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生まれて初めてのスキーはさんざんだった。
まず、板が履けない。滑るのはおろか、立つことさえ覚束ない。へっピリ腰でようやっと背筋を伸ばしても、すぐにコケる。そして、立ちあがれない。
シーズン始めの平日で、人が少ないのだけが幸いだった。混雑したゲレンデでは、事故が起きる予感しかしない。ろくに滑れないのに全身汗だくで、寒さは感じない。とにかく、いっぱいいっぱいで、余計なことを考える暇もないのが良かった。
「いっちゃんがスキーに慣れたら、スノボもやろうかと思ってたけど、道のりは遠そうだね」
「うっせ。こんな不安定なもんで、すいすい移動するほうがおかしーんだよ」
すがすがしい顔でゴーグルを外すコータが恨めしい。皮膚が弱いとかで、もうゴーグルの形に日焼けのあとができている。
「ローラースケートとか、アイススケートができると上達早いんだけどね。コツは体重移動だからさ」
「無理。人類は滑るようにはできてないっつーの」
ヤケクソでわめくと、コータはあはははと声を上げて笑った。
宿まで戻り、借りていた板を片づけ、ワックスを塗って手入れする。
一階のロビーに置かれたソファに沈みこむ。体が泥のように重い。風呂に行きたいのに動けない。つけっぱなしのテレビでは、若い女子アナが明日の好天を告げている。テレビを見るのは久しぶりだ。
「やあ、こんにちは」
奥の部屋から出てきた白髪の老人が、コータと俺を見て笑いかける。なんとなく会釈を返すと、老人はそのまま玄関から出ていった。
「なあ、コータ。あのサンタクロースみたいな白ヒゲのじーさん、誰?」
「星のおじさん」
「はあ?」
「昔、大学の先生やってて、星の研究してたらしい。定年後に移住したって」
「でも、スキー場だと明るすぎて、星なんてろくに見えないじゃん」
「山奥に小屋があるんだよ。おれ、一度、遊びに行ったことある。でも、山小屋は不便すぎるから、このあたりまで買い物に降りてくる」
「変わってんな」
俗世間から離れた仙人。好きな星を眺めて暮らす、悠々自適な世捨て人。羨ましい。できるものなら、そういう人間になりたかった。
「一太くん。このシーツ、干してきて」
初日のお客様扱いとはうって変わって、翌日からは労働にいそしむ日々だった。
部屋の掃除、寝具の洗濯、食事の支度と後片付けの手伝い。仕事はいくらでもあった。初めて自分の手でやってみたベッドメーキングで、日々、これを仕事にしている人の凄さを思い知った。
慣れてくると、買い物や電話番、受付も任された。何十人分もの食料や、トイレットペーパー、洗剤なんかを買いこんで、両手一杯に運ぶと、コータの叔母さんから喜ばれた。
「ちょっとね、腰を痛めちゃってね。男手がいっぱいあると助かるわ。これ、いただきものだけど、よかったら部屋で食べて」
洋菓子店の洒落た箱に入ったチョコバーを手渡される。コータと相部屋なので、もちろん半分奪われる運命。
「うンまいな、これ。やっぱ、店の手作りのモンは違うな」
バリバリと噛み砕いている。もう少し味わえばいいと思いながら、手にしたチョコバーを見つめる。
「なんだ? くわねーの? おまえ、甘いもの嫌いじゃないだろ」
「あげねーよ。コータには半分わけてやっただろ」
「なんだよ。変な顔してチョコ睨みつけやがって。あ、わかった、アレだろ」
コータは手を打って、ニタニタ顔をよせてくる。心臓が小さく跳ねる。
「バレンタインにトラウマあんだろ? もらえるはずが、直前に別れた的な」
「ちげーよ」
「あ、違った? 生まれてから、オカン以外に一個ももらってない?」
「もらってねーどころか、ろくに学校行ってない」
「あー、そういや、そんなこと言ってたな。あれか、引きこもって部屋でチョコをバリバリ、みたいな」
「ちがうっつーの」
自分の部屋でも食べたな。でも、外で食ってるほうが多かった。八つ当たりのように、音を立ててチョコバーを齧ってた。味なんかしなかった。
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