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「クッキー焼いて、待ってるからね」
小学校3年生の夏休み前。お菓子作りが好きだった母の優しい笑みに見送られ、いつも通りに学校へ行った。明日からは夏休み。浮き足立つ気持ちを抑えるのはなかなかに難しく、“優”の並んだ通知表をもらった時にはもう、気持ちは未来を向いていて。
「ただいまっ」
汗だくになって帰った家がとても涼しかったことを、潤は今でも時折思い出す。
電気が消え、物音のしない家のなか。空調が切り忘れられていたのは、母の最後の思いやりだったのかもしれない。
ダイニングテーブルにあった、約束のクッキーと一緒に置かれていた小さな紙切れには
[ごめんね、潤。大好きよ]
たったそれだけの言葉が書かれていた。
なにが「ごめんね」なのかも分からず、誰もいない家のなか、母が置いていったクッキーを1枚口に放る。
「……美味しいのに」
美味しいと言って笑える相手が、いない。無人の涼しい家はなんだか落ち着かなくて、潤は母が早く帰ってくればいいと、呑気にそう思っていた。
そうして父が帰ってきて初めて、母の手紙の本当の意味を知る。自分は、母親に捨てられたのだと。
だけどそれも10年前の話。今となっては母の面影も覚えてはいないし、どうしてという思いすら風化してしまっている。今さら、何かを思うことはない。
潤は騒がしい教室の隅で、硬い鞄を枕に眠る。閉じた瞼の裏には色褪せた、あの日の情景がくっきりと浮かんでいて、みぞおちが気持ち悪くなった。
ただ嘘を知らなかったんだ。大好きよ。そう言っていた母の言葉を馬鹿正直に信じて、捨てられるなんて、考えもしなかった。愛されていると思っていた。
当たり前の毎日が、いかに脆いかも知らないで。
「おはよう」
幼いその日々を思い返すたび、潤は自分の無知さと無力さに胃をキリキリと痛ませ、そして言い訳をしてきた。母の心変わりに気付けず、父の拠り所にもなれなかったのはきっと、幼さのせいだった、と。
「あ、はよー。航」
例えばあの朝、母の様子をもっと見ていたら。
例えばもっと、父を支えられていたら。
自分はまだ、彼らに必要とされていたんだろうか。
「うん?あいつなら、ほらそこに」
思って、期待をしては、裏切られてきた。
今朝のように父が帰るたびに無視をされ、大好きと言い残した母とはあの日以来、1度も会っていない。彼らの人生に、“潤”という存在はもういないんだ。
「あ、ホント。ありがとー」
やっぱり、夢じゃなければ良かったのに。
重い瞼を上げ、潤はひとつ息をつく。厭になるほど優しい春の青空が苦しくて、目を逸らした、先には。
「おはよう、潤」
全く知らない男がそう、にこやかに立っていた。
「ッ、は……?」
椅子を鳴らし驚く潤に構うことなく、男は机の前側にすとんと屈み込む。血のように赤い瞳が、動揺する潤をじっと見つめていた。
「航だよ、潤。まだ寝ぼけてる?」
教室の喧騒に紛れる声は楽しそうに、それでいてどこか焦ったように潤を急かす。
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