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* * *
羽が舞う。夜よりも暗い、烏のような黒い羽。それは音も立てず、右に左にと揺れながら水面に落ちて柔らかな波紋を作る。
潤は、雨のように降るそれを眺めたあと、まるで操られでもしているみたいに顔を天へと向けた。
「あっ……」
ぶわり。突風が潤の髪を撫でつけ、瞼を閉じさせる。過ぎた風の後に残った生温さに目を開けたら、
「こんばんは」
繊月とはほど遠い大きな月を背負い、どんな鳥よりも立派な翼を持つ男がひとり、そう微笑んでいた。
驚いて腰を抜かした潤の尻餅に、川の水が大きく跳ねる。体重がないかのように軽く降りてきた男は、潤に見せつけるみたいに静かに、水面に降り立った。
「那月潤さん、ですね」
非現実どころじゃない状況のなか、男の声はあまりに冷静に、落ち着いて潤の名前を紡ぐ。
金色のボタンが輝く軍服のような白のジャケットに、夜と溶ける黒い細身のズボン。長い髪は首の付け根あたりで1つに結ばれ、左頬には何のためなのか、バーコードが描かれていた。
「私、魂回収課の更生担当、御影航と申します」
男──航が、血色の瞳を細めて穏やかに微笑む。
おかしな出で立ちのわりに温厚な人だと肩の力を抜きかけた潤は、聞きなれないその言葉と、凪いだ空気のなかで揺れる航の髪に生えた大きなツノに気がつき、目を見張った。
山羊のように渦を巻く、漆黒のそれ。
怯える潤を揶揄うみたいに波打つ翼から黒羽が舞い、柔らかに揺れるそれが水面を震わせる。
航は、あからさまなほどに人外の存在だった。
「なん、何の用、ですか」
大きなツノと漆黒の翼を有する、人ならざるもの。その存在を前に、潤はそう問うしか出来なかった。
航の緋い瞳が、真っ直ぐに潤を射抜く。
「那月潤さん。貴方はたった今、命を落としました」
それはあまりにも温度のない、無感動な声だった。
「自らの意思で捨てたもので、間違いないですね?」
航の横髪が空気の変化に惑うようにそよぎ、目を惹く赤が内側に覗く。
潤は、すぐには答えられなかった。
目の前の非現実的な状況の理解と、自らの死、そして命を落とした原因……。考えることが多すぎて、頭が回らない。
「後ろを」
見かねたように、航の手がついと潤の上を指差した。つられて視線をやり、ああ……と息を吐く。
バイトの帰り道、衝動的に手をかけて飛び降りた橋は、はるか上空にあった。考える、必要すらない。
「……間違い、ないです」
気付けば潤は、そう言葉を返していた。それはまるで、唇から勝手に音が出たような感覚だった。
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