五ツ目丸

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「そこ、間違えていらっしゃいますよ」 ぴしりと教鞭がしなり、俺の右手を打つ。 赤く蚯蚓腫れになった手は既に感覚がない。 「養子だからと言って甘やかさないようにと旦那様から言われております」 俺は何も言わず筆を取り直して教育係の言う通りにやり直す。今度は先程よりも強く鞭がしなった。 「ああ、ほら、また。どうして出来ないんです、貴方は。そんなことでは当主になどなれませんよ。わかっていらっしゃるのですか、旭彦様」 けたたましい鳥のような声が部屋を埋め尽くし、頭の中を流れては消えていく。 「外に…」 「はい?」 「外にでたい。ずっと家の中は嫌だ」 「何を仰るかと思えば」 教育係が額を押さえて大仰に溜息をついた。 「貴方は選ばれた幸運な方なのです。旦那様と奥様に感謝をなさって、以前の生活は恥と思いなさい。貴方には人一倍の努力が必要なのですよ、外で遊ぶ暇などありません。さあ、分かるまで続けますよ」 じんじんと痛む手でもう一度、筆を取り直した。 「旭彦様ってちっともお喋りにならないし、笑いもしないんですって」 「なんか気味悪いわよね。旦那様はなんであんな子を養子に…」 「あ、しっ!」 青ざめる女中たちの噂話なんて興味も湧かない。わざとたむろする彼女らの間を裂くように通っていく。懲りずに背後からまだ話し声が聞こえてきた。 「どちらに行かれるのかしら」 「詮索はやめておきましょ、旭彦様はほら、お育ちが違うから変わっていらっしゃるのよ…」 ここは本当に嫌な屋敷だ。揃いも揃って、嫌な奴ばかりだ。 「お前もそう思わないか」 格子の向こう側にいる毛玉に声をかける。毛玉ははぎょぐぐ、とよくわからない声をあげながら鳴いた。 「そうか」 肯定と取れる鳴き声に俺は笑った。 五目丸を初めて見たのは十二。既に俺は十五歳になっていた。 「五ツ目丸」 優しく呼びかければ五目丸が毛むくじゃらの触手を格子の隙間から伸ばしてきた。頬を撫でるそれに手を添えて微笑む。 目が五つあるから、五ツ目丸(いつめまる)。俺が付けた名だ。 五百年間に封印されたという五ツ目丸は元はこの辺りの土地神だったらしい。書庫で見つけた過去の文献にはさも素晴らしい武勇伝のように記されていた。 悪鬼を封じたとでも言いたいのだろうか。 俺に言わせれば五ツ目丸が持つ土地神の力を独占しようと私欲の為に封じ込めただけにしか思えない。そしてその上に屋敷と社を建て、先祖はこの地に住まう者たちから崇め奉られながら地主にまで上り詰めたという。この家の人間がやりそうなことだ。業の深い血族め。 「この家に住む鬼はあいつらの方だ」 かわいそうな五ツ目丸。元々はきっと穏やかに暮らしていたのだろう。 初めて見た時から感じていた思いは五ツ目丸を知る度に強く度合いを増していく。こいつもこの家に閉じ込められているのだ。 何が感謝。何が気味が悪い。勝手に連れてきて、勝手に閉じ込めて、勝手に罵って。 ガツンと格子に拳を叩きつければ、五ツ目丸がするすると赤くなった手を撫でた。不思議と気が安らぐ。 「今にそこから出してやる、そうしたら…」 俺達は何もかもが似ている。閉じ込められている窮屈さも。理不尽な扱いに耐えねばならない怒りも。どう足掻いても抜け出せない苦しみも。 この家の者全て、殺したいほど憎んでいることも――…。
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