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 あの日。  数年振りに会話を交わした妹に付き添い病院に行った後、太持の心境に微妙な変化が現れた。  妹の病がどのようなものであるのか、太持はわからない。病院に向かう時もその帰りも会話らしい会話はなかった。妹からの報告はなく、太持からの問い掛けもなかった。兎も角健やかではないことはわかった。太持はだから、妹の病院に付き添った翌日、職業安定所に向かった。先ずは動くこと、それが大事だと思ったから、条件が合わずに良い仕事を得られなかったことはそれ程気にならなかった。その帰途のこと、三十人程の集団に出くわした。  見知った顔、恐らくすべて。その集団は太持の中学時代のクラスメイトであり、その集まりは所謂同窓会であろうと類推された。  太持の許には連絡は来ていない。 「行き違いだ、気にすんな」と幹事らしき元クラス委員に肩を叩かれた。  泥太宮も行こうと誘われたが、後ろに居並ぶ女性陣の表情があからさまに曇ったことを太持は見逃さない。近くの居酒屋だと元クラス委員は続ける。太持が返事を濁していると強引に店に連れ込まれた。  結局その店には三十分も居なかった。  帰宅したのは日暮れが近い頃だった。家の明かりは消えていた。  妹は出掛けたのか義理の母もいないのか。義理の父も、今日は帰りが早いと云っていたように記憶しているが、予定が変わったのだろうか。室内も真っ暗という程でもなく、家の其処彼処に薄闇が凝っているぐらいで、わざわざ明かりを点けることもない。  職業安定所の職員には明日また来ますと告げてきたが、昨日の今日では紹介する仕事とて代わり映えすまいと、太持は明日は家にいようと決めた。  足が滑った。 「濡れてる?」  廊下が濡れている。廊下の壁に強かに肩を打ち付け転倒するのは免れたが、  酷い腥臭。  太持は手探りで廊下の明かりを点した。 「栞っ」  妹が立っていた。 「栞、」  妹は泣いている。  義理の父、そして母。  血を流して、事切れている。  妹の手には包丁。その刃先から真っ赤な血液が廊下に滴り落ちていた。 「どうしたんだ? 何があった?」  わからないわからない、栞は首を振っていたが、 「お前が殺したのか?」  養父母と謂えど彼等は、太持ら兄妹に確りと愛情を示してくれた。それは二人とも感じ取っていた。だから、太持は兎も角栞は、愛情には愛情を以て返そうと思っていた。  ただ、栞の場合、愛情の高まりは殺意に繋がる。即ち栞は、義理の両親に愛情を覚えれば覚えるほど、  殺したくなる。  悩んで悩んで悩み抜いて栞は病院に行くことを決めた。  それが間違いだったことに、気づくことはない。  栞はそのままを兄に告げた。  殺人性愛。  長年自室に引き篭りインターネットばかりしてきた太持は、そうした症例、精神的病質が存在することは知っていたが、まさか自分の妹がそうであるとは思わなかった。 「だ、だったら先ず俺を殺せよ!」  太持は怒鳴った。これでは余りにも惨すぎる。幼くして孤児となった自分達兄妹を引き取り、本当の子と思い接してくれた夫婦の情愛に対する返礼がこれでは、余りにも理不尽で無惨で救われない。だから太持は、明日から俺はどう生きていけば良いのだといった思いを頭の隅に引っ掛けながら、怒鳴った。  栞は太持を見もせずに、歌うように云う。 「だってお兄ちゃんは、愛してないから」  その過去は今も太持に傷として残っている。  それは深く、癒えず、腐らず、変わらぬ痛みで太持を苛む。  結局誰も救えない。  救いたかったのか? 「救いたかった」  太持はその記憶の後、病院に搬送され幾度かの手術を受けた。何分意識がなくなった後の事であり、太持自身は何も覚えていない。それどころか、病室から連れ去られたことも、人形遣いの手に因って左胸を刺されたことも、その直後に雷に打たれたことも知らない。  気付くと救急車の中に居た。それが数年振りの目覚めだと知るのは随分後の事だ。  昏睡の患者、  連れ去り、  落雷、  マンガンの値、  そんな言葉が飛び交っていた。  混乱は感情を乱し一切の統制を失わせた。  何だあれはと運転席の救急隊員が叫んだ。 「熊?」 「違うも、モッフだ!」 「何だって?」 「キルスイッチだ!」  キル、  救急車は横転した。  車外に放り出された太持は、宙に浮かんだ状態で事故の状況を見下ろした。どうしてそこまで冷静に、否冷静でなどあるものか、息が詰まり動悸が高まり瞳孔が収縮し、  興奮した。  青白い発光。  太持は目を開けていられない。 「どうしてあの熊みたいのは、救急車の前に飛び出してきたんだろう」  熊みたいなのはその時、地面に落ちた太持に向かって籠った声で叫んだ。 「逃げて!」  雷火が事故現場を打つ。  あの人は、  あの人は俺を、  ※  化粧の崩れた顔を存分に晒した、汗と涙と鼻水にまみれた女。  屈辱、恐怖、苦痛、もう限界だった。  秘すべき欲求に素直に生きることに魅力を感じた。だから弓子は最初、キルスイッチとなった自分に悦びを覚えた。耽溺した。  しかし今は、  助けて、誰でもいい助けて、お巡りさん早く来て、助けて、ブラックタイド。  破壊者同士の小競り合いでは、正義の味方はやって来ないの?  ブラックタイドはその戦いを見ていた。しかし出ようとは思わない、窮地にあるシルバーマウンテンを救おうなどと毛程も思わない。  人形遣いストラッピングヤングラッドとキルスイッチ同士潰し合えばいい、それだけだ。 「助け、て、」 「乞うな無理だ、私の気が収まらない」  枕木は弓子の汗みどろの頬を平手で張った。唇の端が切れ、血が一筋顎先に伝った。 「キルスイッチとなることに、」張る、 「何の覚悟も」張る、 「なかったのものか」張る、  弓子はそれでも抗弁する。必死にもがく、光を求める。決して誉められた人生ではなかろうと、自分が選んでしくじった人生であろうと、容易く捨てるわけにはいかない。 「わ、私はただあの病院に相談をしに行っただけ!」 「元凶は沓形医師だとそう云いたいのか? だとしてもその格好はなんだね、その衣装をイベント会社から盗み出したのも沓形氏か? 君は好きでやっている、これ以上誤魔化すものではない」  枕木は握り拳を固め、弓子の鼻に狙いを定めた。 「殺すか、それとも修復出来ぬ程に破壊して打ち捨てるか、どうするかな」  弓子は化粧の崩れた顔を歪めて、嗚咽を漏らした。 「誰か、」助けて、  こんな惨めな女を、誰か、 「助けて!」  雷電が閃く。  白化した視界、痺れる鼓膜、  弓子は暫時世界を失った。  枕木は昏倒し、周りに居た野次馬も逃げ去っていた。  焦げ臭い。 「あ、ああッ」  枕木が倒れていた。身体から煙が上がり、呼吸もしていないようだ。雷が落ちたのだ、枕木はその直撃を受けたに違いない。  善人ではない弓子は、どうにか立ち上がり、覚束ない足取りながらその場を離れた。  翌日のニュースで弓子は、枕木が一命を取り留めたことを知った。回復し次第逮捕する方針であるとも。容疑は電車内での無差別大量殺人である。
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