06.【景久/フェロモン1/2】

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06.【景久/フェロモン1/2】

 越境入学が出来る範囲ではあるものの、実際に自力で通学しようとすると自宅から自転車、バス、電車、バス、徒歩を織り交ぜた二時間コースとなる為、舟木の伯父の家に下宿することにした。  伯父と言っても、年上の親戚をみんな〝伯父〟と呼ぶため、実際の続柄はかなり遠い。だが剣道を通じて、昔から親しい関係だ。伯父がその父から継いだ舟木剣道場は、昔から続く名門道場として名を馳せている。もっと昔、剣道が隆盛だった時代には、全国各地から弟子入りが相次いでいたそうだ。  その為に、舟木剣道場は下宿棟を備えている。  俺はその一室を借りて、高校生活をスタートさせることにした。  入学式当日。新しいクラスメートの中に見知った顔を見かけた――確か、入試の日に晴の肩を抱いて出て行った奴だ。斜め前の席のそいつを眺めていると、視線に聡い奴なのかすぐさま振り向いてきた。ぱっと目が合うと、ニヤッと笑いかけられる。 「サカキカゲヒサクン」  フルネームを呼びかけられてぎょっとしていると、そいつは身体ごとこちらへ向き直ってきた。 「俺、松山裕吾(まつやまゆうご)。翔也と晴からはマツとかまっつんとか呼ばれてる。よろしくなー。翔也の剣道の友達なんだって?」  翔也の。翔也君とは合宿での関わりしかないので、縁が深いのは晴の方だと思うんだが。まあだが、翔也君と知り合いなのは間違いない。越境してきた俺にとっては二人しかいない知り合いである。 「ああ、榊景久だ。宜しくな」 「へえ、こういう字なんだ。聞き慣れない名前だったから漢字が想像つかんかった」  松山は俺の手元のプリントを覗き込んで〝景久〟を指さした。 「父がマニアで、昔の剣客の名から取ったらしい」  同じ理由で妹は佐那という。 「えー、何それかっけぇね」  松山は感心したように目を瞠る。  初見の印象が何故か悪くて嫌な奴だろうと思っていたのだが、実際はそうでもなさそうだ。俺はふっと肩の力を抜いた。どうやらこの新生活、ひとりくらいは友人が出来そうである。  その翌日から高校の部活に参加することになった。  舟木剣道場で知り合った、高野台の三年生だというアルファの先輩に誘われたのだ。  竹刀と防具を持って格技場に入って、俺は呆気にとられた。 「ちょ、も――! 止めて下さいよ先輩たち――!」  仁科晴が取り囲まれてもみくちゃにされているのである。 「だって晴、俺まだお祝い言ってなかった! 全国優勝おめでとうなー!」 「さすが晴だぜ。そんでウチに入るとかやっぱ最高じゃねえか!」 「お前がオメガとかそれ見ても信じらんないけど、強ええんだからすっげえな!」  成程。道場の繋がりのない、中学の時からの先輩たちなのだろう。晴は抱きしめられて頭をがしがし撫でられたりばんばん背中を叩かれたりと散々な目に遭っている。  一瞬止めに入ろうかと思ったが、そこに声を掛けられた。 「榊」 「あ。立花先輩」  俺を誘ってくれた先輩だ。着替えて更衣室から出てきた所らしい。竹刀と防具を持っている。  アルファらしく見上げるほどの上背のある彼は、晴の惨状を呆れたように眺めながらこちらに歩いて来た。 「――良くやるよね。晴にあんなに抱きつけるなんて怖い物知らずだと思わない?」  ん? 「晴自身が強いからですか?」  よく分からないながらも返事をすると、立花先輩は呆気にとられたようだった。 「――分からないなら、榊はまだ晴に抱きつけるよ。むしろ今がチャンスだよ。抱きつきたいなら抱きついておいで?」 「え? いえ全然」  なんで俺が晴をハグする集団に紛れなきゃいけないんだ。あいつが優勝を祝われる立場なら、俺は負けて慰められる立場な訳で。あ、それでなんかちょっと腹立たしい感じがするのか。 「ああ、じゃあ、ロッカーの場所教えたげるよ。おいで」  立花先輩に着いてロッカーに入ると、少し遅れて晴が飛び込んで来た。白い頬をほんのりと染め、髪が乱れて頬にかかり、シャツの襟が崩れている。その間から垣間見える黒い帯のようなものは――そうか、プロテクターか。 「晴、おつかれ」 「そ――立花先輩ぃぃ。嬉しいけどみんな暑苦しすぎッ」  泣き言を漏らした晴は、立花先輩の腰にぺったりと抱きつこうとした。いや、お前も暑苦しいだろその振る舞いは。 「こら、懐いてくるな」  それをべりっと引き剥がし、扉の裏っかわへと晴を押しやる立花先輩。そこには、試着室みたいなものが据え置かれていた。 「お前はそっちの更衣室で着替えるんだ。オメガ専用に新調した奴だからな。有り難がるように」 「はいはーい! ありがとうございまっす――!」  晴は早速更衣室へと駆け込んで行く。 「翔也が居る時はかわりばんこに使うんだぞ。面倒くさがってどっちかがこっちで着替えるとか禁止だからね」 「えー……」 「えーじゃない。そういう規則だから弁えてね」 「はぁーい」  ああそうか。オメガが運動を許されるようになったのはほんの二年ほど前のことだから。晴と翔也君は、この部が迎え入れる初めてのオメガ部員なんだろう。 「で、ごめん。ここが榊君のロッカーと防具入れね。晴はこっち。出てきたら教えてやって――じゃ」  結果的に晴を優先してしまった立花先輩は、済まなそうに頭を下げると更衣室を出て行った。  パタンと扉が閉ざされて、晴と俺だけが残される。  たった一枚の薄いカーテンを隔てて、晴が着替えている。かすかに響く衣擦れを生々しく感じながら、俺も身繕いを整えた。  舟木の道場では、俺は自室で着替えてしまうので更衣室を使ったことがない。結構古い道場だが、ちゃんとオメガ用の更衣室は完備されているのだろうか――帰ったら確認しなければと思っていると、シャッとカーテンが引かれて晴が出てきた。 「景久君、ごめんね。俺のロッカー何処ですか?」  晴はしおらしい顔で問いかけてきた。 「ここだ」  正式入部はまだだが、入部決定者のロッカーは決めているのか、〝榊〟〝竹井〟〝仁科〟の名札の着いたロッカーが三つ並んでいる。晴はそこに着替えと鞄をごそごそと入れ込んだ。 「防具はここ」 「わ、ありがとう。ごめんね」  四角いマスの並んだ棚を示す。防具袋や竹刀袋をそこに置いて、俺と晴は更衣室を出た。  舟木で下宿を始めてから、道場で毎日稽古をしている。やっぱり剣道馬鹿なのか、晴も春休みの間中毎日やって来ていたので、自然と俺たちは組むようになっていた――その延長な気分で晴の前に立つと、晴は俺を見上げて首を傾げた。面の向こうのかわいらしい顔は、困ったように微笑んでいる。 「立花先輩とやってみたらどう?」 「ん?」 「だって俺より強いもの。先輩と組んだ方が勉強になると思うなぁ」 「お前より強いのか」 「そりゃあっちはアルファの三年だもの。俺なんか吹き飛んじゃうよ」  立花先輩とは道場で行き会った時に組んだ事があるが、確かに強かった。というか、今日初めて部活の稽古に参加した訳だが、晴や立花先輩は勿論、ベータの先輩方も結構強いと感じた。中学生と高校生の身体能力の差も勿論あるが、長く続けている〝こなれ〟のような振る舞いやあしらいがあるなと思った。まあそのせいで、短時間にもかかわらず癖の見えてくるひともいた訳だが。  俺と晴の話が聞こえたのか、立花先輩本人に手招かれたので其方へ向かうことにする。  晴はすぐに他の先輩に誘われたようだった。  その数日後から授業は平常となった。 「お前って弁当派?」  なんとなく行動を共にするようになっていた松山に「食堂に食べに行く」と言うと、「よしよし」と頷いて連行された。 「あ、マツ――と景久君」  四人掛けのテーブルに晴と翔也君が座っている。二人は既に定食を運んで来ていて、その前の席にはハンドタオルが置かれていた。ただし、置かれているタオルはひとつだけだ。 「ちゃんと席取っといてくれてありがとよ」  松山は翔也君に二カッと笑いかけると、俺の背を押して券売機へと向かった。 「俺も混ざって良いのか?」  翔也君も晴も驚いていたじゃないか。 「いいんじゃない?」  松山は適当な返事で取り合わず、食券を買うと配膳カウンターへと突っ込んでいく。俺は結局その背が晴たちのテーブルにたどり着くまで追いかける羽目に陥った。 「翔也たち四時間目体育って言ってなかった? 早いじゃん」 「授業がたまたま早く終わったんだ」 「えー、じゃあいっつも早い訳じゃないのか。席取り~」 「無駄に長い足で高速移動しろよ。A組の方が近いんだし」  席に着くなり、翔也君と松山がせわしない会話を繰り広げ始める。  翔也君の隣で晴はカレーを食べていた。 「景久君、一緒だね」  目の前に座ろうとする俺を戸惑うように見上げたものの、俺のトレーの中身がカレーと見るや、弾んだ声を上げた。 「ああ。晴がカレーを食べてるのを見て食べたくなったんだ」  そう言うと、更に笑みを深める。 「結構美味しいよ。ねえ、辛い方が好き? それとも甘口が好き?」 「辛い方が好きかな」 「――あれ、榊は本当は晴との方が仲良かったりする? 翔也の友達なんじゃないの?」  俺と晴がスムーズに会話を交わしているのを見て、松山が口を挟んで来た。 「マツ、景久君って〝去年の中学剣道個人戦の準優勝者〟なんだよ。わかる?」 「え⁉ 優勝って晴だったよな――あ、つまりお前らって、ライバル関係……⁉」  ライバル――俺はそう思って追い続けているけれど、晴がどう思っているかは分からない。一本も奪えないような腕でライバルなどと、晴にしてみれば笑い話だろう。  密かに晴をうかがうと、晴はスプーンをくわえたまま難しい顔をしている。 「んー……」  晴がなんと答えるのか気になって待っていると、その背後にすっと影が立った。  長めのスカートの裾を揺らしたその影はぱっと両腕を広げると、晴を胸に抱き込んだのである。  誰だこの女。
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