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午前十一時:蚕月製糸場行きバス内
バスは閑散としている。
当然だろう。いくら昨今、廃工場見学ツアーやら廃墟見学ツアーなど銘打ってツアーを組んだとしても、廃村に泊まって廃工場を見学する一泊二日のツアーなんて、どう考えても人が集まるわけがない。
それでも実行しているのは、ツアーを組んだ旅行会社が自棄になっているのか、実はこれには巨額が動いていて、少人数だけでも来てくれれば問題ないのか。
そんなことを暮春建辰はぼんやりと考えていた。
彼だって本当ならこんな寂れたツアーには参加したくなかったが、会社からの命令では逆らえなかった。うだつの上がらない瓶底眼鏡をかけ、中肉中背の体型をTシャツとデニムが包んでいる。一見すると年齢不詳の彼の職業は、編集者だった。
彼が現在所属しているのは、オカルト雑誌『Ohカルト』だ。投げやりな雑誌名の割には、オカルトブームもインチキ予言ブームも過ぎた今も、その存在を保ち続け、日々オカルトの情報収集に明け暮れている編集部だ。
暮春が出かけるのは他でもない、今向かっている蚕月製糸場には、オカルト的な噂がふんだんに流れているから、取材に行って写真を撮って記事を書いてこいというものであった。
そんなの外部のライター雇って書かせたらいいのに、と暮春は思う。この企画を立案した編集者が急な人事異動で編集部を離れてしまったがために、急遽暮春にその企画が回されてしまったのであった。
オカルト雑誌の編集部に所属していても、暮春は大のオカルト嫌いであった。何度も何度も上司に異動を申し出ていても、編集部も人手不足なために、受け入れてもらえない。いっそ独立してフリーランスにでも、と考えることもあったが、暮春はコネも伝手も存在していないため、今日もいやいやオカルトの収集作業に明け暮れているのである。
バスの中をぐるりと見回す。
「皆様、蚕月製糸場は、大正時代に絹製品生成で栄華を極めました。元々ここは他の製糸場にはない独特の蚕採集方法を使い、日本でも一、二を争う絹の質であり、工業化する前からこの地で織られた布は大名姫君の嫁入り道具として重宝されていたのです……」
一生懸命に閑散としたバス内で説明をしている、笑顔を向けているバスガイド。たしか名前は穀雨ほのかと名乗っていたか。
髪をシニョンにまとめ、バスガイドの制服を違和感なく着こなしている彼女だが、化粧がやや濃い。これは疲労を隠すためなのか、それとも上司と喧嘩して意固地になって化粧を濃く塗りたくったのか気になるところだ。
そんなほのかに「そんなことよりほのかちゃーん」となれなれしくもほのかの名前を呼ぶ男がいる。
ガラガラなのだからどこに座っても自由だが、彼は一番前の席を陣取って、体をひょいと乗り出してはほのかに声をかけている。
軽薄が服を着ているという具合の男だ。ラフなシャツにスラックス。髪は少々長いが、端正な顔つきの彼だとうっとうしいという雰囲気がない。多分悪ぶっているのが好きという、思春期入りたてな女子にはもてるんだろうが、身持ちの固くなる社会人には一転してもてなくなるタイプだ。
そして、明らかに会ったばかりのバスガイドとの距離感を間違っている。
それにほのかが引きつった笑みを浮かべる。
「お客様。どうぞ席にお着きくださいませ。まだ説明は終わっておりませんので」
「そんな覚えた棒読みの説明よりもさあー、君のことが知りたいなあ。ねえねえ、どうして君みたいな可愛い子がバスガイドなんかやってんの?」
あっさりとほのかの仕事を全否定しているのに、暮春は頭が痛くなっていた。
そしてこちらをちらちらと見る顔に気付き、暮春は目を細める。
どうにかナンパを止めたくても、止めきれないという顔をしている、ずんぐりむっくりとした体形の男性だ。肉が張り過ぎて、年齢がちっともわからないが、着ているポロシャツは新品だし、穿いているスラックスにもほつれひとつない。履いているスニーカーもピカピカなところからして、清潔感は保っているようだ。
人が好さそうな顔をしているが、目の前のナンパ男子を止めるのが怖いから助けを求めているようだが、暮春はこれから最低でも一泊二日は一緒に過ごさないといけない人間と波風を立てたくはなかった。だが明らかにほのかは困っているので、彼女の心象を悪くしたくもない。
どうしたものか、と頭を悩ませていたところで。
「お前いい加減にしとけよ。ガイドの姉ちゃんが困ってんじゃねえか」
暮春の隣の座席に座っていた人が、ピシャンとハスキーな声をかけたのだ。
黒いスポーツTシャツに痩せぎすな体躯。身長は高く、デニムも切ったり折ったりした跡はない。ショルダーバッグは一泊二日の荷物にしてはいささか大きいようにも思える。
黒い髪の襟足はやや長く、先ほどから暮春に助けを求めている男性が年齢不詳ならば、こちらは性別不詳であった。
いさめられた男は、イラっとした顔で、声の主を睨んだ。
「なんだよ。こっちはほのかちゃんとおしゃべりしてんだけど」
「お前なあ……今工場の説明中だろうが。人の話は最後まで聞けって、学校で習わなかった訳? 少なくとも俺の卒業校もランクは大したことはなかったけど『人が話しているときは割り込まない』って習ったけれど、お前のとこの学校は『聞く価値のない話は割り込んでオッケー』とか習ってるのか? 話してる姉ちゃんにも、話聞いてる俺にも失礼だろうが」
上手い。と暮春は思う。
さらりと「お前のやってることはほのかを馬鹿にしていることと同じ」と皮肉っているのだ。
もっとも、彼には皮肉は通じず、なんか知らんがいちゃもんを付けられたくらいにしか取れなかったようだ。そのまま座席まで寄ってきて、胸倉を掴む。
「テッメェ……ふざけんなよ……」
「お前、いくらなんでも煽り耐性なさ過ぎじゃねえの? こんなんじゃ将来SNSで余計なこと書き込んで炎上させた挙句、慰謝料ふんだくられるぞ?」
「ふざけんじゃねえよ……!!」
さすがに止めないとと、慌てて暮春は立ち上がる。
「花月先生、止めてください! いくらなんでも煽り過ぎです! あと君も! 女性にしていいことじゃない!」
「……はっ?」
男は拍子抜けした顔で、花月と呼ばれたひょろりとした体躯の人物を見る。花月は憮然としたまま、男に半眼を向けたままだ。
身長は高く、体は薄い。肉は全然なく、一見すると性別不詳ではあるが。たしかに彼女には、喉仏もなかったのだ。
男は気まずくなって、花月をぽいっと座席に背中を押し付けて、そのまま黙って席に戻っていった。
おろおろとしていたほのかは、引き続き説明をしたあと、「それでは皆さん、もうそろそろしたらトンネルに入り、あと一時間ほどで目的地に到着しますから、それまではおしゃべりして交流してくださいね」と言って、ようやく彼女も座れたようだ。
一部始終を見ていた男性は、がら空きの席を詰めて、花月のほうへと向かっていった。
「あ、あの……ホラー小説家の花月弥生さん……ですか?」
「ん? ああ、そうだよ」
そうあっさりと花月は答える。
花月弥生は、狭いホラー小説界隈でも多作作家として有名であった。いわゆる職業作家であり、昨今よく聞かれる「あやかしもの」というほのぼのから、人が無慈悲に死ぬ本格ホラーまで書き、読者層もてんでバラバラであった。
ホラー小説が好きな人間はあまりあやかしものというジャンルに手を出すことはなく、あやかしものが好きな人間はなかなかホラー小説のほうは読まないからだ。
男性が声をかけたということは、本格ホラーのほうの読者だろうか、と暮春が思っていたところで、テンション高く男性が声を上げる。
さっきのおどおどしていたときとテンションが違うのは、好きなことには饒舌で、それ以外はしゃべれないタイプなんだろうかと暮春は茫然としながら、彼と花月のやり取りを見守っていた。
「ファ、ファンなんです……! あ、自分、桃井晩って言います!」
そう言って、桃井と名乗った男性は、興奮しながらウェストポーチから名刺ケースを取り出し、名刺を花月に差し出す。
花月はそれを見て「おっ」と呟いた。
「お前、『廃墟クラブ』の桃井かあ! お前の写真好きだよ」
「み、見てくださったんですか!?」
「んー、前に俺の小説のイメージ写真ってSNSに挙げてくれてただろ? あれ見てたわ」
「せ、先生SNSのアカウントは……」
「持ってねえから、本当に見てただけ」
ふたりで盛り上がっているので、暮春はおずおずと花月に声をかける。
「花月先生……お知り合いですか?」
「知り合いっつうか、一方的に知ってただけ。こいつ同人サークルで廃墟写真の販売やってんだよ。すげえクオリティー高いから、いつか俺の小説の表紙の打診考えてたところ。まあ、担当の意向に沿うけどさあ」
同人というと、オタク趣味と揶揄されがちだが、実のところその趣味は幅広い。同人誌即売会には、いわゆるオタク趣味の同人誌だけでなく、地区のおいしいカフェの評論本、趣味で調べた動物の生態本から、わざわざカメラを持って取材してきた風景写真集までが並んでいる。
花月は桃井の同人サークルの写真をネットで見ていたという訳だ。
暮春も同人誌即売会までオカルト研究誌を定期的に参加して買いに行っているので、それで理解ができた。
「はあ……そうだったんですね、どうも、『Ohカルト』の編集の暮春です」
そう言って、暮春も桃井に写真を出すと、桃井はひっくり返りそうになった。オカルト雑誌が次々と廃刊休刊になる中、生き残っている雑誌なんて限られている。
「読んでます! あ、『Ohカルト』の編集さんが来てらっしゃるということは、なにかあるんですか? 蚕月製糸場って!?」
「いやあ……眉唾ものの噂しかありませんからねえ。そういう噂が流れているって特集で、あるとは断定はできませんかねえ」
「なるほどぉ……あ、花月先生とは取材旅行ですか!?」
「いや、本当にたまたま一緒になっただけですよ」
「おーう、俺。趣味で旅行であっちこっち行ってるから。たまたま面白そうなツアーあったから参加したら、暮春がいただけ。こいつ、俺の担当なんだわ」
「なるほどー! 雑誌、チェックして記事を楽しみにしてますね!」
桃井は納得したように、席へと戻っていった。
暮春は胃がシクシク痛むのを感じた。元々オカルト編集部から早く異動したいと上司に言っているのに、あれだけ目をキラキラさせた読者に声をかけられると、罪悪感で胸が抉れそうだ。
そう思っていたところで、花月がひょいと暮春の隣に座ってきた。
「ひっでえ顔。お前酔ってんだったら食うか?」
そう言って、ひょいと花月が出したのはミントタブレットだった。彼女は本来はヘビースモーカーだが、さすがにバス内で吸う訳にもいかず、こうしてミントタブレットを齧り続けて口寂しさを誤魔化しているのだ。
暮春はげんなりしてミントタブレットを受け取りながら、声を小さくして抗議する。
「ありがとうございます……俺は、まさか花月先生と一緒になるとは思ってなかったんですけど」
「いいじゃねえか。たった一泊二日じゃねえかよ。仲良くしようや」
「それが嫌なんですよぉ……だってあんたがいるところ、いつも出るじゃないですか。俺、あんたのせいで相当ひどい目に合ってるんですけど」
「そうかあ……残念だな」
「あんたの場合は取材対象で飯のネタでしょうけど、俺には悩みの種なんですからね!?」
「へいへい」
嫌味を言っても、嘆いても、花月の前では「ふーん」「へー」で流されてしまう。それにムカッとしてしまう自分はなよなよし過ぎて我ながら嫌になると、暮春は思っている。
暮春は苦し紛れにミントタブレットを噛み砕いた。ひどく辛く感じるのは、これから起こることを悲観しているのか、それとも予感してなのか。ミントのスースーとする爽やかさも、ちっとも彼を慰めてはくれなかった。
花月が旅行に行くと、何故かトラブルに見舞われる。その上霊感が全くない零感なせいで、彼女自身にはなにが起こっているのかは推論でしか把握することができない。
そして暮春はオカルト編集部から早く異動したいと言う程度には「見える」体質であった。
このふたりが揃うと、毎度ろくなことにはならない。
せめてこのバスが棺桶になりませんように。命を落とすほどのひどい目には遭いませんように。
命あっての物種なのだから、それ以外は諦めるしかないと腹をくくる暮春は、ひどい目に遭うのに慣れ過ぎていた。
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