序章

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序章

 朧雲が印象的な夜だった。  頼りない月明かりをさらに隠す雲の下、彼は暗い道を独り歩く。夜目がきくわけではないけれど、見えないことに恐怖はない。毎日、毎夜歩いている道なのだ。怯える必要がないことは、十分に知っている。  右手に提げたコンビニ袋が、その通りだと返事をするように音を立てた。  湿気混じりの風が吹く。  季節は夏を手招き始め、近くの山から香る青葉の匂いが鼻腔をくすぐる。  季節は巡る。瞬きのうちに春が終わり、夏が来て、秋が訪れ、冬になる。  そうやって、何もない1年を幾度も繰り返しながら死んでいくのだろう。今は、何回目だったか。  生まれてから通算18回。たったそれだけの彼の人生にも、節目というものが、確かにあった。  土台が崩れた8回目。理不尽な痛みが混ざり始めた10回目。そして何もなくなった、15回目。  景色の色がひとつ欠け、楽しい記憶さえ粉々にひび割れて、彼はとうとう、全ての色を亡くした。  目が痛むほどに鮮やかだった景色はモノクロとなり、呼吸さえ楽しかった青空も重い曇天へ。    世界のあらゆるものに、拒まれたようだった。  橋の下を流れる川は静かに、風と揺れる。  義務のように息を吸えば、惰性で心臓が動く。生きていくために必要不可欠な呼吸は、果たして、自分にも必要なのものなのだろうか。 「……死のっかな」  それはまるで挨拶のように軽く。食事をするように当然な音で。無人の橋に、ぽかりと浮かんだ。    世界に拒まれた矮小な人間の行き先は、ひとつしかない。惰性で動く心臓を支え続けたって居場所が与えられることはなく、ある意味平穏な、無色の日々を繰り返すだけなのだから。行き先は、ひとつしかない。  ふらり。まるで手招かれでもしているみたいに、彼の爪先が方向を変える。真っ直ぐに橋を進んでいた足は隅に寄り、古びた欄干へ、手が伸びた。  そうだ。死んでしまえばいい。そうすればこの膿んだ感情も、鉛を詰めたような胸の内も、濁った景色さえ全て、無関係になる。もう何も、考えなくていい。  夜目のきかない彼の目が、揺れる水面を見下ろす。カンッと鳴ったのは彼が欄干に足をかけたからで、視界がブレたのは、グッと身を乗り出したから。  何かの光を受ける川は、とても、綺麗だった。  離し忘れたコンビニ袋が、不穏な空気を察したようにバサバサと風にはためく。今晩と明日の昼食用に買ったこれも、もう要らなくなってしまったな、と。  欄干を蹴り、体を宙へ投げ出しながら思う。  風薫る──初夏の匂いだ。  水面が、歓迎するように柔らかく揺れる。  ああ、今夜は繊月(せんげつ)だったのか。  朧雲の向こう、糸のように細い月が映る水面を最後に、彼は目を閉じる。  風の抜ける音がする。木が揺れ、水が騒めき、空気が震える。頭を刺すような、耳鳴りがした。
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