五ツ目丸

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「祝言をあげれば食い納めだからなあ」 養父は二人の時は下品な笑みを隠すこともしない。 「年々良い男になりおって、手放すのが惜しくなる」 あいつも枕を濡らしておるだろうよ。続けられた言葉に、この阿呆でも妻の不貞には気が付いていたのかと思った。つい先日も、養母にはあの娘より私の方が好きよねと泣き縋られたばかりだ。女というものはいくつになっても女の性から抜け出せないらしい。 「まあ、これからも楽しみは増えるが」 俺の股座に顔を埋めながら呟かれた言葉が、妙に頭に引っかかった。 散々養父に好きにされた後。 音を立てぬように廊下を歩く。深夜独特の香りが漂い、どこかで雨の音が聞こえていた。とある部屋の障子を開けば、布団の中で小さな膨らみが出来ていた。艶やかな黒髪を下ろした時子の顔は、暗がりなのでよくは分からなかったが、何かに酷く怯えていることは伝わった。 俺が来たことに気づいているのかいないのか。近寄ってもなんの反応もしない。 俺は狂人のようになっている彼女を布団から引きずり出して抱き上げた。 時子は目を覚ました。 辺りは冷たい土壁で囲われ、所々木の柱が張り出している。土の匂いに混じって獣臭さとこびりついた鉄臭さがつき、顔を顰めた。 ここは一体どこだ。少し離れたところから橙色の明かりが見えた。首を向ければ、ランプを片手に持った旭彦が古びた木連格子と向き合い佇んでいた。 ――旭彦様? ふと、ずるずると何かの這う音が聞こえ時子は恐る恐る顔を上げた。 「ひぃ」 そして、それを見た。 蜘蛛の足に似た毛むくじゃらの触手。それが何本も格子の隙間から伸び、旭彦の体にまとわりついた。 悲鳴を上げたとき、格子の向こう側から大きな目が五つ、ぎょろっと開いた。 「起きたのか」 声を失い、地面の土を掻き毟って逃げ出そうとする時子に旭彦が声をかけた。 「は、え…?」 「お前の精神が手遅れならば井戸に捨てるつもりだった」 「なにを、旭彦様…」 「正気を失いかけるようなことをされたらしいな」 「あ…」 時子は忘れていた記憶を思い出し、げぇっと胃液を吐き出した。酸の臭気が瞬く間に広がった。もう思い出したくもない。 旭彦は地面に伏せ泣く時子には目もくれず、猫を撫でるような手つきで触手を撫でていた。 「出ていけと言ったのに出ていかないからそうなる」 「む、無理です、そんな、出ていくことなんか出来ません。私が逃げたら家が、家族が…」 「なら勝手に孕まされ死ぬまで殴られるといい」 ひくっと喉を鳴らし、時子が顔を上げた。 「助けてくれないの」 「俺はお前に興味が無い」 時子は恨み言のように暗い声で吐き捨てた。 「鬼のような人」 初めて見た時から恐ろしかった。旭彦は全ての人を人として見ていないような、そんな目をしている。 折檻される己の姿を見ても何の反応もせずに通り過ぎる姿を見た時、この男はきっと何かが欠如しているのだと思えてならなかった。 「俺が鬼か」 時子の冷罵に、旭彦はくっと口端をつりあげ笑った。初めて聞く旭彦の笑い声は低く美しかった。 「それはいい。なあ、五ツ目丸」 旭彦は格子の向こうにいる異形を五ツ目丸と呼び、愛おしそうに撫でた。 時子は五ツ目丸に目を向けた。旭彦は乱雑に地面に散らばった赤黒い紙を拾い上げた。 「この家はこいつを封じ、こいつの力を使い栄えてきた」 時子は幼い頃、父から聞いたことがある。地主の祖先は遠い遠い昔に悪鬼を封じたことで皆に崇められるようになったと。これがその悪鬼…? 五つの目が時子を見据えたと思った途端、触手が伸びて時子の腕に絡みついた。 「ひ、ぃや…っ!」 悲鳴を上げかけたのは束の間。時子は自分の体がすうっと軽くなるのを感じ、息を飲んだ。 先程まで感じていた嫌悪や胃の腑の不快感が消えていく。 「ここへお前を連れてきたのは正しかったらしい。五ツ目丸が喜んでいる」 五ツ目丸は時子が聞いたこともない鳴き声をあげる。格子の向こうで歓喜に打ち震えているようだった。 「明日の日が昇る前に家を出ろ。家族共々どこか遠くへ逃げるといい。このまま残れば俺と同じになるぞ」 「わ、私のどこが貴方様と同じだと言うのです…」 旭彦はふ、と鼻で笑うとゆっくり自分の寝間着の裾を捲りあげる。時子は目を見開いた。 旭彦の内股から零れる白濁の液体。白く変わった彼女の唇がうそ、と小さく動いた気がした。 「逃げなければ希望はない。俺は幼い頃からそれを知っている」 「で…でしたら……旭彦様も…旭彦様こそ逃げましょう。すべて忘れて、どこか遠くへ…」 時子の提案に旭彦は目を細めた。 「なぜ逃げねばならない」 いつか養父がこの家には鬼が住んでいると言っていた。子供の頃は五ツ目丸ではなく、お前らこそが鬼なのだと心中で思っていた。 「ようやく復讐が出来るのに」 いつの頃からか、俺は憎しみと復讐に取り憑かれた。あいつらを殺さずして俺が生きていく道など有り得ない。 時子は正しい。俺は鬼だ。 俺こそが、この家を食い潰す鬼だ。
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