい、怒るなよ」
「人間を捕まえて『文字を教えてくれ』?襲われているところを助ける?そんなオークが居てたまるか!」
ダリアの体は小刻みに震えていた。
「泣いて…」
「泣いてない!」
「嘘を言うな。目が赤いぞ」
「うるさい!私の質問に早く答えろ!」
「だから…」
「……」
「分かったきちんと答えるから。泣きながら睨むのを止めてくれ」
「本当だな?」
「ああ」
ダリアはやや乱暴に再びジルカの隣に座った。
「そうだな…まずこちらからの質問だがお前から見て、俺はどう見える?」
「どうって…」
脳裏に一瞬答えが浮かんだが、馬鹿らしくて頭(かぶり)を振った。
「言ってみろ。何か思い浮かんだんだろう?」
「お前が…人間に見える」
「人間…か」
ジルカは目を細めて、湖の方を見つめた。
「重ねての質問だ。お前たちはオークがどこから来たと考えている?」
「また、質問か?ずるいぞ。早く私の質問に答えろ」
「いいから。これを答えてくれたら、お前の質問に答える」
「それは…噂でしかないが、不死の神コシチェイが冥界から人界を攻めるために召還された、と」
「そんな噂があるのか。知らなかった」
「違うのか」
「当たり前だ。よくそんな荒唐無稽な話を思いついたものだ。大方、どこぞの宮廷詩人がホラを吹いたのだろう」
「では、オークはどうやって」
「……不思議に思ったことはないか?どうして俺たちはここ、イユボフ伯領にいるのか、と」
「それは、お前たちがここに急に現れたからで」
「そうだ。俺たちは急に現れた。じゃあ、ここに居た人たちはどこへ行った?」
「それは…オークたちが皆殺しにしたんじゃないのか」
「普通はそう考えるな。だが、一人も生存者が居ないというのも変だとは思わないか?
たとえ、オークがどれほど迅速に苛烈な虐殺をしたとしても、一人くらい生存者が居ないのはおかしな話だ。どんなことにも取りこぼしはあるのだから」
「確かに…だが、何故だ…」
「まぁ、答えには早々辿り着かないか。ヒントだ。どうして、オークはしゃべれる?」
「どうしてオークがしゃべれるか?そんなものは…そうだ。何故オークは我々と同じ言葉を使える?
全くの異形の存在なら、言葉が通じるなど有り得ない。
何故だ…!いや、しかし…!」
「どれだけ疑わしい答えが出たとしても、それしか答えが無いならば、それが正しいんだ」
「まさか…まさか…!」
「答えに辿り着いたか。
そう。オークは人間だった。ここに住んでいた人間はオークに殺されたんじゃない。
オークになったんだ」
「そんな…」
「すぐには信じられまい?当事者である俺ですら信じられないのだから」
「でも、人間をどうやってオークにしたんだ?そんな悪魔の術などあるのか」
「人間を化外の者に。こんな芸当が出来るのは太古の魔術を識っているというエルフだけだろう」
「じゃあ、エルフが?でも、そんなことをする意味は無いだろう。
エルフたちは専ら、自分たちのことしか考えないから、そんなオークを創り出してまで他国に、ましてや差別対象の人間国に攻めることなんて考えられない。
まぁ、一人くらい邪な考えを持つエルフは居るのかも知れないが」
「邪か…。確かに、あのエルフは邪悪だが、そんな力があるとは思えない」
「あのエルフ?」
「お前たちには知られていないが、一人エルフが─それも、ダークエルフの女が食客として城に居る」
「ダークエルフ…話には聞いたことがある。清浄な存在であるエルフが穢れると、その純白の肌が醜い灰色へと変わり、邪悪な存在ダークエルフになる、と。
でもどうして城に居るそいつは違うと言えるんだ?
ダークエルフなら悪魔の術も識っていそうではないか」
「彼女は俺たちがオークになってから姿を現した。だから違う。
まぁ、彼女が暗黒の魔術を我らが女王に教えたという可能性もあるが」
「じゃあ、お前たちの女王が」
「他に該当者が居ないから、女王が魔術を行使したのだと思うが…何か違う気もする」
「違う気がする?その根拠は?」
「なんとなく、としか言いようがない」
「なんだその曖昧さは。女王もオークなのか?」
「あれは人間だ…いや、人間に見える、と言った方がいいか」
「?」
「人間らしさがほとんど無いということだ。興味があるのは自らの肉欲を満たすことだけ。そんな淫縦な存在だ」
「淫縦…」
「俺が何故、定期的に夜、女王に呼ばれていると思う?伽の相手をするためさ」
「と、伽!じゃ、じゃあお前は…」
「床の術をずいぶんと教え込まれた。今度、相手してやろうか?」
「ふ、ふざけるな!穢らわしい!」
「そんなに怒ることか?」
「う、うるさい!黙れ!この馬鹿オー…くしゅん!」
「風邪をひいてしまうな。家に戻ろうか?」
「いや、今ここで全部を聴いてしまいたい。
ところで、他のオークもみな、お前のように人間だった自覚はあるのか?」
「いや、どうやら人間だったことを思い出したのは俺だけのようだ。
ちなみにだが、ローたちは元人間でハイたちは元エルフだ。だから、ローは数が多く、その性質は粗雑。反対にハイは少なく、高度な思考ができる。ゆえに指揮官はすべてハイだ」
「エルフもオークになっているのか!そのエルフたちは一体どうやって」
「エルフの国へ行って誘拐してくるのさ。
その手引きをあのダークエルフはしているわけだ」
「なるほど。今回のことはエルフも無関係ではなかったのだな。
ところで、そのダークエルフは堕落しただけで、どうしてオークになっていないのだ?」
「さぁな。ハイが高度な思考ができるとは言っても所詮オークだ。エルフの至高の能力は失われてしまう。エルフの国に行って、拐(かどわ)かしてくるなどという難しい仕事はオークになってしまっては不可能になると女王が判断したのだろうと思っているが、実際のところは分からん」
「そうか。でも、どうしてお前だけが人間だった時の記憶を取り戻せたんだ?」
「知りたいか?」
「当たり前だ」
ダリアの言葉に、ジルカは虚空をにらみ、眼をつぶった。
「分かった。教えよう。だが、あまり楽しい話じゃないぞ」
ダリアは無言でうなずいた。
「まず、人間だった頃の俺の話から始めたいがいいか?」
「うむ」
「俺が人間だった頃は行商をやっていた、と思う。
人間だった頃の記憶は曖昧で、この記憶も実際は全く違うのかも知れないがな。だから、これから話すことはどこまでが本当なのか俺に分からない。そのつもりで聴いてくれ」
「分かった」
「行商と言っても、王都や地方を回って、わずかばかりの上がりで糊口をしのぐ、そんなしがないものだった。
こんなことを言うと、幸せじゃなかったように聞こえるかも知れないが、俺は幸せだったはずだ」
「ほう」
「貧しいながらも妻が居て、幼い子供もいたんだ。たぶん、幸せだったんだ…と思う」
「その“幸せ”だった記憶も曖昧なのか」
「実を言えば、家族との記憶はほとんど残っていない。妻と子供が居たことだけは覚えているから、勝手にそう想像しているだけなんだ」
「……」
「そう考えないと、あまりにも救いがないだろう?」
自嘲気味にジルカは笑った。
ある日、俺はイユボフ伯領に来ていた。仕事のためだと思う。ここは海に面しているから、魚の干物なんかを俺は扱っていたのかもな。
あのとき、伯領のどこかを歩いていた。そのとき、俺は何を思っていたんだろう。仕事で疲れたとか、早く家族に会いたいとか、だろうか。
歩いていると突然、頭が痛くなって立っていられなくなった。胃の中のものを何度も吐いたよ。朦朧とする意識の中で、なんとか周りを見ると俺と同じように苦しがっているものが沢山居た。
これは何なのか?何か流行病が急に流行りだしたのか?全く訳が分からなかった。
頭はどんどん痛くなるし、体もなんだか変な感じがするし、苦痛にこらえきれず叫び声をあげた。
もう死んでしまいそうだ、と思った瞬間に意識がなくなった。
おそらく、いや、あれがオークになった瞬間なんだろう。
オークになってからの記憶は輪をかけて曖昧だ。
もはや、“記憶”と読んでいいのかさえ分からない。例えるなら、奇妙な悪夢を見ていたような感じだ。底がない泥沼の中で、なんとか頭だけは出しながら必死にもがいている悪夢。
そして奇妙なことに俺はもがきながら何かを求めていた。何だろう、はっきりと言葉に表すことは出来ないが、その“求めているもの”はとてもキレイなものであるような気がした。
俺はそれがすごく欲しかった。何としても手に入れたかった。
そんな悪夢を見続けながら、あるきっかけで俺は不完全ながらも記憶を取り戻した。
そこまでしゃべりきるとジルカは手を組んで、強く目をつむった。その体は震え、祈るような手つきをしていた。
「そんなに思い出すのがつらいのか?」
「さすがにな。──続きを話そうか」
オークになった俺は─いや、俺たちは、と言った方がいいか─ある集落に来ていた。理由はもちろん、略奪をするためだ。
オークの情報がまだ広まっていない頃だったんだろう。そこは何の備えもなく、枯れ野に火を放つ容易さで俺たちは蹂躙していった。目に付く人間たちをあらかた殺し尽くし、後は一軒一軒人間が残っていないか、蓄えがないかを探していく段階だった。
そんな中、俺は集落から離れていたみすぼらしい家を見つけた。人が住んでるのかどうかさえ怪しい見た目だった。
最初、俺はその家を素通りしようと思ったんだが、ふと何か惹かれるものがあった。何でこんな粗末な家に惹かれるのか不思議だったが、直感に従って扉を蹴破った。
そうしたら…。
やせ細った女と幼い子供が恐怖に震えながらこっちを見ていたんだ。
その二人は、俺を見ると恐怖の叫び声を上げた。その叫び声に激昂した俺はまず、剣を子供の頭に振り下ろし、悲鳴をあげる女の髪を掴むと服を引きちぎった。
女の抵抗が思った以上に激しく、弱らせるために頭を殴った。
昏倒させてから女に覆い被さったが、目の端で子供が持っていたものが見えた。
絵本だった。
何故か、その絵本から目を離せなくなった。
でも、数瞬の間でしかなかったろう。
女に向き直って、いざことをしようとしたら不意を突かれて腰の短刀が奪われ、右腕が斬られた。
予想外の反撃に頭に血が上った俺は女の頭を殴った。
何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。
女は動かなくなり周囲を見回すと案の定、絵本以外何もない。
無駄足を踏んだ、帰ろうと思ったが、さっきの絵本が気になり拾ってみた。
血で固まりかけているページをめくっていると、落雷に打たれたような衝撃があった。
その時、オークになったときのような頭痛が俺を襲った。
頭が割れそうで、頭を抱えながらもだえ苦しんだ。
意識が朦朧とする中で、一つの直感を抱いた。
俺は、俺は…
妻と子どもを殺したんだ。
俺は叫んだ。泣き叫んだ。
悲しみの衝動に突き動かされて二人の体を掴み、何度も揺さぶった。
しかし、二人は動くはずもなく、血をまき散らしながら人形のように揺れているだけだった─
ジルカは語り終えると、体を震わせて息を吸い、静かに吐いた。
「絵本がきっかけで思い出したのか」
「そうだ。かつて人間だったこと、妻と子供がいたこと。
代わりにオークだった記憶が無くなってしまうと良かったんだがな。だが記憶は地層のようにはっきりと積み重ねられていて、消えることはなかった」
「…どうして絵本がきっかけだったんだろうな」
「さぁな、そこまでは分からん。人間時代に子どものために、なけなしの金で買った絵本が記憶の奥底にこびりついていたのかも知れん」
「そうだな。最近、ドワーフの印刷技術が広まったおかげで本は昔に比べて高くはなくなったが、安くもない。未だに書物は庶民には手が届きにくい代物だ。
む、待てよ?ということは先日見せられたあの血まみれの絵本が…」
「そうだ、そのときの絵本だ。ちなみに、あの家もそのときの家だったりする」
「妻子を殺した家に住んでいたのか」
「あまり驚かないんだな。殺人が行われた家に寝泊まりしていたんだぞ?」
「オークと一つ屋根の下で寝泊まりすることに比べれば、その程度のことで驚かんさ。
あっ、すまない。お前にとっては“その程度”では無かったな」
「いいさ。もう終わったことだ」
ジルカの目は再び細められ、その視線は湖の方へ注がれた。
「じゃあ、裏の墓は」
「妻と子の墓だ」
「…絵本を読みたいと思ったのは、二人のことをさらに思い出すためか?」
「それもあるが…それだけではない。
最初は確かに、あの絵本だけ読めればそれでいいと思った。
略奪の中で絵本以外にも様々な本があることを知って絵本以外にもなんとなく集めるようになって、それらの中身を知りたいと思った。
人間を始めとした、エルフ、ドワーフが書き残した知識のなれの果て。それを読めたら、俺は…」
「?」
「人間になれると思ったんだ」
「……」
一息に自分の思いを言うと、オークは乾いた笑い声をあげた。
「嗤ってくれよ。オークのくせに人間になりたいなどと思ったんだ。
星〈ジルカ〉に手など届きはしないのに」
ジルカは笑い続けた。それは聞く者を不快にする醜く濁った声だった。
「私はわらわない」
「嗤えよ。粗にして野にして卑なるオークがお前たちと同じような人間になりたいなどと思ったんだぞ?どんな喜劇作家でさえも思いつかない筋書きだ」
「そんな卑下してわらうなよ。見てるこっちが悲しくなる」
「悲しくなる必要などないさ。所詮、俺はオークだ」
「うじうじ言うな!お前らしくも無い!
お前は他のオークとは違う。見た目は化け物でも心は人間じゃないか!
妻子を殺したことを悔やみ、悲しみ、弔っている。他のオークがそんなことをするか?」
ダリアの言葉にジルカは天を仰ぐ。
「こんな異形の者になっても、俺は人間になれるだろうか」
「当たり前だ。“なれる”じゃない。お前はもうすでに人間だよ」
ジルカが横目で見るとダリアの目からは涙がとめどめなく、流れていた。それを拭う動作さえしない。
「お前を泣かせてばかりだな…俺たちは長く一緒に居すぎたのかも知れないな」
「急にどうした」
「この奇妙な共同生活も、もうすぐ終わりと言うことだ」
「なんだ。どういう意味だ」
「この戦争もそろそろ終わるかも知れないということだ」
「その根拠は何だ」
「エルフがこの戦争に参加している」
「まさか」
「直接、彼らの姿を見たわけではないがアルダの矢で射られた。あんな矢を扱えるのはエルフだけだ」
「そうだったのか…。でも、どういうことだ?あのエルフがオークとの戦争に参加するなどと」
「あのコルニのことだ。エルフと同盟を組んだのだろう。
お前たちは俺たちに苦しめられているとは言え、劣勢の原因は兵数の少なさにある。
ここでエルフの勢力が加わるなら、元々そんなに数が多いわけではないオーク側は危ないだろう」
「でもエルフが加わったからと言って、そんな急に戦争が終わるものか?」
「お前たちとしても、このあたりで戦争を終わらせないと後はジリ貧になる。
満身創痍でオークに勝てても、他の人間国との戦いで滅ぼされてしまう。コルニはオークとの戦争後のことも見据えているだろう」
「そうか…。しかし、それで勝てる保証など」
「勝つさ」
「どうして、そこまで言える」
「俺がきっかけを作るからだ」
「きっかけ?何をする気だ」
「そこまでは言えない」
「お前、この期に及んでまだ隠し事を」
「とにかく、もう帰ろう。夜もかなり更けた」
ダリアは尚も訊きたそうなそぶりを見せたが、ジルカの言葉に黙ってうなずいた。
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