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 枕木柾雪は幸せを享受できるだろうか。  彼の呪物とも云うべきシロノ王子の操り人形は、不慮の落雷に遭い無惨に焼け焦げてしまった。その原因は無様な着ぐるみにある。職場としていた幼児向け番組でその外側とは共演していたが、今枕木が用があるのは、あの時あの中に入っていた人物だった。愛しいシロノの無惨な姿に哀しみばかりが肥大していく。  是正しなくてはならない。  その方策は単純だ。  復讐。  沓形響とは陰険で尊大、付き合い難い類いの人間であるが枕木は感謝していた。沓形のお陰で愛すべき存在との一体感を高めることが出来、そして、復讐すべき相手の名も聞き出すことが出来た。 「東城弓子」  東城弓子はキルスイッチだ。  枕木柾雪もキルスイッチだ。  枕木は当然確かめた。キルスイッチがキルスイッチを殺すのは差し障りがあるのではないのか。沓形はないと云い切った。 「出来損ないを放置するのは好きじゃない」 「まるで野菜か果物のようじゃないか」 「何だ、癇に障ったか」 「大いに。廃棄処理なら自分でやればいい」 「あんたが断るなら、俺が行くさ」 「いや、当然シロノの仇は討つ」  東城弓子。  元保母。四十を越えた現在でも美しい外見をしているが、若い男に騙され借金を背負わされた過去がある。今はどうにか返済も終わり、女一人細々と生活している。惨めさがあり同情を禁じ得ない部分もあるが、それとこれとは別だ。  愛しいシロノを黒焦げにした人間を、枕木は許さない。   枕木は大きな鞄とともに移動する。  弓子もまた大きな鞄を抱えて、銀行から出てきたところだった。 「そんなものを抱えて逃げるつもりか」  弓子は目だけで下を見、そして戦慄く唇を隠すように赤いマニキュアの塗られた指先で覆った。 「着替えろ、待ってやろう」 「着替える?」 「その鞄の中身にだよ。そうしないと力が発揮できない、違うか」  弓子は青ざめる。 「ど、どうして」 「シロノが夜毎泣く。痛い痛いと泣く。辛いのだ」  枕木は飽くまで淡々としている。 「早くしろ」  行き交う人。広い歩道の端と端で言葉を交わす男女など、誰も気に留めない。 「早く、するのだ」 「少し待って」  逃げようにも弓子は大荷物を抱えている。それを捨てて走れば或いはチャンスもあったかもしれないが、弓子にその選択肢はなかった。夢も希望も愛もない弓子にとって、今や抱え持った荷物はとても大切な生きる支えだった。 「せめて何処かで」 「此処で済ませろ」  枕木の目は暗く燃えていた。既に復讐は始まっている。  羞恥。  それは完全な辱しめだった。  小規模都市と謂えど駅前の昼下がり、雲ひとつない晴天、人通りはかなり多い。そんな中で弓子はキルスイッチとなることを強要された。拒めば死、受け入れれば或いは生存の光が幽かに灯る。  弓子は抱えた荷物を下ろすと一度懇願するような眼差しを枕木に向けた。枕木の冷えて固まった顔に変化はない。弓子は諦めて大きな鞄一杯に詰め込んだ異物を取り出す。頭から手先足先迄一体化した人型の人工毛皮。道行く人は通りすがりにその奇態な衣装を横目に見るが、それはその程度のものだ。  衣装に袖を通そうとする弓子に、枕木は云う。 「聞いた話と違う」  弓子は震える。震えが止まらない。 「他人の体臭に執着している。貴女はそうした人間。その欲求を満たす為、その、非常に汗臭そうなそれを身に付ける時、貴女は全裸になると聞いた。より強い一体感を得る為に」 「いや、です」 「聞こえない」 「こ、こんなところで無理です」 「私は何処でも平気だ。何処でだって彼と一体になれた」  今は痛ましい姿のシロノ人形。  弓子は首を振る、拒否をする。 「ならば座して死ね、運命と受け入れろ」  枕木の狂暴性が、痩せこけた頬の影に垣間見えた。弓子は嫌だ嫌だと繰り返した。  ぞろり、枕木はシロノの人形を取り出すと、焼け焦げた箇所を摩った。摩るたび触れるたび、枕木の目の色が濃くなっていく。  弓子は涙目になりながら、着ていた服を一枚また一枚と脱ぎ捨てていった。流石にそれには周囲も強い反応を示す。驚く者、嫌悪する者、悦ぶ者、無関心を装う者、しかしその多くは関わりたくないのだろう足早に通り抜けていった。  枕木は見ていない。興味がない。目的は辱しめることのみ。 「ぬ、脱いだ、脱いだから」  声が震えている。目には涙が溜まり、強く噛んだ下唇から血が滲んでいた。 「随分生意気な口の利き方を」  誰かが警察を呼んでいる。当然だ、街が乱れている。 「あまりそうした口を利くと、私の気が変わってしまう」 「す、すいません、ごめんなさい」 「全く、プライドはないのだな」  違う、弓子にもプライドはある。そのプライドは、体面を保つことよりも、生き続けることに強く作用しているだけだ。 「名前は?」  知ってるだろうに! しかしもう口応えはしない、事態が悪化するだけと理解した。 「と、東城弓子、」 「聞こえない」 「東城弓子!」 「年齢は?」 「よ、四十一才っ」 「職業は」 「アルバイト、です」 「二十年前は?」 「保母を」 「十年前は」 「え、あの、」 「誰も聞いてやしない、誰も君の言葉など興味ない」  そんなことはない、興味津々に事態を見守りあまつさえ動画撮影している者もいる。 「え、AVに」 「エーブイとは」 「えっ」 「説明してくれ」 「本気で云ってるの?」 「説明を」 「あ、アダルトビデオ、今はそういう云い方をしないのかもしれません」 「よく知りもしない相手と性行為を行うのみならず、行為自体を撮影し複製、不特定多数の人間に金銭と交換に配布する。合っているかな?」  弓子は下着を握り締めたまま俯いた。 「君はそれに関わっていたと云うのだな。スタッフとしてか、それとも演者か」  出演してましたと弓子は叫ぶ。大声を出しても何も変わらない。 「母親と云う設定で、息子役の男優さんと」 「そこまでは聞いてない」 「嗚呼」  満足したのか飽きたのか、枕木は弓子にキルスイッチとなるよう告げた。弓子は従うしかない、元々生き残る望みを其処にのみ見出だしていた。  枕木は枕木のまま、人工毛皮に身を包んだ弓子を殴った。素手で何度も殴打した。籠った悲鳴が漏れることなど気にも留めず、体勢を崩したシルバーマウンテンは腹を背をいいだけ殴られ蹴りつけられた。  気を失う寸前で枕木の猛攻が止んだ。  枕木は着ぐるみの頭部を鷲掴みにし背中のファスナーを下ろすと、中から本体の顔を引き抜いた。汗で化粧の剥がれた顔を曝される。 「白粉が溶けてドロドロだ、年齢の割りに若く見えていたのは化粧がうまかったせいだな」 「嗚呼うう」 「何故化粧をする、何を隠す何を誤魔化してる! 昔から理解できなかった。綺麗とはなんだ、世間と云う居もしない化け物の、価値観と云う無価値な基準に振り回されているだけではないのか?」  枕木は空いた片方の手で、焼け焦げた最愛の人形を引き寄せた。 「引導を渡してやる」
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