32.【晴/全国大会2/3】

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32.【晴/全国大会2/3】

 だけどそう言いながら頭を撫でて来たんだぞ。ホント子ども扱い。それでドキドキしちゃう俺はマジで馬鹿。  はあ。もう溜め息しか出ない……。誘発されて発情期に入っちゃったらどうしよう。 「あー! もう。ごめんね。部屋でゆっくりしてたのに」 「大丈夫だ」  ホテルは街中にあるので、出ればすぐにコンビニがある。人通りも多いし、危険なんてまったくなさそうだ。むしろこれ以上景久君と一緒に居る方が危険だ。 「すぐそこだし俺ひとりで――」  行ってくる、と指さした腕を掴まれた。 「行こう」 「……ハイ」  あくまでも単独行動は許さない構えの景久君です。  有難いけれど本当に困るよこの過保護。高鳴る心臓を抑えようと深呼吸をしたりして。そして連行されるようにコンビニに入ると、物色するふりで距離を取る。 「景久君も何か食べる? 迷惑かけてるし、おごるね」 「お前が買うやつと一緒のでいい」 「えー。俺このでっかいプリン買うけど?」  景久君の手のひらくらいありそうな大きなプリンに、生クリームがごっぽり積載されたやつ。つよそう。  俺が指さしたそれを見た景久君はうっと言葉に詰まり、すっと目を逸らした。 「……隣の小さいのにしてくれ」 「了解」  飲み物はお茶やスポドリ系も仕入れて会計を終えた。  景久君はコンビニの外で待っている。自動扉をくぐろうとして、すれ違いざまに男の人とぶつかった。 「すみませ……」  よろけながら頭を下げて。そしたら出入り口の段で足を滑らせて。 「わ」  段っていっても十センチもないようなものなので、そのまま滑ったってきっと無傷だ。なのに景久君は俺を抱き留めてくれて。 「足大丈夫か?」 「だ、大丈夫……!」  大丈夫だけど、大丈夫じゃない……!  夏の夜のじっとりとした夜風がさえぎられる替わりに、もっと高い熱源に包まれる。たった二枚の布ごしに感じる体温に、俺はどくりと心臓を跳ねさせた。身近で彼の肌の匂い――汗や服に染みた柔軟剤の香りまで感じて、ぐらりと視界が揺れた。景久君の硬くて広い胸に押しつける形になった頬が、燃えさかるように火照ったのが自分でも分かる。  だめだ もうこれ きっと 発情しちゃった  ――明日が一番大切な日なのに。  そう思うと、張り詰めていたものがぱきぃんと割れた。 「……ぅ」 「晴……?」  俺は涙をぼろぼろこぼしながら、景久君の胸を拳で叩いた。コンビニの袋がどさっと落ちるのも構わずに自分の胸元に手を伸ばし、ピルケースを握りしめる。 「晴ッ」  俺の様子がおかしいと気付いた景久君が抱きかかえるようにして俺を移動させる。店の出入り口の真ん前から、端の方へ。そこで降ろして、俺がピルケースを開けて抑制剤を飲み込むのを凝視している。  飲み込んだ俺がしゃがみ込むと、がさっと音がして、それから肩に手を添えられた。 「帰ろう。ここで効くのを待つのは危ない」  景久君は冷静だ。発情期に入ってすぐなので、彼を惑わす程に濃いフェロモンが出ていないのだろう。即座に強い抑制剤を飲んだから、周囲に影響を及ぼすことはないと思われる。 「さわんないで」  でも怖いから、完全に効くまでは景久君に触られたくない。  俺は肩に添えられた手を払い、更に深く硬くうずくまった。 「晴……」 「さわんないであっちいって」  嘘。嘘だ。本当は触って欲しい。滅茶苦茶に抱きしめて欲しい。恋しい。――でもそんなの望んで良いことじゃなくて。そして俺が目の前で発情したって全然平気な景久君が悲しくて口惜しくて……俺じゃ全然駄目なんだって言われているみたいで切なくて。  だったら何でそんなに構うんだ。友達にしては過剰すぎる過保護っぷりが理解出来なくて、やるせなさと理不尽さに涙がぼろぼろ溢れて止まらなかった。 「景久君のせいじゃん発情。ばか、ばかぁ……」  八つ当たりだって分かっているけれど気持ちの持って行き場がなくて、ぐずぐず泣きながら景久君をののしる。  でも景久君は俺が怪我をしないように助けてくれただけだし、そもそも事前に彼の何の説明もしていなかった俺が悪い。こうなる可能性があったのだから――だけど……だけどそんな事、どんな顔して言えば良かったんだよ。「君の事が好きだから、君に触られると発情フェロモンが過剰に出ちゃうんだ」なんて、友達になろうなんて大口叩いた相手から言われるの気持ち悪いよね……? そしたらもう、友達でだって居られないよね……?  景久君は電話を掛けているらしく、ぼそぼそと声が聞こえていた。 「――はい。じゃ、今すぐ行きます」  妙にその返事がはっきりと聞こえた――次の瞬間、ぐわっと俺の身体が持ち上がった。 「ひゃ……⁉」  驚きに涙も吹き飛んだ。 「先生に連絡した。今エレベーターを押さえてもらっている。駆け込むぞ」  俺を抱き上げた彼はそう言うや否や駆けだして、ほんの五十メートル程の距離を一瞬で駆けきり、ホテルのロビーに飛び込んだ。 「榊……!」  ロビー奥のエレベーター一台を先生が押さえて停めていて、ホテルの人がもう一台の方に他のお客さんを誘導してた。  景久君はすぐさまエレベーターに飛び込み、先生がすかさず扉を閉めて上昇させる。俺はあまりに予想外の出来事に、景久君に抱き上げられたまま固まっていた。 「大丈夫か?」 「すごく良い匂いはしていますけど、すぐに抑制剤を飲んでいたので」 「お前は?」 「実はとても耐えています」  チン、と音が鳴ってエレベーターが止まり、足早に廊下を進む景久君。 「晴、鍵」  そう言って、彼は俺をストンと部屋の扉の前に降ろした。 「お願いします」  そして先生にそう言い置き、先程の比じゃない勢いで廊下を歩き去って行く。 「仁科、部屋を開けなさい」  その背をぼんやりと見送っている俺に先生が声を掛けて来たので、それで我に返って慌ててポケットを探る。  ……景久君がいなくなってなんかすうすうする……。ついさっきまで抱っこされてすごい密着率だったんだから、そりゃ冷やっこい感じもするさ、と淋しさを誤魔化して、俺は部屋を開けた。 「落ち着くまで横になっていなさい」  大人しくベッドに入った俺に先生が布団を掛けてくる。そして空調をいじり、循環を最強にしていた。 「プリン……」  そう言えば買い物はどうなったろう。店の前に落ちたままだろうか。 「ぐちゃぐちゃになってるな」  ところが先生はそう言って、俺にプリンを見せてきた。……景久君、ちゃんと拾ってくれたんだ。  転げたプリンは形が崩れて上に乗った生クリームも流れていたけれど、俺は嬉しかった。  先生はコンビニの袋から取り出した二つのプリンをサイドテーブルに並べてくれて、飲み物は冷蔵庫に仕舞ってくれた。  小さなプリンと大きなプリンを眺めているうちに身体の昂ぶりも気持ちも落ち着いてきたので、俺は携帯とプロテクターをリンクさせてみた。  ステータスは『発情期』にランプが付いているが、フェロモン数値は正常値に収まっている。 「効いたか?」 「はい」 「気分はどうだ?」  俺はベッドから身を起こしてみた。 「特に目眩やふらつき、吐き気もありません」 「そうか。明日の朝もその状態なら、大会に出られるだろう。安静に過ごすように」  ちゃんと鍵掛けろよ、と言って先生は出て行った。  言われた通り鍵を掛け、俺はベッドに戻って座り込む。  新たに処方してもらった抑制剤は期待以上の効果だった。いつもならわずかに残る発情期特有の熱っぽさや欲望も全く感じられない。もしもこのまま何の不調も起こらないなら、明日はきちんと大会に出て戦えるだろう。  そう思うと気分も落ち着き、あれこれ考えるゆとりも出てきた。  そうすると目が行くのは、サイドテーブルに並べた大小のプリンである。  ――多分二人で食べるつもりで買ったプリン……。  どうしよう。  そもそも同行してもらったお礼として買ったものである。その上不慮の発情で迷惑も掛けたから謝らなきゃいけないし、結果的には彼に安全な場所まで運ばれて助けられた。  そうした諸々のお詫びとしては、小さなプリンだけれど。どうしよう。今から届ける? それとも明日の朝にする?  躊躇いながら携帯を手に取ると、ちょうどメッセージが届いた。  景久君からだった。 「晴……」  鳴らされたチャイムに部屋のドアを開けると、景久君がほっとした顔をして立っていた。 「ご迷惑をお掛けしまして」  頭を下げると、首を振ってくる。 「もう大丈夫か?」 「うん。ありがとう――プリン渡すから、ちょっとだけここで待ってて」  流石に発情期のオメガがアルファを部屋に入れるのは問題があるだろうってことで。だからってホテルの廊下で立ち話って訳にもいかず、部屋を一歩入った所に待機してもらってプリンを取って戻ってくる。 「ちょっと崩れちゃったけど……。落としてごめんね。拾ってくれてありがとう」  プリンにスポドリも付けてコンビニの袋に入れ、景久君に差し出す。  彼はそれを受け取ろうとしなかった。 「――お前、俺のせいで発情したって呻いてたな」  単なる八つ当たりだろ、って流してくれないところが、景久君らしい生真面目さだ。 「本当にごめんね、八つ当たりして。気にしないで」  まだプリンを受け取ってくれない。 「……少し調べた。アルファが原因で、オメガの発情期が前後するのかどうか」  それどころか彼は、驚くべき事を俺に告げた。  プリンがもう一度、俺の手から滑り落ちていく。 「――な、なんでそんなの……」 「お前はでたらめな八つ当たりなんかする性格じゃない。ああやって口にする以上、本当だと思ったからだ」 「……」  景久君に信頼されている事を喜べば良いのか嘆けば良いのか。  景久君だってこうして話題に出してくるということは、彼なりの答えを見つけているのだろう。 「俺が抱き留めたから発情期が早まったんだな? 本当に済まな――」 「謝んないでよ!」  景久君の言葉を遮って俺はわめいた。  謝られたら、余計にみじめだ。
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