現の夢

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「夢じゃないと、理解しましたか?」  白い塗装がところどころ剥がれた壁に背を預け、昨夜の男──航はそう柔らかく笑う。潤はズキズキと痛む頭を押さえ、苦い顔で小さく頷いた。 「……あぁ」  最初から、夢なんかではあり得なかったんだ。消えたコンビニ弁当と航の存在。教室の違和感に、証拠とばかり航が右手の甲に浮かばせる、黄色い紋様。  とどめは、航の肩についた大きすぎる黒羽根だった。 「あ、すいません。飛んできたもので」  疲れた顔で潤が羽根をつまめば、航は気恥ずかしそうにそんなことを言う。 「目立つだろ、それ」 「その辺りの対策はちゃんとしてますので!」 「あ、そう……」  ふんと得意げに胸を張る航に、潤はそれ以上なにも言わなかった。くるりと回した羽を航に返す。 「今は、猶予期間ってやつなんだよな」  受け取った航は黒羽根を見つめたまま、薄い笑みを唇に乗せた。 「そうです」 「条件をクリアするか、1年が経てば俺は死ねる」 「……、はい」  航がふと物言いたげに表情を歪めたことには気付かず、潤は確認したルールを頭の中で反芻する。  “悼む心”を見つけろという抽象的すぎる条件のクリアは、あまり現実的ではない。それなら、何もせずにぼんやりと1年を過ごす方が賢い気もするが……。 「ひとつだけ、いいでしょうか」  そう言った航の声は、なんだかとても躊躇いがちだった。ちらと視線を上げた潤に、人間くさい、気まずそうな顔をして航は微笑む。 「1度死を選んだ人間にとっての1年は、まるで永遠のように長いものです。惰性で1年を過ごすとしても、私に止める権利はありません。ですが、出来るならどうぞ、有意義な1年をお過ごしください」  それはきっと、航の仕事とは無関係の話だったんだろう。内密にしてくれと、困った顔で唇に人差し指を立てていたから。 「……変な悪魔」 「死神ですよ、私」 「どっちでもいいよ、もう」  きょとんとしながらもちゃんと間違いの訂正をする航に、潤はそう、ひらひらと手を振ってみせる。  辛いとか苦しいとか、そういった感情さえどこか遠くなってしまった日常から、ただ逃げ出したかった。なにも変わらない日々のなかで、なにも変えられない自分を捨てたかった。それだけだった、はずなのに。 ──……死んだ体と、死神、なぁ……。  夏を運ぶ春の風が、柔らかく木々を揺らす4月の頭。潤は現に夢を見ているような心地で、かたわらの自称死神を見やる。  悪魔と並んで畏怖されるその存在は、自らの黒い羽根を自慢げに眺め、穏やかに微笑んでいた。
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