43.【晴/体育祭2/2】

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43.【晴/体育祭2/2】

 午前中もそうだったが午後からも俺は、体育祭実行委員の仕事であちこち移動しまくっていた。正直クラスの観覧席にいる暇なんて殆どない。  そんな中、もよおしてしまったので、単独校舎を目指す。  オメガ用のトイレは数が少なく、各校舎にひとつしかないのだ。グラウンドに至ってはひとつもない。なので俺は最寄りの校舎の通用口から入り込み、来客用のスリッパを借りてトイレを済ませたのだが――。  戻ってみれば、脱いだはずのランニングシューズが消えていた。  一瞬状況が把握出来なかったが、何度見返してもランニングシューズは消えたままだし、ぱっと飛び出て来もしない。辺りを見渡したが、誰かが間違えて履いて出たような様子もない。  俺は戸惑いつつスリッパで校内を移動して、自分の昇降口へ向かった。  だが当然、消えたランニングシューズが勝手に俺の下駄箱に収まっているはずがない。その上、上履きはおろか、通学用の黒のスニーカーまで消えていたのである。  俺はカラになっている自分の下駄箱を眺めて途方に暮れた。訳が分からなかった。  しかし呆けていても仕方がない。実行委員の仕事はまだあるし、クラス対抗リレーではアンカーを任されているのだから。  俺はスリッパをペタペタ言わせながら職員室を訪れ、待機中の先生に理由を話した。先生は眉をひそめながらも状況を聞き取りメモを残すと、忘れ物の中から靴を出してくれた。ひとのなんて気持ち悪いけれど、そんな事を言っていられる状況じゃあない――けれどサイズがなくて。仕方なく俺は、先生に許可を得てスリッパのまま外へ出た。  胸がドキドキした。  先生の態度、気遣う視線から、これは〝嫌がらせ〟なのだと否応なく悟る。  一体誰が、校舎に向かう俺の後をわざわざ付けて靴を隠したんだろう。トイレに行くタイミングなんてイレギュラーなのに、その機会の為にずっと付け続けていたんだろうか。  そう思うと気持ちが悪くて。  そして今もきっと、嫌がらせに気付いた俺がどんな反応を見せるのかと、ひっそり様子をうかがっているんだろう――その想像に身の毛がよだつような薄気味の悪さを感じた。非常にゾッとする話である。  スリッパ履きのまま実行委員の仕事を片付けたのだが、 グラウンドをスリッパで歩くのは滑るし、気分も悪い。機動力も半減どころか幼児並だ。周囲からは好奇心に満ちた目で眺められて、泣きたいような情けなさを味わった。  トボトボと観覧席に戻ると、 「晴おかえり! お疲れ様」  翔也が笑顔で迎えてくれたが、景久君がいない。 「ありがと。景久君は?」 「さあ。さっきから見てないよ。……晴どうしたの? なんか顔色悪くない?」  ……景久君どこ行ったんだろう。 「う、うん……」  翔也の隣に腰を降ろすと、俺は自分の身に起こっている事を説明した。 「……えええ……」  翔也は俺の履いたスリッパを見て、顔を強張らせた。  来客用と書かれた茶色いスリッパには細かな土埃が付着し、スリッパの中に砂が入り込んで靴下も汚れている。白かったはずの靴下が斑な泥汚れに染まっているのは、ひどくみじめだった。 「なんでそんな嫌がらせを」 「わかんない……」  こんな目に遭ったのは初めてだ。とにかくショックで訳が分からなくて、俺は力なく首を振る。そうしているうちに再び心細さが蘇って来て、俺は思わず翔也に身を寄せた。  ――景久君どこ行ったんだろう……。  翔也はあやすように俺を背や肩をさすってくれるが、……ごめんやっぱもう翔也じゃないんだよな。きっとそれは翔也にしても同じなんだろうけど……。でも翔也の優しさは心に沁みるので、そのままくっついたままでいた。  そしたらそこへ式部さんが戻ってきた。 「やれやれ。やっとクラス対抗リレーね。今の所うちのクラスがトップだから、このまま守り抜くわよ! ――ってあれ、松山は?」 「トイレ行くってふらっと出たっきり」  翔也は不安そうに式部さんを見上げた。  松山も居なかったんだ。……景久君も居ないし、どこ行ってるんだろう。 「え、そうなの。……晴君はどうしたの? 具合悪い?」  俺はふるふると首を振る。 「あのね、」  式部さんに、俺に起こった嫌がらせを伝えたのは翔也だった。  立っている式部さんに話しているので、周囲のクラスメートにも丸聞こえになる。式部さんは最初きょとんとしていたが、話を聞くうちに段々と表情を険しくさせていった。それは、クラスメート達も同様である。 「とにかくどうしよう。スリッパじゃリレー走れないよ……」  汚れたスリッパを置き去りにして、椅子の上で膝を抱える。 「その時だけ俺の靴はいて行きなよ。履き癖違うから走りにくいだろうけど、スリッパよりましだもん」  身長がほとんど同じな翔也と俺は、靴のサイズも一緒だ。 「じゃあそうさせてもらうけど……靴下汚れてるからさぁ。翔也ごめんねぇ……」 「そんなの気にしないでいいから」  身を寄せ合っている俺たちを厳しい眼差しで見守っていた式部さんは、やがて重苦しく口を開いた。 「――それってもしかして、リレーメンバーをターゲットにしてる?」 「え」 「……だって、晴君。今日二人三脚ですごい速いのばれちゃったし。景久と松山がアルファなのは見たとおりで、だけどどっちがリレーに出るかなんて外部には分からないじゃない?」  俺はふらっと立ち上がった。 「景久君探す……」  こんなに戻ってこないのは、彼も何かされたからなのだろうか。 「俺もマツ探す」  翔也も立ち上がった。 「だけど晴、単独行動は危なそうだから、一緒に探そう」 「そうね。みんなも手分けして、誰かとペアで探してみてくれる?」  残念ながら体育の授業中の常として、携帯は貴重品袋に入れて職員室に保管されている。向こうからもこちらからも連絡の取りようがないのだ。 「わかった」 「探してみよ」  みんなが口々にそう言って立ち上がる中――。 「あれ? みんなどっか行くの? どした?」  脳天気な声が響く。 「マツ……」 「翔也?」  どう見たって無事な姿の松山だ。いつも通りの笑顔を浮かべて、のほほんと翔也を見返している。そしてその後ろには、ビニール袋と水筒を下げた景久君の姿も見えた。松山は普通だが、景久君は何故か息を切らしている。二人で一緒に戻ってきたというよりは、同時にたどり着いたという雰囲気だ。 「景久君!」  無事だった。良かった……! 「ちょ、ちょっとあんたたち二人! 今まで何やってたのよ⁉」  皆の疑問を代弁してくれたのは例によって式部さんである。 「え、俺はなんかさー。トイレで、なんかよろけて個室につっこんで便器で頭打った奴を目撃しちゃったんで、保健室に送り届けて来たんだよー」 「はあ⁉ 景久は?」 「……食堂にお茶を補給しに行く途中に足を引っかけられてな……」 「え」 「いやまあ、それは全然たいしたことなかったんだ。俺はこけなかったし。ただ……、その拍子にこの水筒をな、」  と景久君は水筒をぶらつかせる。たぶんその時もそうやって、紐だけを持って水筒本体はぶらつかせていたんだろう。大容量で保冷力抜群の、今時流行のステンレス製である。つまりごつくて硬い。 「そいつの臑に強打させてしまって……――晴、ほら、これ」  景久君は腕に下げていたビニール袋を俺に差し出してくる。  中を覗いて驚いた。 「……俺の靴だ!」  上履き、ランニングシューズ、通学用のスニーカー。三足ちゃんと揃ってる! 「足を引っかけて来たのがわざとだったのは明白なんで、色々と聞き出しているうちに吐いた。本部で先生に報告してそいつを突き出し、靴を回収して来た。……格技場の前に放置されていたよ」  あ。それで走って来てくれんだ……!  感激とか感謝とか諸々が重なって言葉に出来なくて、俺はスリッパのままよろめき歩くと景久君に抱きついた。 「……吃驚したんだろ――怖かったな」  優しい声でなぐさめて、俺の頭を撫でてくれる景久君。  ほっとして癒やされる。  俺は景久君の体操服をまさぐって握りしめつつ、更にぎゅっと抱きついた。じんわりと混ざり合う体温に、強張っていた心がほぐれていくような心地がする。  ――いっつも景久君には人前で手を繋いじゃ駄目だとか叱るのにさ。いざ自分になんかあったらこんな体たらくで、本当にごめん。 「……靴を置きがてら歩いて来たらどお?」  そんな俺を見かねてか、式部さんがそんな提案をしてくれた。  優しい声にこくりと頷くと、俺の持ったビニール袋から景久君がランニングシューズを出してくれる。彼の手を支えに靴を履き替えると、景久君はスリッパを取り上げてぱんぱんとはたき、袋へとしまった。 「じゃ、行ってくる」  そのまま景久君に手を引かれて校舎の方へと歩き出す。 「あ、景久。そいつクラスどこだった?」 「3-Cだ。二人三脚の黒バトンのクラス」 「あー、……あたしを煽ってきたあのクラスだわ」 「え、俺が保健室に運んだ先輩もそこなんだけど……?」  背後の声はどんどん遠くなっていく。俺は景久君の手をぎゅっと握り、黙々と歩いた。  他のクラスの観覧席の背後を通り、グラウンドから校舎へと続く階段にさしかかる。ここまで来ると、近くには誰もいない。 「――靴戻して平気かな。また隠されない……?」 「俺の足を引っかけた奴は先生に突き出したから、晴の靴を隠した奴も今頃呼び出されているんじゃないかな」 「そっかぁ。……じゃあ戻す」  俺たちはゆっくりと階段を登りはじめた。 「晴が無事で良かった。一人でトイレに行った所を狙われたんだろ? ……そこで何かされなくて、本当に良かった」  景久君が溜め息のように密やかに、細く囁く。  暴力や性被害かな。……そうだね、そういう恐れもあったよね。あの時は吃驚して思い当たらなかったけど、そこに思い当たってたら怯えたろうなあ。  でもそれでなくとも、普段ぼやんと生きてる俺にとっては、初めての恐怖体験だったかもしれん。 「なんでこんなことされたんだろ……」 「聞き出したところによると、リレーの妨害が目的だそうだ。だから、あまり気にするなよ。お前個人に悪意があったんじゃない」 「……うん」  リレーかぁ。   スリッパでは走れないし、翔也の靴を借りて出たとしても、やっぱ精神的にきてて調子を出せなかったかもしれない。そう考えると、景久君がすっきり解決してくれたこの状況は、本当にありがたい。 「――景久君に足ひっかけて転かそうとするなんて、馬鹿だよね。腰で剣道してる剣道部員舐めんなよ」  剣道部だって、他の運動部に負けないくらい体幹と足腰鍛えてるんだぞ。しかも全国クラスの実力者なんだぞ。  俺が眉を吊り上げて怒ると、景久君は笑った。彼もやっといつもの表情に戻りはじめていた。  さっきまではいたましさといたわりが混ざっていて、見守られているこっちも痛かったから。 「心配掛けてごめんね。それで、ありがとう」  だからやっと、お礼を言うことが出来た。 「晴が無事なら、それで」  景久君も微笑んでくれて、俺はへへっと笑うと手を握り直した。気持ちを切り替えて、いつも通りに軽く手を繋ぎたかったんだ。  昇降口にたどり着いた俺たちは、俺の下駄箱に上履きと通学用のスニーカーを戻し、土埃にまみれたスリッパはとりあえず下駄箱の上に置いておいた。体育祭が終わったら拭って返却しよう。  誰もいない昇降口。校舎も外もひっそりと静まり返り、グラウンドから喧噪が遠く響いてくるだけだ。  景久君は手を引きよせると、俺を抱きしめた。  広い胸にすっぽりと包まれて、背に腕を回してお互いの体温を感じ合う。さすがにキスまではしないけど、抱擁だけでも落ち着くし安心する。景久君の鼓動がいつもより少し早めなのは、心配かけたからかなあ。 「さ、戻ろ――そしてあの黒バトン達をまた叩きのめしてやろ」  頃合いを見て、俺は景久君の腕から抜け出した。  黒いバトンのあいつらは顔も何となく覚えてる。 「今度は黒じゃないだろうけどな」  景久君はくすっと笑った。  リレーでアンカーを務めた俺は無事にゴールテープを切り、体育祭は我が2-Bの優勝で幕を閉じた。  紅白としては負け色に属していたのがなんとも締まらないんだけれど、ともかく式部さんの溜飲は無事に下がったようだ。  その他の顛末として、俺の靴を隠したり景久君の足を引っかけたりした奴らは三日程度の停学処分を食らい、本人やその親から謝罪を受けた。  俺はそいつらの顔をしっかり脳裏に刻み込んだ。靴を隠された直後は周囲が闇雲に怖かったが、こうして顔が分かってしまえばもう怖くない。こいつらは敵なので、今後は徹底的に接触を避ける事にする。  クラスの方は慰労会をしたりして盛り上がり、みんな更に仲良くなったみたいだ。この後文化祭も修学旅行も控えているのが楽しみだなー。  でもちょっと残念なのがさ、今回俺たち勝ちすぎたから、多分来年は2-Bのアルファ三人はバラバラにされてしまうんだろうな、ということ。アルファが固まっているのが不公平だ、って、こんな事件になった訳だしさ。  ――来年も景久君と同じクラスになれたらいいのになあ。 (おわり)
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