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ある日の放課後、俺と弘也は安藤小春の家に来ていた。
手かがりへの期待はまるでない。葬式の時に一緒に行われる物渡しで、最も徹底的に遺物処理が行われるのが故人の住居だからだ。とは言え、詮索を始めて数日、唯一得られた情報が安藤小春の実家の住所だけだったのだから仕方がない。
昨日、安藤小春の父を装い葬儀場に電話を入れたのは弘也だ。「先日の式の際にネクタイピンを落としたので、見つかったら着払いで郵送して欲しい。住所は既に伝えてある通りだ」と伝えると、親切な電話口の女性は、確認の為に恐らく顧客名簿に書かれていたであろう住所を読み始めた。弘也がしてやったりの顔をした時、俺は小さくナイスと言った。
二階建ての洋風の一軒家。ここに彼女が住んでいたらしい。
庭の一角で、花壇の花が綺麗に咲いている。その隅に置かれた小さなスコップで丁寧に手入れされているようだ。花壇や庭だけでなく、家の外壁でさえ小まめに手入れをされているのがよく分かる。そうした美しさが、反対に物寂しさを助長しているように見えるのは、俺がこの家の娘の死を知っているからだろうか。
家の外観を観察していると「どちら様?」という声が後ろから投げかけられた。はっとして振り向くと、買い物袋をぶら下げた中年の女性が不思議そうにこちらを見ている。
「あ、小春さんのお母さん」
弘也はいかにも好青年といったさわやかな声で、瞬時に応えた。聞き慣れないその口調は気味が悪かったが、同時に上っ面の良さに感心する。
安藤小春の母親であるというこの女性は、この家と同じように清潔感に満ちていた。胸元の名札には『安藤夏江』とある。
「あぁ、小春と同じクラスの。この間のお葬式では手伝ってくれてありがとうね」
どうやら弘也とは葬式で顔を合わせていたらしい。
弘也と安藤夏江は親しい間柄のように話を始めた。これも弘也の人当たりの良さなのだろうか。安藤夏江は笑顔まで見せている。気付くと俺たちは、安藤家のリビングでお茶を飲んでいた。
家に上がっても相変わらず、二人は「庭のお花綺麗ですね」「ええ、やっと綺麗に咲いたの」などと世間話をしている。カメラマンってのは被写体の表情を引き出す為にコミュニケーション能力が高くないとダメなんだぜ、といつか弘也が言っていたことを思い出した。
二人が話をしている間、俺はこっそりと安藤家のリビングを観察していた。外観と同じで、綺麗に整理整頓されている。手がかりは、やはり全くない。と言うか、仮に手がかりがあったとしても、どうすればそれに気付けるだろうか。
無駄な観察はやめ、俺は安藤夏江を見た。記憶がないのだから当たり前だが、弘也と談笑するその女性が、数日前に娘を亡くしたとは思えなかった。
怪訝な表情をしてしまっていたようで、安藤夏江は俺に目をやると、眉をひそめるようにして笑った。
「自分の娘が死んだのになんでそんなに元気なんだって思ってるでしょ」
「あ、いえ、そんなことは…」
「いいの。自分でもそう思ってるから。でもね、驚くほど記憶がないのよ、自分の娘なのにね」
お茶を少し飲んで、安藤夏江は続ける。
「きっと私のことだから、小春が生まれた時、この子を忘れることなんてない、と確信してたと思うわ。あなた達のご両親も同じよ。親というのは、愛するわが子が自分の中から消えてしまうなんてあり得ないって思うはずだもの」
だけど本当に消えてしまった、と安藤夏江は自分に呆れるように笑う。
「あの日、突然警察が家に来て、娘さんが亡くなりました、と小春の名札を渡されたの。でもね、その時にはもう自分に娘がいたことなんて覚えてなかった。二階に小春の部屋があるんだけど、私や主人と違って使った物を出しっぱなしにする子だったみたいで、お世辞にも綺麗な部屋とは言えなかった。そんな部屋を見て、初めて娘の存在を信じたくらいよ」
俺は5年前に母から聞いた話を思い出す。ある日、母が家に帰ると、知らない男が家で倒れていた。 母は恐る恐るその死体の名札を確認し、ようやくその男が同居していた自分の父親であることを認識したそうだ。安藤夏江が話すその状況は、きっとそれに似ている。
「悲しいって気持ちはあるのよ。でも、この悲しさは、母親なのに何も思い出せない自分に対してだと思う」
興味本位で安藤小春の家に来てしまったことを後悔した。安藤夏江にこんな話をさせたかったわけじゃない。俺は、無責任だと分かっていても、声をかけずにはいられなかった。
「『死に忘れ』は誰かの死を乗り越える為の防衛本能だって言われてます。悲しまなくても誰も責める人はいません。それなのに自分をそうして責めることは、その、なんていうか優しいなって思います」
安藤夏江は、小さく頷く。俺の話は、きっと何の救いにもなっていないだろう。
「僕ら、小春さんの友達だったみたいなんです」
「そうよね。だからここに来たんでしょ。でもまさか、覚えてるわけじゃないよね」
安藤小春が死んでから記憶が断片的になくなっていることを伝えた。その記憶の欠如が友人だった証だ、と。流石に写真のことは言えなかった。
「記憶がなくなっている量を考えると、多分長い時間を一緒にいたと思うんです。故人の詮索がいけないということは分かっているのですが、どうしても知りたくなってしまって…」
安藤夏江は、俺と弘也の制服の名札に目をやってから、さっきと同じ優しい口調で答えた。
「朝霧斗真君。あと、泉弘也君」
呼ばれた名前に応えるようにして、弘也と俺は小さく頷く。
「二人ともありがとう。小春のことを知りたいと思ってくれていること、私は全然気にしてないわ。この国では詮索を禁じられているけど、それを許されてる国もあるんだし。私も若い時は、死んだ人がどんな人だったのか気になったことあったもの。それより、もういなくなってしまった娘の為にこうして来てくれたことが嬉しいわ。小春を想うあなた達の存在が、私に娘がいたことの証明になるから」
安藤夏江は、そう言って俺達に頭を下げた。素直に感謝を受け止めるべきか分からなくて、黙ってしまう。
結局俺はそれに何も答えられないまま、弘也が代わりに安藤夏江と話を始めた。
帰り際、安藤夏江が「こうして楽しくあなた達とおしゃべりできたのは、『死に忘れ』のおかげね」と言ったのが、やけに印象的だった。
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