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その日、宿は比較的空いていて、午後のコータと俺はいそいそとスキーに向かった。
巷で流れる恋の歌を聞きながら、ボーゲンを意識して慎重に滑った。初日の悲惨な状態からは、我ながら驚くべき上達を遂げていた。
「なんだよ、いっちゃん。スポーツしないとか言ってたくせに、運動神経悪くないじゃん」
「見たか。驚異の成長率。ここにいる間に、てっぺんの上級者用リフトにも乗ってやるぜ」
「調子に乗んなよ。コツをつかんだ初心者ってのが一番危ねーんだよ」
コータに指摘されるまでもなく、宿に戻る途中で三回転んだ。そのうち二回は他のスキー客にぶつかり、平身低頭で謝るはめに陥った。
ウェアについた雪を払い、スキー板を乾かしてロビーへ向かうと、見覚えのある後ろ姿があった。星のおじさんの向かいには、小学生の三男坊。
空気の流れが変わるのがわかった。あ、と思っても遅い。逃げるのも間に合わない。
パチン、と耳に慣れたあの音が響く。二人は将棋盤を挟んで向かい合わせに座り、対局の真っ最中だった。
油断した。スキー宿なんだから、ボードゲームくらい置いてあって当然だった。すっかり、頭から抜け落ちていた。
「どしたの、いっちゃん」
うしろからコータに声をかけられ、自分が不自然なくらい立ちつくしていたことに思い至る。
「……マジかよ」
「え?」
星のおじさんとコータの従兄弟は真剣そのもので、俺やコータには気づいていないようだった。
振り返らずに大股でロビーを横切り、割り当てられた部屋へと戻った。コータと同室である以上、もちろん後から部屋へ入ってくる。
「大丈夫? ひどい顔してる」
「なんでもない」
「なんでもないって顔じゃないろ。どうしたんだよ、急に」
純粋な善意から、俺のことを心配してくれているのはわかってる。でも、それすら鬱陶しくて。
「もう、見たくないんだよ。まっぴらだ」
自分で思っていたより、強い口調になっていた。コータは悪くない。悪いのは俺一人。臆病で、プライドばかり高くて、軟弱で、心の狭いクズ。
「あのさ。もしかして、いっちゃんって将棋やってた人?」
「とっくにやめた。プロになり損ねたからな」
あの日から、一度も触っていない。駒にも、将棋盤にも。家ではテレビも見なかった。新聞も読まなかった。なにかのタイミングでうっかり、あの世界の情報が入ってくるのが怖かった。
手の届かない憧れの人が、歴史的な記録を達成したというニュース。
しのぎを削りあったライバルが、プロデビューの後に、破竹の勢いで昇段していくニュース。なにもかも、自分には縁のなかった栄光。
名や功をあげるのが難しい、厳しい世界だなんて、もちろん覚悟してたさ。他人にとやかく言われるまでもない。
「そっか。いろいろあったんだね」
「何年経ったって、古傷が癒えるわけじゃねえんだよ」
知られたくない。頼むから放っておいてほしい。話しかけられるのも嫌だった。
終わった人。負けた人。いつのまにか、奨励会からいなくなっていた子。そう言われるのが辛くて、目を閉じて、耳を塞いだ。
他人の不幸は蜜の味。将棋のプロになろうとしてなれなかった、失敗した人。
真実に即したレッテルは、他人には興味深い物語になる。無責任な大衆の、貪欲な好奇心を満足させる物語。
「才能? 努力? 知らねえよ。俺にはどっちもねえ。クソでカスだからな」
他人は残酷だ。ほとんどの人が気遣ってくれても、一割の奴らは無神経。悪気がないから最悪だ。
どうして、プロにならなかったの?
奨励会ってところにいて、プロになれない人なんているの?
テレビによく映ってる最年少の名人って会ったことある? サインとか持ってる?
名人の真似をすれば、勝てるんじゃないの?
おまえら、それ、自分が聞かれたらどんな気持ちになるか、考えたことあるか?
惨めで情けなくてしかたないのに、薄ら笑いでごまかすしかない俺の気持ちなんて、一生、想像できないだろう。
ちがう。そうじゃない。
自分で自分に見切りをつけてしまうのが、やるせなかった。人より秀でた才能なんかない。この程度。上には上がいる。
客観的な立ち位置を自覚してしまえば、がむしゃらな情熱は失われていった。圧倒的な差を、努力で埋めようとは考えられなかった。
結局、負けは負けだ。
踏ん張るべき時にプレッシャーにつぶされて、尻尾まいて逃げだした、みっともない負け犬。
あんなに好きだった。寝ても覚めても夢中だった。
熱中しすぎて、辛くなった。見るのも、触るのも、なにもかも嫌になった。
好きすぎて、のめりこみすぎて嫌いになる気持ちが、どれだけの人にわかるものか。
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