雨の匂いと共に。

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雨の匂いと共に。

 人々が行き交う名古屋。午後六時数分過ぎ。半分空が、美しく橙色に染まるはずだった。  会社から出た俺は、大雨により、空は怪しい灰色に染まっていたことを知る。ぱしゃ、ぱしゃ、と速度の早いリズミカルな音に混じり、靴が地面を踏み込む音が聞こえる。それに合わせ、俺は大きな漆黒の傘を、花を咲かすように開く。いつもの乾いたアスファルトは、雨水や泥で汚れていく。  足を、入れる。瞬間的に靴は濡れ、傘をせわしく雨が打ち付ける。  そんな情景に、俺の心は濡れていく。失恋したわけでもなく、深刻な悩み事があるわけでもなく、ただ憂鬱な気持に染まる。雨のせいで、憂鬱になったわけではない。雨は俺を、素に戻すだけなのだ。 いつもの輝いた俺を、湿った暗い俺に戻し、作り物にすぎない俺の風姿を、流してくれる。    そんな俺の心を照らすように、女が一人、ゆっくりと歩いていた。今や、止むことを忘れてしまったかのように降り注ぐ雨は、傘を持たない女を容赦なく濡らしていく。  人々は目もくれず、早歩きで女を抜かす。幾度か女にぶつかった者はいる。だが女は、人の渦に抗うようにゆっくりとしていた。それは惨めで、落ちぶれているような姿。幽霊のように、いるかいないか分からない存在。青白い肌が、一層その印象を強くする。  しかし、どこか色気に満ちていて、喉が衝動的に乾く。一粒、一粒、又一粒と落ちていく雨は漆黒の髪を艶やかせ、女が立っている所だけは特別な雰囲気を漂わせる。      女に興味をもち、すれ違い様顔をじっとみつめると、果てのない遠くを見つめている湿った瞳をもっていた。ごくっ、と唾を飲むと、細胞が全身を暴れ回るように、鳥肌が立った。  ーー吸い込まれる。そう感じた時はもう遅い。己の心は女を焦がしていた。
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