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瞬間的に、状況の理解ができなかった。
柔らかい春の朝日が眩しい午前6時。携帯のアラーム音で目を覚ました那月潤は、見慣れた天井の古ぼけた色を呆然と見上げる。
なんだかひどく、現実味のない夢を見た気がする。いつもと同じバイトの帰りに、普段と変わらない感傷に浸って、その勢いのままに橋を飛び降りる、とか。
「……夢、……」
じっとりと汗を掻く体が、妙な現実感を与える。真夏の夜に空調もつけず眠ったときのような不快感に、潤はのっそりと体を起こした。
寝巻きにしているTシャツの襟で首元を拭えば、なんだかひとり、夏を先取りしているような気分だ。
とりあえずシャワーを浴びようと、潤は着替えと携帯を持って部屋を出た。シン──と冴えた空気が廊下を抜け、潤の唇から安堵の息が落ちる。
いつも通り。人のいない家の冷たさに、ホッとしてしまうのは、夢のせいだろうか。潤は足元に目を落とし、ダークブラウンの階段をゆっくりと下りた。
生まれた時から住んでいる、2階建の一軒家。両親と潤の3人で、仲良く穏やかに暮らしていたのはもう、10年も前のこと。今は、この広い家に潤しかいない。
1階の玄関から、まっすぐに伸びる廊下の突き当たりにある風呂場の引き戸を開け、潤は備え付けの鏡へ、ちらりと視線を投げた。
生まれつき色の白い肌に、生気のない三白眼。ツリ目なせいで人相は悪く、真一文字に結んだ唇が一層、印象の悪さをも与える──ように見える。
要らない人間。潤は鏡に映る自分を消すように視線を逸らし、汗を吸ったシャツを脱ぎ捨てた。
浴室の扉を閉ざし、蛇口をひねる。パッと飛び出した水しぶきはすぐに流れとなり、樹脂素材の床を容赦なく叩いた。ぱらぱら、水の跳ねる音が響く。
本当に、ただの夢だったのだろうか。
潤は止めどなく体を濡らし落ちる水を眺めながら、今朝の、もはや朧な景色を繰り返し思い出す。
確かに、夏の匂いがしていた。木や水の騒めきもちゃんと聞こえていたし、あの、耳鳴りだって──。
「……やっぱ夢だな……」
そう呟いた潤の声は、ひどく沈んだ音だった。
どうにもリアルだったあの耳鳴りはおそらく携帯のアラーム音で、景色は見慣れたものが再生されただけ。香る夏の匂いも自然の音も、全て知っているものなんだから、本物だと思ってもおかしくはない。
なにより、今ここでこうして生きていることこそ、あれが夢でしかない、何よりの証拠じゃないか。
潤はつまらなさそうに息を吐き、シャワーを止めた。いくらか濡れた襟足の水分を手で払いながら部屋着に着替え、風呂場を出る。
ふと、玄関扉の開く、音がした。
暗い玄関を照らす朝の光に人影が混ざり、潤の表情にも翳が落ちる。見たくない。そう思うのに足は動かず、視線さえ、自由にならない。
「荷物だけ取ってくる」
深い青のスーツと赤いハイヒールが親しげに触れ合うのを目の前に、潤は身動きひとつ、取れなかった。
革靴を脱いだ男の視線が、ちらと潤を刺す。
「なに見てる」
それで初めて、潤は体が軽くなるのを感じた。ごめんなさいと空気のような声で俯き、階段を上がる足音が去るまで、ただ床を見つめ続ける。
女の、嘲りを含んだ笑みの吐息が聞こえた。
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