04.【景久/はじまり】

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04.【景久/はじまり】

 剣道場の息子に生まれた俺は、それまで一度も同年代の子どもに負けたことがなかった。  隣県で道場を開いている分家の親戚の伯父さんが、 「うちの道場のな、晴君って子が景久君よりも強いんだぞ。小五になるから、この夏は合宿に参加してくれるはずだ。是非戦ってみるといい」  と言うのも、話半分に聞いていた。  合宿当日。ウチの道場前に横付けされたマイクロバスから、小学生が飛び降りてくる。すでに見知った六年生の中に混じる知らない顔の中に、すごくかわいらしい女の子が居る。白いTシャツに水色のハーフパンツというラフな服装で髪も耳が隠れる程度の短さなんだけど、色が白くて髪が真っ黒で、大きな目の目尻がきゅっと切れ上がるような、猫めいた目をしていてとても可愛い。その子はきょろきょろと辺りを見渡していたが、好奇心に輝くその目は、やがてぴたりと俺に留められた。 (すごい可愛い子がこっちを見てくる)  緊張した俺は、バスから降りて歩いてくる伯父さんに助けを求めた。伯父と簡単な挨拶を交わし、 「今年は女の子もいるんですね。珍しい」  そう言ってみると、伯父は心得たように笑った。 「ああ……、あの子は女の子じゃないよ」  そしてあの可愛い女の子を手招いたのである。 「おいで、晴君」  晴〝君〟と、そう呼ばれて、その子は伯父に駆け寄った。伯父が彼女の肩に手を置いて、俺の前に押し出してくる。  いや、待てよ。〝晴〟って、伯父が俺より強いって断言した奴の名前じゃ――――? 「この子は仁科晴君。ほら、話しただろう? 景久君よりも強い子が居るって――晴君、こっちが榊景久。晴君にも話したことがあったよね」  いやいや、嘘だろ嘘だろ。この子が女の子じゃない上に、俺より強いとか嘘だろ……⁉ かわいいのはともかく、背だってかなり違うし、すごい細いし。同学年にすら見えないのに俺より強いとか、あるのか……⁉ 「晴だよ。よろしくね! 景久君と戦うの、楽しみ!」  けれど仁科晴の方は何も感じる所がないのか、満面の笑みを向けてきた。喋り方も声もあどけなくて幼い。向けて来た笑顔も、それに見合った光り輝くような笑みだ。 (滅茶苦茶かわいい……!)  いやいやいや……! ホントに男なの? マジで? この笑顔で男なの……⁉  俺は目眩すら感じて、仁科晴に碌な挨拶を返すことすら出来なかった。  ――で、そんなに強いならちょっと話をしてみようと思って、食事の時に隣の席に座りに行ったんだよ。  仁科晴はぱっと振り向くと、さっきみたいに笑いかけてきた。花のこぼれ落ちるような、愛嬌のある笑みだ。なんなんだこいつ。男の癖にかわいいとしか言いようのない顔してんのがなんか恐ろしい。  それに、その姿形や立ち居振る舞いには強さの欠片も見えない。なので思わず失礼な事を言ってしまった。 「――お前、本当に強いのか?」  だって伯父は、こいつは俺より強いって言い切ったんだ。 「え? 剣道?」  晴はかわいい顔のまま馬鹿みたいに首を傾げている。するとその横合いから口を挟む奴がいた。 「晴は強いよ。中学生にだって勝てるもの」  そいつもやたらと可愛い顔をしている。晴よりは男っぽいけど、女の子と言っても通じそうな中性的な感じがする。なんだっけな、確か竹井翔也って言ったか?  俺はその翔也の口から、仁科晴の親族がやたら強いらしいことを知った。――ふうん? 剣道エリートって感じの家系なのか? でもそれだったら、剣道の師範やってるうちの一族だって強いはずだし。 「へえ。じゃあ、楽しみにしてる」  仁科晴本人はなんかにこにこほやほやして良く分かんない雰囲気だし。実際に戦ってみないと何とも言えないな。  ところが晴はそれを聞いて、何故か凄く嬉しそうに笑った。 「うん! 楽しみだねっ」  ……なんでそんなに喜ぶんだよ……変な奴。  ――戦った結果は、俺の惨敗だった。  伯父の言う通り。晴はものすごく強かった。俺は惨めなくらいにスコーンと負けた。背が高いとか腕力が強いとか、関係なかった。  仁科晴は、とにかく速かった。  結果が信じられなくて何度も挑んだけど、結局一回も勝てないどころか、一本すら奪うことが出来なかった。あんなに判断から挙動の速い奴、初めて見た。  俺は負け知らずだっただけにかなりショックを受けた。そしてそれと同じくらいに、恥ずかしかった。『お前強いのか』などと偉そうに訊いておいて、この体たらくである。あれだけ楽しみにしていたのだ、さぞかし晴は俺に失望したろう。軽蔑すらされたんじゃないか――そんな風に思えて、晴の顔をまともに見ることも出来なかった。  俺はどうにか挽回したいと合宿の間じゅう晴に挑み続けたが、とうとう一度も勝てないままに終わった。  そしてその一年後。  速さを念頭に稽古を積んだ俺は、今年こそ晴から一本を奪ってやると意気込んでいた。  だのに――晴はわざと俺に負けたのである。  最初に小手を取った時は、迎えに来るような動きはたまたまだったのだろうと思った。けれどその次の面は、あれは当たるはずのないものだった。  それは見ていた伯父達にも分かったのだろう。みんなが愕然と晴を見つめている。俺も訳が分からなくて、上げたままの竹刀を戻すことも忘れていた。  ところが晴は、ぺこりと礼をして下がろうとするじゃないか。つまりそれは、お前自身はこれでいいってことなのかよ――⁉  そう思った瞬間、俺は頭にかっと血を昇らせて、晴を突き倒していた。 「ふざけんなお前――ッ! わざと負けるとか一体どうして……!」  こんな時にだけ体格の差が効いたのか、晴は簡単に尻餅を付く。その胴に馬乗りになり、俺は奴の面を殴りつけようとした。  許せなかった。  なんでわざと負けたんだ? 一度も勝てない俺を可哀想に思ったのか?  殴る前に伯父に止められ、仕切り直してもう一度互角稽古を行った。今度は流石に晴も手を抜かなかったらしい。去年以上の速さを見せて、晴は俺から立て続けに二本奪っていった。挙動も足さばきも、これぞまさに電光石火という速度だった。  ――これほどの実力を持ちながら、それを誤魔化そうとした晴が信じられない。 「お前なんか大っ嫌いだ」  ああ本当に、お前なんか大っ嫌いだ。  そして、そのお前に哀れまれた弱っちい俺自身が、お前よりも嫌いだ。  晴と俺の住んでいる県は隣同士で、市も実は隣同士。幹線道路を使えば三十分も掛からずに行き来出来る近さだ。  そんな近さにも関わらず俺と晴には縁が無い。なので再会は、俺自身が全国に出場出来た中学二年生の時になった。晴は中一の団体戦で全国デビューしていたんだけど。俺は舟木の伯父の伝手で入手したその動画を眺めては、稽古に明け暮れていた。  晴の速さが忘れられない。  何処まで稽古を積めば、晴よりも強くなれるのか。  剣道と晴の事しか考えないような日々を送るも、俺は中二でも中三でも晴に敗れた。本当に、一つの有効打突――一本――も奪えない。だが諦めようとは全く思わなかった。何処までも追い続けて、何時かは絶対に勝利してやる。 「晴……ッ。仁科晴!」  表彰式を終えて。表彰台からひらりと飛び降りた晴が、後も見ずに去って行こうとする。一段低いとはいえ隣に並んだ俺を一顧だにもしない――それが耐えがたかった。 「……何」  俺を振り向いた晴が漏らした声は、思いがけず低い。小学生の頃のあの高く明るい声とは違う――そりゃそうか、こいつだって男なんだから声変わりもあるんだろうし。何より俺と晴が言葉を交わすのは、小六の合宿以後初めてなのだ。 「あのさ、お前――」  言いかけて俺は、晴が笑っていないのに気付いてぎくりとした。昔はいつだって笑みを浮かべてにこにこしていたのに、今は無表情のまま突っ立っている。  表情の抜け落ちた顔を見て俺は、仁科晴は美しいのだと気付いた。昔は幼いかわいらしさばかりが目立っていたし、対戦する時は眼にしか注意を払っていなかったからだ。  晴は美しく相変わらず少女めいているものの、今はきちんと少年に見えた。丸いばかりだった頬が硬さを増し、通った鼻筋や額の輪郭がやはり女とは違う。昔とは違いぎゅっと引き結んだ唇が、頑固そうにも思えた。上目遣いに俺を見つめる瞳は、黒いくせに澄明に晴れ渡っていた。 「お前、高校でも剣道するんだよな? 次も絶対に全国に来いよ。そしたら今度こそ、俺が勝つ!」  晴に見入りそうになって、慌てて言いたかったことを言い切る。 「高校でも剣道はする予定だけど――」  晴はそこまで言うと、俺の方へと駆けて来た。体温を感じるほど近くまで寄られてぎょっとしたものの、唇の脇に手を当てる様子に、耳を求められているのだと気付く。やむなく身体を倒すと、吹き込まれた囁きは予想だにしないものだった。 「でもごめん。俺オメガだからさ、アルファっぽい景久君とは、多分もう戦えないよ」  ――オメガ……?  あまりの驚愕に、俺はその時その言葉の意味を掴み損ねた。  その隙に晴は一歩下がると、はにかむように小さく笑った。 「ばいばい景久君。対戦、楽しかったよ。今までありがとうね!」  そして天真爛漫な仕草で手を振り、にこっと笑ったのだ。昔出会った時に見せていたような、花が咲きこぼれるような満面の笑みだった。  中学二年生の秋に行われる『第二性種診断検査』にて、俺はアルファの診断を得ていた。アルファの多い親族の中、自身もアルファであったことにほっとはしたけれど、特別なこととして意識したことはなかった。  その性種のせいで壊れる関係があるだなんて、想像もしていなかった――例えば、俺と晴。俺が勝手にライバルと目して追い続けている、あの小さな背中。その小ささがまさか、オメガ故だったなんて気づきもしなかった。俺より強いのだから晴はアルファなのだろうと、当然のように信じ込んでいたのだ。  第一性の成長がほぼ完了するのを追うように、第二性の成熟がはじまる。つまり十五歳以降にオメガは発情期を迎えはじめ、アルファはよりアルファらしい強固な肉体へと変化を遂げていく。  アルファ・ベータ・オメガの三性種の中で、アルファの身体能力は群を抜く。  それ故に高校以後は、個人競技は〝アルファのみ〟と、〝ベータとオメガ混合〟に分けて競う事になる。団体競技ならば、アルファは何名までと定められた上で、アルファベータオメガを混合させる。剣道で言えば、団体五人の中に含んで良いアルファの数は一名だ――脱線したが要するに、アルファな俺とオメガな晴は、高校の個人戦で戦うことは出来ない。ということになる。 『ばいばい景久君。対戦、楽しかったよ。今までありがとうね!』  つまり晴のあの〝ばいばい〟は、本当に別れの挨拶だったんだろう。もう二度と戦えないから。  ――いやいや、待てよ待てよ。ここまで勝ち続けといて挙げ句の果てに性種が違うので戦えなくなりました、ってなんだよそれ。せめて一回くらい勝たせろよ。一本だけでも取らせろよ。  晴が悪い訳ではないけれど――あまりの理不尽さにふつふつと怒りを滾らせながら帰宅した俺は、親父に会うなり開口一番、 「舟木の伯父の所から高校通うから! 高野台高校に行くことにしたから頼むわ!」  と叫んだ。
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