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春分
······僕と彼方は空を見上げていた。その視線の先に、雲一つ無い青い空が広がっていた
。
僕は倒れていた郡山を抱き起こした。郡山は虚ろな目をしていた。僕の余計な口が、また動きだす。
「郡山。言葉ってね。信じられないような力があるんだ。僕はそれを大切な人から教わった」
郡山の生気の欠けた両眼が、僕に向けられた。
「だから僕は君に言葉を贈るよ。言葉の力を心から願ってね」
僕は目を閉じ、心を込めて言葉を発した。
「楓。君がお婆ちゃんになる頃。僕は黒猫に生まれ変わって、君の元へ現れる。その時はよろしくね」
······それは、僕が郡山の心を見た時、波照間隼人から流れ込んできた彼の心の声だった
。
千里眼は見たくも無い物を見せられてしまう。波照間隼人は、自分の未来をその時知っていた。
波照間隼人の見た未来は、彼にとって目を背けたくなる物だったのだろうか。僕はそう思えなかった。
猫に生まれ変わり、郡山の側に行く。それは彼にとって、幸せな事かもしれなかった。
「······隼人」
郡山の両目から、涙があふれ出す。冷徹な
顔は、大切な人を想う少女の顔に戻っていた
。
一面砂漠の世界に、静寂が戻った。この乾燥した世界に、また一から緑を増やして行く
。それが未来の世界の、いや、お米が食べれる世界にする為に必要な事だった。
郡山はタスマニアデビルに介抱され、元の世界へ消えて行った。僕は笑顔でそれを見送った。郡山なら、きっと立ち直れると信じて。
紅華。爽曇。月炎。三人の頼もしい友人達も笑顔で去って行った。最後は、母と娘の別れの時間だ。
「······彼方。元気でね」
「うん。お母さんも」
千の言葉を言い尽くしても足りない筈の二人は、互いにそう言うのがやっとだった。そう言えば、郡山が去り際言っていた。
彼方の母は、理の外の存在の一員になるかもしれないと。力を弱めていく理の外の存在
は、彼方の母をスカウトする為に、審判をやらせたのだろうか?
二人が抱きあった後、彼方の母は僕に言った。
「稲田君。彼方はこれから、あなたと同じ世界で生きて行きます。ですが、その世界には十八歳の私も存在しています。稲田君には酷な話ですが、あなたから彼方の記憶を消します」
······僕は、自分でも意外と落ち着いていた
。彼方の母は理の外の存在と交渉した時、
米死病を克服した彼方が、生きていく場所まで考えていたのだ。
僕に異存は無かった。彼方が死なないと分かっただけで、僕には充分だった。
「稲田祐。私が居なくて、ちゃんと訓練を続けられるの?」
彼方の両目が潤んでいる。ほんとによく泣くなあ。彼方は。
「彼方こそ、僕が居なくても平気?もうご飯は作ってあげられないよ」
僕は平静を装って軽口を叩いた。駄目だ。やっぱりこれは辛いや。
「言うようになったわね。稲田祐。砂漠で大こけする、鈍くさかったあん······」
彼方が言い終える前に、僕は彼方を抱きしめた。彼方の体温と香りが、僕の身体中に伝わって行く。
「元気で彼方。ちゃんとご飯食べてね」
「······最後の台詞がそれなの?」
僕が最後に見たのは、泣きながら苦笑している彼方の顔だった。薄れゆく意識の中で、
僕は白い着物を着た少女を見た。
彼方によく似たその少女は、笑顔で僕に言った。
『待ってるね。お父さん』
彼方を母と言い、僕をお父さんと呼ぶこの少女は一体······
僕の意識は、そこで途切れた。
······季節は移ろい、また春がやってきた。
僕は卒業式の帰り道、川沿いの桜並木を歩いていた。
僕は結局、就職しなかった。何か食べるものを作る技術を習得したかったので、取り敢えず農家さんにアルバイトとして働かせてもらう事になった。
何故か僕は、一番最初に米作りを学びたかった。何度考えてもその理由が分からない。そう言えば郡山に卒業式の時、感謝の言葉と妙な事を言われた。
待ち人現れると。一体何の事だろう?僕はピンク色に染まった桜並木を眺めていた。今日は三月二十日。暦の上では春分だ。
大いなる自然と生き物に、敬意と慈しむ心を持つ日だ。僕は桜を見上げていると、不思議な気持ちになった。
······何故だろう。何か大事な事を忘れているような気がする。
その時僕は、タスマニアデビルの着ぐるみとの訓練の約束を思い出した。時間に遅れると焦り、僕は駆け出した。
その時、とても強い風が僕の前で吹いた。
風は僕を通り抜け、どこか遠くへ消えて行った。目を開けた僕は、咄嗟に桜の木を見た。
······良かった。桜の花びらは、それ程散っていなかった。
「桜の花が散らなくて安心したの?」
声がした。女の子の声だ。僕が後ろを振り返ると、桜の花びらが舞い散る中に、純白の
セーラー服を着た少女が立っていた。
肩より長い髪。意思が強そうな両目。だけどなんでたろう。その両目は微かに揺れていた。
僕は彼女に向かって歩きだした。それは直ぐに、駆け足に変わる。何故そうするか、自分でも分からなかった。
僕の視界が突然暗転した。僕は足がもつれ
、転けてしまったのだ。頭を擦りながら、目を開くと、青い空と桜の花びらが見えた。
その視界に、僕を見下ろす彼女の顔が映った。
「相変わらずね。あんたって本当に鈍くさいんだから」
僕の頬に何かが落ちてきた。それは彼女の涙だった。僕の口が、勝手に言葉を紡いで行く。
「······彼方?」
彼女の顔は、驚きから喜びの表情に変わる
。
「······どうして分かったの?稲田祐」
それは新しく理の外の存在に加わった、彼方の母の仕業だなんて。この時の僕達は知る由も無かった。
「私がいない間、ちゃんと訓練していたんでしょうね?」
「伸び伸び出来たよ。鬼コーチが居なかったからね」
僕達は同時に吹き出し、笑い合った。
その時、僕の脳裏にあの白い着物の少女の顔が浮かんだ。
「······ねえ彼方。もし僕達の間に子供が生まれたら。その子供は、何か不思議な力を持って生まれるのかな?」
「と、突然何を言い出すのよ!この馬鹿!」
頬を赤く染めた彼方は、凄い剣幕で怒ってきた。
······未来でね。僕は心の中で、白い着物の少女に伝えた。
「ま、真面目にやりなさいよ、稲田祐。なんの為の訓練だと思っているの?」
「未来を変える為さ。やろう彼方。僕達で。
皆がお米を沢山食べれる世界にしよう」
······言葉には、信じられない力がある。僕は自分の言葉に、明るい未来を願った。
春の香りと、桜の花びらに埋め尽くされた川沿いの道を、僕と彼方は並んで歩いて行く
。僕達の歩く先。その未来に向けて。
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