ベテルギウスの行方

3/5
13人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
 その日、宿は比較的空いていて、午後のコータと俺はいそいそとスキーに向かった。  巷で流れる恋の歌を聞きながら、ボーゲンを意識して慎重に滑った。初日の悲惨な状態からは、我ながら驚くべき上達を遂げていた。 「なんだよ、いっちゃん。スポーツしないとか言ってたくせに、運動神経悪くないじゃん」 「見たか。驚異の成長率。ここにいる間に、てっぺんの上級者用リフトにも乗ってやるぜ」 「調子に乗んなよ。コツをつかんだ初心者ってのが一番危ねーんだよ」  コータに指摘されるまでもなく、宿に戻る途中で三回転んだ。そのうち二回は他のスキー客にぶつかり、平身低頭で謝るはめに陥った。  ウェアについた雪を払い、スキー板を乾かしてロビーへ向かうと、見覚えのある後ろ姿があった。星のおじさんの向かいには、小学生の三男坊。  空気の流れが変わるのがわかった。あ、と思っても遅い。逃げるのも間に合わない。  パチン、と耳に慣れたあの音が響く。二人は将棋盤を挟んで向かい合わせに座り、対局の真っ最中だった。  油断した。スキー宿なんだから、ボードゲームくらい置いてあって当然だった。すっかり、頭から抜け落ちていた。 「どしたの、いっちゃん」  うしろからコータに声をかけられ、自分が不自然なくらい立ちつくしていたことに思い至る。 「……マジかよ」 「え?」  星のおじさんとコータの従兄弟は真剣そのもので、俺やコータには気づいていないようだった。  振り返らずに大股でロビーを横切り、割り当てられた部屋へと戻った。コータと同室である以上、もちろん後から部屋へ入ってくる。 「大丈夫? ひどい顔してる」 「なんでもない」 「なんでもないって顔じゃないろ。どうしたんだよ、急に」  純粋な善意から、俺のことを心配してくれているのはわかってる。でも、それすら鬱陶しくて。 「もう、見たくないんだよ。まっぴらだ」  自分で思っていたより、強い口調になっていた。コータは悪くない。悪いのは俺一人。臆病で、プライドばかり高くて、軟弱で、心の狭いクズ。 「あのさ。もしかして、いっちゃんって将棋やってた人?」 「とっくにやめた。プロになり損ねたからな」  あの日から、一度も触っていない。駒にも、将棋盤にも。家ではテレビも見なかった。新聞も読まなかった。なにかのタイミングでうっかり、あの世界の情報が入ってくるのが怖かった。  手の届かない憧れの人が、歴史的な記録を達成したというニュース。  しのぎを削りあったライバルが、プロデビューの後に、破竹の勢いで昇段していくニュース。なにもかも、自分には縁のなかった栄光。  名や功をあげるのが難しい、厳しい世界だなんて、もちろん覚悟してたさ。他人にとやかく言われるまでもない。 「そっか。いろいろあったんだね」 「何年経ったって、古傷が癒えるわけじゃねえんだよ」  知られたくない。頼むから放っておいてほしい。話しかけられるのも嫌だった。  終わった人。負けた人。いつのまにか、奨励会からいなくなっていた子。そう言われるのが辛くて、目を閉じて、耳を塞いだ。  他人の不幸は蜜の味。将棋のプロになろうとしてなれなかった、失敗した人。  真実に即したレッテルは、他人には興味深い物語になる。無責任な大衆の、貪欲な好奇心を満足させる物語。 「才能? 努力? 知らねえよ。俺にはどっちもねえ。クソでカスだからな」  他人は残酷だ。ほとんどの人が気遣ってくれても、一割の奴らは無神経。悪気がないから最悪だ。  どうして、プロにならなかったの?  奨励会ってところにいて、プロになれない人なんているの?  テレビによく映ってる最年少の名人って会ったことある? サインとか持ってる?  名人の真似をすれば、勝てるんじゃないの?  おまえら、それ、自分が聞かれたらどんな気持ちになるか、考えたことあるか?  惨めで情けなくてしかたないのに、薄ら笑いでごまかすしかない俺の気持ちなんて、一生、想像できないだろう。  ちがう。そうじゃない。  自分で自分に見切りをつけてしまうのが、やるせなかった。人より秀でた才能なんかない。この程度。上には上がいる。  客観的な立ち位置を自覚してしまえば、がむしゃらな情熱は失われていった。圧倒的な差を、努力で埋めようとは考えられなかった。  結局、負けは負けだ。  踏ん張るべき時にプレッシャーにつぶされて、尻尾まいて逃げだした、みっともない負け犬。  あんなに好きだった。寝ても覚めても夢中だった。  熱中しすぎて、辛くなった。見るのも、触るのも、なにもかも嫌になった。  好きすぎて、のめりこみすぎて嫌いになる気持ちが、どれだけの人にわかるものか。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!