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桃井は雛が去ったあとも、使えるかわからない写真を撮り続け、そろそろ宿に戻ろうかと思っていたところで、ばったりと花月と暮春と鉢合わせた。
紫煙の匂いが纏わりついているのは、花月が煙草でも吸っていたのだろうか。彼女がヘビースモーカーだというのは、彼女の本のあとがきにちらりと書いてあったように思う。
花月は軽く手を振って、こちらに気安く声をかけてきた。
「よう、桃井。いい写真は撮れたか?」
「花月先生。暮春さんも。いえ、今回はなかなか上手く撮れなくって……多分、メインに使うのは蚕月製糸場の写真になるかと思います」
「そっかそっか」
花月がのんびり相槌を打ったところで、桃井は雛に告げられた言葉をどうしたものか、と考える。今晩宿から出るなという彼女の言葉が、どうにも気になった。
彼女はオカルト考証に詳しいから、なにかしらわかるんじゃないかと。
桃井が考えあぐねていると、「おっ」と花月が声を上げる。
「どうかなさいましたか?」
「おう、旧蚕月村記念館だと。廃村まで観光地にしてると思ったら、とことん死体蹴りしたいらしいなあ」
皮肉たっぷりな口調が花月の作風だし、普段からそういうことを考えているんだなと思いながら、記念館を見る。どうも無料で入場できるらしいので、中に入ってみることにした。
古い糸巻機に、古びた写真で繭を小屋で干している光景、繭を煮ている光景、繰糸の光景に、機織りの光景までがパネルとして並んでいる。
ここには警備員もいなく、本当になにもない観光地で少しでも見世物を増やすためにつくったやる気のない場所らしいが、話をするには十分だった。
「あのー……花月先生」
桃井はおずおずと声をかけると、展示してある機織り機を眺めていた花月が顔を上げた。
「さっき、雛さん……蚕月製糸場に入り込んでいた女の子と出会いました」
「あれえ……ここって一応私有地で、観光客でもない限り立ち入り禁止だろう? あの子大丈夫かね」
「わかりません。ただここのお土産屋で働いている人たちは、あの子曰く元蚕月村の人たちらしいんですよ」
「んんんんんん……? 村を無理矢理潰された連中が、何故か観光地にされた場所で、お土産を売ってるのか? わざわざここのオーナーの懐に金を入れる手伝いを?」
花月が次々と疑問を口にしてくれるので、桃井はほっとした。なにか変だとは思っていても、どこがそんなに変なのか、桃井では言語化できなかった。
それを黙って聞いていた暮春は、軽くメモで書き留めつつ口を開いた。
「その子、わざわざ私有地にまで入ってなにがしたかったんでしょうか? そういえば、彼女と桃井くんは出会ったと言ってますけど、彼女と出会ったのはどうしてですか?」
「いえ、お土産を買うなって言われたんです。俺の場合は試食でしたけど」
「試食? ここのお土産って、ほとんど工場でつくられたものでは」
「いえ。一部の店では、桑の実を使ったものを売ってたんです。俺の場合は桑の実ジャムの試食を勧められたら、彼女に止められて」
「あー……」
花月はガリガリを頭を引っ掻きながら、振り返った。
「よかったなあ、桃井。間違いなく助けられたぞ。当てずっぽうの推論だったけど、ヤバイヤバイと思ってたらやっぱりやばかったなあ」
「あのう……」
神社関係のものに、関わるのはやめておけ。
桃井は見える人たちからは、ずっと同じことを繰り返し言われ続けていた。そして雛は無くなってしまった神社の家系の子であり、ひとりでなにかしらやっている。
ここに来てから聞いている不可解なことを見ていたら、宿の中にいれば安心とは言い切れないし、なによりも村で起こったことはまだ伏せられたままだ。
そんな中で、夜間にたったひとりの女の子が行動しているのを、宿で震えて夜が明けるのを待っているというのは、いくらなんでもまずいのではないか。
桃井は太いし、写真以外は特に取り柄のない人間だが、良心というものは存在している。
桃井は雛から聞いた話を、ペラペラとしゃべりはじめた。神社が潰れたこと、村が金の力で吸収合併の末に消失したこと、雛は神社の家の出だということ、工場を建てられる年は、毎年行われている祭事が行われなかったということ……。
暮春は驚いたような顔で、それらをボイスレコーダーのスイッチを入れて全部音を拾っていた中、花月は顎を撫で上げながら黙って聞いていた。だんだんと眉間に皺が寄っていくのは、話している内容がよろしくないせいなのかどうなのか。
「あーあーあーあー……ヤバイヤバイとは思ってたが、マジでヤバい奴だろ。これは」
花月は髪をガリガリと引っ掻く中、暮春は顔を青褪めさせている。そういえば、この人は製糸場にいるときも具合を悪くしていたから、編集業のせいで疲れている人なのかもしれない。
「今晩、やっぱり大人しく宿に引っ込んでいたほうがいいやつじゃないですか!? 花月先生、やっぱり外に出ないで大人しく盛り塩して宿で待機していたほうが……!」
「そうはいってもさあ、暮春。そもそもその雛って子? この子は夜に出かけるんだろう? 見てくれからして、どう見積もっても高校生の子がなにやらやっているのに、大の大人が揃いも揃って盛り塩で四方囲って震えてろと? 俺はやだね」
「ここの女性陣はどうしてこうも無鉄砲なんですか!? 勇気と蛮勇って全然違いますからね!? あと、まさかと思いますけど、桃井くんはあの子を追いかける気なんですか!? ほんっとうに辞めたほうがいいですよ! 神様になんて関わっちゃろくなことになりませんから!!」
暮春の悲鳴で、ようや桃井は思い至った。ときどき本を買いに来て説教してくる見える人たちと同一人種だということに。
桃井は曖昧に肉付きのいい頬を緩めた。
「うーん、自分はあの子に助けてもらいましたから。それにあの子、村の人たちから『裏切者』って罵られても、この村が好きなんですよ。その子がひとりでなにかを頑張っているのを、見て見ぬふりをするのは、気が引けますんで」
「だとさあ、暮春。もしお前、宿の外に出たくねえっていうんだったら、せめて塩くれよ。塩。神社のお清めの塩でも持ってたら、気休めくらいにはなるだろ」
花月がそう軽く乗ってくる。それに桃井はおずおずと尋ねた。
「あのう、暮春さんの宿を出たくない理由はわかるんですけど、花月先生はどうしてそこまでして、宿を出てまで外を見たんですか? そもそも、俺もこの村に落ちた罰って知らないんですけど……」
「おう、俺も知らねえ。でも夜だったら見られるかもしれねえだろ」
「って、それだけのために、外に出る気ですか? 本当にどうなるのかわかりませんよ?」
桃井は思わずメガネをずり落とすが、花月はそれににやりと笑うのだ。
「ただの決まりきったツアーになんぞ、俺は興味ねえからなあ。出るんだったら霊だろうが神だろうが大歓迎だよ」
隣で暮春が「あんた本当になに言ってるんですか!?」と悲鳴を上げているので、彼の苦労がしのばれると、そっと桃井は手を合わせるのだった。
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ほのかは布団の中でごろごろと転がっていた。もう寝たいし早く帰りたいしさっさと観光客たちと縁を切りたい。
暇を持て余してスマホに手を伸ばしたが、電波がない。
「ちっ……せめてWi-Fiくらい用意してなさいってのよ」
せめてテレビでなにかやってないか、地方のテレビで見られるものはないかと思ってチャンネルを回すが、この地方特有のものなのか、それとも時間帯のものなのか、時代劇か地方ニュースしかない。
それにますます面白くなくなって、ほのかはヒステリーを起こしてチャンネルを投げ捨てようとしたが。ニュースが『次のローカルニュースです』と映したので、思わず止まった。
ほのかは現状のキワモノツアーのバスガイドをする前は、普通に真面目なバスガイドである。たとえツアー客が聞く気はなくとも、地方特有の雑談は耳に入れておく癖がある。
映った光景は、どこかの大きな神社の祭事であった。
巫女たちが鈴を持って神楽を舞っている中、ひとりの巫女が神棚に布を収めている場面がカメラに収められていた。その布の艶めきからして、あれは絹だろうと察することができる。
『今年も魂鎮めの儀式が無事、寛今神社で執り行われました』
『元は養蚕の神様を祀っていた神社で、今年もいい絹が採れますようにと願うものだったのが、今は豊作開運商売の神様になったとされていますね』
「魂鎮め……」
そういえば、真珠の養殖を行っている場所では、アコヤガイの命を奪っているからと、社をつくって祀っていると宝石に詳しい知人が言っていたのを耳にしたことがある。
養蚕も蚕の繭から絹を採っている以上、祀ることにはなにも疑問ではない。命を奪うときは、奪われたものから恨まれないように社を立てて祀るということは、昔から日本で行われていることだ。
じゃあ逆に、祀らなかったらどうなるんだろうか。
「んー……こういう話って、あんまり人気ないのよねえ……」
皆「こうしないと呪われる」「こうするとよくない」という話よりも「こうすると儲かる」「こうすると得をする」という話のほうに耳を傾ける。
「祀らなかったら呪われる」なんて話は雑談のタネとしてもなしだろうと、ほのかは黙ってテレビを消した。
と、そんな中、急にほのかのスマホが鳴り響いた。会社からだ。
普段であったら、ツアー中に電話をかけてくることは滅多にない。ツアー中のことは全てほのかが東京に戻り次第報告書を出して満了だからだ。
いったいなんの用だと思いながら、こわごわとほのかはスマホの通話画面をタップした。
「はい、もしもし穀雨です。……は? はあ!? ちょっと待ってくださいよ。あそこも相当汚かったですけど、ここに移れとかっていくらなんでもないでしょうが!? ちょっと待ってくださいってば、こんなの困ります! ……ああん、もう!」
ほのかの休み時間は相当短かった。
制服の身だしなみを整えて、落とした化粧を軽く済ませる。髪にあとがついてないと確認してから、勢いよく宿泊施設を飛び出した。
ほのかはポンコツではあるが、バスガイドである。
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カタンカタンと音が鳴る。
張りつめられた糸は生糸。機織り機にちきちきと張りつめられた縦糸に、横糸が通っていく。
つるりとした光沢を帯びた生糸は白く、色を染めなくてもその艶やかさをひと目見てしまったら、染色することを惜しく思うだろう。
年々、繭玉を集めることが難しくなっていった。
桑の木の森に入り込めば、繭玉を見つけることは容易だが、年を追うごとに見張りが増えていく。
もう誰も糸を紡ぐこともなければ、機織りすることもないのだから、森ひとつくらい自由にしてくれればいいのに。
おまけに、繭玉を干して、茹でて乾かして、糸を紡ぐ作業工程。工程こそ簡素なものだが、それが年々難しくなっていったのだ。
干している間に、繭玉はぐずりと溶けて腐り落ちてしまう。茹でている間に、鍋に溶けて消えてしまう。
あの森はすっかりと呪われてしまっている。繭玉は放っておいたら羽化して、蚕となるはずなのに、いったいあの中でどれだけの蚕が羽化して、空を飛んだのだろう。かろうじて呪われていない繭玉を選別して取ってきていても、こうなのだ。もし無作為に繭玉を取ったとしても、結果は同じだっただろう。
いったいあと何回、儀式は行えるのだろうか。あそこに閉じ込められた人々は、いつになったら解放されるのだろうか。
カタンッと最後の横糸を通して、機織り機から生糸を離して、出来上がった布を見る。
織り上がった布は、無事だった繭玉から取った糸のもの。それは手ぬぐいほど長くもないが、コースターほど短くもない、小さ目なハンカチほどの大きさだった。
その布を見て、雛はポロリと涙を流して、それを抱き締めた。
今年の儀式は最悪だ。
この土地のオーナーはなにを思ったのか、観光客を入れてしまったのだから。そんなことをしたら、その人たちが餌にされてしまうかもしれないのに。きっとなにも考えていない。
宿からさえ出なければ、なんとかなるかもしれない。でも、もし一歩でも宿から出てしまったら、雛でもどうすることもできない。
もう儀式を行える人間は雛しかいないのだから、儀式を優先させて、見殺しにするしかなくなる。
「お願いだから……なにもしないで……」
雛の独り言は、誰の耳にも届くことはなかった。
小屋の外は、既に茜色に染まっている。
あと二時間もすれば、空はすっかりと暗くなり──夜が来る。
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